【週俳8月の俳句を読む】
視界を借りる
井上雪子
八月、光が濃い分、影も濃い。週俳八月の俳句に「原爆忌」「戦争」という語たちは見当たらない。それは、先の大戦を知らない子どもたちのその子どもという世代の意志であり、それぞれの眼は今ここにある生と死を捕え、生半可な何かを削ぎ落し、立っているように思う。
木曜の山羊よこたはる暗さかな 青本瑞季
夏木光足りず黙禱のまなうら 同
鳥の屍より甲虫光る、臭ふ 同
光を見つめつつ、五感は生と死の気配を捕え、とてもシャープな語感。見えてしまう、意識になってしまうものを、文字/言葉としての揺らがない構図にフィックスさせ、味わい深いモノクロ写真のようだと思う。光の足りない黙禱か、黙禱のまなうらか、多くのこと遠くのものと繋がる長さの定かではない時間のように、定かではない表現がその瞬間としてここにある。死は悪ではない、けれど私の時間へと目を開ける時、光は痛みのようにやって来るのだろう。「光る、臭ふ」、光速で切る連写のシャッター音(というのが感知できるかは知らないけど)みたいだ。
炎から遠巻きにゐる秋の蟬 江渡華子
棒読みの防災無線南瓜切る 同
静かに居る姿かたちを持たないものを感じとって、その視界を借りてきたような景だ。「いつ、何が、誰が」は描かれないので、感じとることそのものが読み手側の方へそっと押されてくる。事実にことばの箍(たが)をはめたくないというような意志があり、説明をしてほしいと思わせない。冷淡にもみえてどこか可笑しみも漂う。遠巻きでいいのか、棒読みでいいのか、南瓜を切っていていいのか、それは自分に問うことよと、そっとささやく誰か。
牙生えてきて黙しをる夏野かな 藤井あかり
落蟬をひとつだけ弔ひにけり 同
牙? 育ってきたらしきそれが何なのか、景を見せないことが見渡すことのできない夏の野であり、美しい。そして、すべて死んでしまう蟬たちのひと夏を弔うとき、幾年かの土の中、幾日かの夜と昼、蝉となり蝉の声として生きてみる。ひとには見えないものを見ることを楽しむような明るさ、瓜の馬とだってきっと遠くまで行けるねって言うように。「黙秘」というタイトルが言わないという静かさのなかで自立している。
ヤギの乳あらはにあきらかに夏だ 宮﨑玲奈
たしかな蟬がたしかに死んでゐるそこで 同
ヤギの乳、落蟬、ここにある身体は、意味のない解説や結論など、はなから探したりせずに、死に生に、おおらかにゆっくり向き合い続ける。どうすれば「感嘆/詠嘆」がやって来るのでしょうかと問うようにありのままを文字にし、自分を揺さぶるかのようにひとつひとつを確かめている。自動〇〇・△△センサー、バーチャル化が進み、ひとの感覚機能は退化せざるを得ないが、スポーツなどでは驚異的な身体能力の進化も続く。共通の認識の足もとが緩んでも、繋がる命たちは幸福に向かってすこし笑っているように見える。
子は生まれいつかは死ぬる油蟬 柴田麻美子
血管の透ける乳房の汗ばめる 同
自分の身体をつぶさに捉える妊婦さんのリアルだ。母親という覚悟を育てながら、刻々、新しい生命を抱えている驚きや喜びや不安を受け入れ、体温高めの俳句たちが生れる。汗の乳房、今の自分にしか見えないものを伝え来る、その率直な強さが輝いている。
八月のラジオ海流のぶつかる音 大塚凱
夢は雲のはやさで忘れ水澄めり 同
八月のラジオ、玉音放送を思うかラジオ体操第一を思うか、海流のぶつかる音が耳の奥から離れなくなる。忘れられた夢は誰の夢なのか、昨今の夏雲は停滞長々しいが、移ろうことを常とし、美とするこの国の長い時間を一掴みに掴む長い腕、時にバスを待ち、時に駅で待つ、旅の途上にあるひとの。
第432号 2015年8月2日
■宮﨑玲奈 からころ水 10句 ≫読む
第433号 2015年8月9日
■柴田麻美子 雌である 10句 ≫読む
第434号 2015年8月16日
■青本瑞季 光足りず 10句 ≫読む
第435号 2015年8月23日
■藤井あかり 黙秘 10句 ≫読む
■大塚凱 ラジオと海流 10句 ≫読む
第436号 2015年8月30日
■江渡華子 目 10句 ≫読む
■中山奈々 薬 20句 ≫読む
■中谷理紗子 鼓舞するための 10句 ≫読む
2015-09-13
【週俳8月の俳句を読む】視界を借りる 井上雪子
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