〔ハイクふぃくしょん〕
金魚
中嶋憲武
『炎環』2014年1月号より転載
タカミさんは花のような欠伸をした。このところ連日の気温が三十度を超えていて、ぼーっとしてくる。休暇がタカミさんとたまたま一致したので、そんなにお金のかからない遠くへふらっと行ってみる気になった。タカミさんの部屋を出た時は、そうでもなかったけどじりじりと気温が上昇しているのが分かる。わたしのぺろんとした花柄のワンピースは既にじっとり汗が滲んでいる。タカミさんの黒いキャミソールも背中の汗で更に黒くなっている。
上野から特急に乗って、三つめの駅で各駅停車に乗り換え、一つめの駅で降りた。駅前に酒屋と不動産屋と煎餅屋が並んでいる。真上から強い太陽光の直下している通りには、誰も歩いていない。きっと、暗い室内からわたしたちの事を見ているのだろう。視線を感じる。タカミさんの生れた町はそんな町だ。
タカミさんの部屋で、敷き蒲団に横になっている時、裸の背を向けたまま、どっか行こうかとタカミさんが言った。わたしは、タカミさんの栗色の豊かな長い髪を見ながら、タカミさんの生れた町に行ってみたいとぽつり。なあんにもないところだよとぽつり。わたしたちの会話は、いつでもぽつりぽつりだ。
申し訳程度の商店街を抜けると、小さな神社があって、その隣に古びた映画館があった。
「ロ、ヤル劇場。ローヤル劇場」
「ロイヤル劇場だよ」
ファサードの廂に一文字ずつ並んだ看板の、劇場名のロとヤの間がどうしたものか一文字欠損している。変ってないなあと呟いて、タカミさんは映画館の屋根と、隣の神社を見比べるように眺めた。神社と言っても小さな鳥居の祠があるだけで、ブロック塀で囲われた広場のような感じだ。なぜか火の見櫓も立っている。ここでよくドッジボールなんかしたのよね。言い方がかわいい。タカミさんのこの喋り方、つくづく好きなのだ。その喋り方で、映画でも観ようかなど言うものだから、かんかん照りから逃れるためには打って付けかもねと、わたしは気持ちとは裏腹に、ちょっと気取って返事した。映画は七十年代の青春映画三本立てだったけど、わたしは映画なんかどうでもよかった。出来るだけ多くの時間を共有する事こそ重要だった。
ほら、あんなところに。タカミさんがポップコーンを買った売店のレジスターの傍に、金魚が泳いでいた。広口の瓶に水草がくねって、小さな金魚が一匹、物憂げな貌をしてゆっくりまばたきをした。
ようやく三本観終わって後味の悪い思いで映画館を出ると、夜だった。映画なんて観なけりゃよかったねとタカミさんは言った。わたしは曖昧に微笑んだ。
特急の停まる駅へ戻り、駅前の旅館に泊った。タカミさんはぐっすり寝ていたけれど、わたしは眠れない。昨夜のタカミさんの肌の感触や乳房の温みがまだ残っていて、寝返りを打ってばかりいた。タカミさんに疎まれるのが嫌で手が出せない。壁を見つめていると、ふと昼間見た金魚の事を思った。あの金魚は今頃、誰もいなくなった暗闇に、まばたきをしているのだろうか。
名画座の柱の太し盆休み 三輪初子
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