名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (6)
今井 聖
「街」100号より転載
日のくれと子供が言ひて秋の暮
高濱虚子『六百句』(1947)
なんだこりゃ。
ヒノクレトコドモガイイテアキノクレ
虚子は神格化されているのでなんだこりゃ句があっても、寄ってたかって信者たちが言い募りマトモな句に仕立て上げてしまう。牽強付会。中にはとんでもない名句を彼らの通念的な視点で過小評価してる場合がある。問題なのは信者が十全な評価と思っている場合だ。これを贔屓の引き倒しと言う。
ここであらためて言っておきますが、僕は世評の高いさまざまな大俳人たちの悪口を言うためにこの欄で重箱の隅をつついているわけではありません。そんなふうに誤解をする人がいると悲しいです。
なんだこりゃ句というのは試行を重ねる大俳人ならではのヘンテコ句のことであり、その痕跡を学ぶことで我ら後進にとっての学びの糧とすることが出来る。
エラーをしない名手はいない。三振をしないホームラン王はいない。なんだこりゃ句の無いような俳人は三流と言ってよい。失敗や勇み足の危険を冒さずして新境地を拓くことなどどんな天才でも無理な所業。言い換えればこの欄に登場しないような俳人は取るに足らない。
僕が最大限に評価する俳人だけがこの欄に登場することが出来るのである。
この句、牽強付会の信者たちは、子供が日のくれを言ったことで虚子の胸中に寂寥感や孤独感が湧き起こったとする評がほとんど。その感じが折りしもの秋の暮につながるのだと。
違うなあ。
あのね、「子供」っていうのは通常小学校低学年くらいをさします。そのくらいの子が、日のくれっていいますか、ふつう。
「日のくれだね、父ちゃん」
「もう日がくれるよね、お父さん」
「日暮れだな、父ちゃん」
「日がくれたね、みんな」
ガキはそんなこと言いません。どんな偏差値の高い小学生でも。
日のくれって書いてあるから日のくれって言ったとは限らない。いろんなパターンを要約して虚子が書いているかもしれない。しかし、どういう言い方にしても尋常な発言とは思えない。子供はふつうはそんなことは言いませんよ。
だけど、実際に言ったんだな、虚子の前で、日のくれって。
虚子は驚いたんです、その言葉に腰を抜かさんばかりに。
「秋の暮」の寂寥感じゃなくてその「驚き」がこの句の核心じゃないか。
それは不思議としか言いようのないことだ。
筆者にも経験がある。いままではしゃぎまくって遊んでいた小三くらいの頭の悪そうなガキが突然ふっと「遠くの山がきれいだね」って言ったのを聞いた。大人である僕は驚いたね。
子供にはどこか神がかりなところがある。
この欄で以前に「林檎一顆撫でて孫曰ふ「はいつてる」」
という草田男の句を取り上げたことがある。林檎を撫でて「はいってる」と子供が言ったとき草田男は仰天した。それと同じじゃないか、この句。
子供の聖性。それを感じたに違いない、虚子は。
苗床にをる子にどこかの子かときく 高野素十
螢獲し子に螢かと問うて寄る 山口誓子
素十の句、新潟のど田舎の苗床にいる子がどこの子かわからないはずがない。風の又三郎じゃあるまいし。しかも六十年以上も前のこと。世帯数は極めて少ない。素十はわかっていて聞いているのである。
誓子も螢とわかっていて子に螢かと問う。聞いているのはどちらも「大人」の方からの行為だけれど、それは子供という無垢の存在によって引き出された問い掛けである。通念としての子供の表面的な可愛さとか純真さではない。命の深遠に根ざした「不思議」と言えよう。
虚子の句も同じ趣旨。
考えてみれば「客観写生」というのは「ありのまま」を映し取ることで存在の深遠に触れることを意図したのではないか。
多くの俳人は日本古典に根を置く思想や情緒として花鳥風月の本意を論じるが、子規が気付いた「写生」の本質は「在ることの不思議」をそのままぐいとつかみ出すこと。
「日のくれ」はどこか遠いところある「存在」が子供の口を借りて発した言葉である。
なんだこりゃこそ学びの宝庫。
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1 comments:
冴えてらっしゃる。
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