名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (16)
今井 聖
「街」110号より転載
尾をふりて首のせあへり冷し豚
三条羽村(さんじょう・うそん)『虚子編新歳時記 増訂版』(三省堂)
なんだこりゃ。
オヲフリテクビノセアヘリヒヤシブタ
三条羽村は一九五六年に『かさゝぎ』という句集を出している「ホトトギス」の俳人。この句集に虚子の序句を戴く。
俳句に季語が必要な根拠は何か。
これについては俳句が発句として連歌連句にその源を発していることから、雪月花に代表される季節の在り方が基本であったこと、ひいては日本や日本人との季節との関りが民族的定型詩俳句にとって本然的であるということ、そしてその「季節」というのが二十四節気というのを基準にしていることなどがよく言われているところである。
俳句と季節というものの関係が密接であってそこを俳句の根拠とするという言い分はわかる。
わかるが、では、季語というものが
①誰が定めて、何処に記載されているのか。
②そこに記載されている「季語」以外は季節の言葉としては認められないのか。
ということについてはどうなんだろう。
①は虚子。虚子編の歳時記に載っているものだけが「季語」であるという常識にホトトギス派はもちろんのこといわゆる伝統派も誰も異を唱えない。(他の歳時記でも可という立場を取る人もあるがまあ大同小異だ)
②については「そこ」に載っている季語以外は認められていないのが実際だ。
現実、草花の名称などを見て、あれっこれは季語になってるんだっけといって歳時記を開いて調べ、載っていないと「これじゃ季語にならんなあ」と言及するのが主宰者クラスの俳人だって実情だろう。季語にならんということは俳句にならんと同義である。
前段の俳句の季節の関係についての言い分はわかるとしてそこからどうして①と②につながるのか。
これは論理的に無理でしょ。これは変だと思う伝統派俳人が出ない方がおかしい。宮坂静生さんなどは地域に根ざしたその地独特の「地貌季語」の発見普及に努めている。
季語大切派が季語そのものの設定について新しい提唱を始めたのだ。バイブル批判はバイブルをひもといてからしなければならない。
バイブル『虚子編新歳時記』を開いてみた。
初版は昭和九年、十五年に改訂版、二十六年に増訂初版、手許にあるのは平成十九年の増訂七十一刷のものである。
歴史も刷数もまさに俳句のバイブル。箱から出すと草色の表紙に朱色で「花鳥諷詠」と右から虚子の筆跡をそのまま横書きに大書してある。ありがたや、ありがたや。
「序」はもちろん虚子。
この歳時記をまとめるに際しての方針として五項目が列記してある。紙幅のこともあるので最初の二つを挙げて見よう。
「俳句の季題として詩あるものを採り、然らざるものは捨てる」
「現在行はれてゐるゐないに不拘、詩として諷詠するに足る季題は入れる」
等々、この調子である。
つまり虚子が「詩」を感じうるかどうかを季語の採否の基準にしているということ。これは編者の態度として明解である。
問題は虚子の判断を絶対の「季語」としてしまっている「伝統派」俳人の側の問題だ。
「ホトトギス」の人たちがその判断を教典とするのは理解できても、その他の季語大切派の人たちは季節の事物の採否について個々自分たちの「詩」を主張してこそ主体的伝統派なのではないか。
この歳時記を読んでいてさらに虚子の「詩」感覚を発見した。掲出の句である。
季題索引の「馬冷す」の項目の例句にこの句が出ている。どの項目も其角、蕪村、白雄などの近世俳人を始め虚子本人の句はもちろん、静雲、風生、漱石、草田男、たかし、誓子、蛇笏などのホトトギスの俳人たちが綺羅星のごとく並んでいる。
その中でのこの句である。
「馬冷す」は、「牛冷す」の項目と別個に立ててある。解説には、
「暑中労役後の馬の汗を落し、又暑熱から避けてやるために、河や沼などに入れて暫く冷してやる。」
とある。
その例句の中の「豚冷す」である。
この季題に対する虚子の考え方が出ている。すなわち虚子は「労役後の馬体を冷す」の「労役後」というところにこだわっていないのだ。「暑熱から避けてやるために」というところが虚子にとってのツボなのだ。だから労役に用いない豚を冷す句を採用することになる。
いいですか、ここが重要ですぞ。
「私は季題の本意、本情を大切にして句を作ります」とのたまう伝統派俳人の方、あなたは季語の採択の絶対条件として虚子編の歳時記に採用されたものを挙げているなら、「本意、本情」も虚子に倣えしなければ矛盾が生じる。虚子が「労役後」を意識の外に置いている以上、本意、本情は「暑熱から避けてやるために」の方にありますぞ。
つまり、家畜を暑熱から避けてやるための水掛なら認めねばならないということ。山羊冷す、羊冷す、驢馬冷す。みんな大丈夫だ。これらはまさしく季語ということになるでしょう。
それとも虚子が認めた変り種として「豚冷す」だけを馬や牛の例外として認めることにしますか。それとも虚子が認めているからと言って私は豚冷すは認めんとおっしゃるのか。虚子編歳時記をバイブルとして絶対化しておきながらそれは矛盾でしょ。
最近の季語に対する新しい考え方の中には、季語をコトバとして捉えるというのがある。
例えば涅槃西風(ねはんにし)という春の季語があり、これは涅槃会(陰暦二月十五日の釈迦入滅の日)の頃に吹く西風を言い、俗に浄土からのお迎えの風という、と本意の解説がある。
そうするとですよ、涅槃西風という季語を用いるときは、西風に当りながら、ああ、今日は釈迦が入滅なされた日だと嘆ずる本意が込められているべきであろう。季語大切派なんだから。
生身魂という季語は盆のとき帰ってくる精霊を迎えると同時に生きている家の古老を上座に置いて感謝を込めて小宴を催すというのが本意。
最近の句の中の生身魂は単なる老人の生態や発言をそれらしく描いた句ばかりだ。
例えば、子規の句「生身魂七十と申し達者なり」だってそういう上座に坐っての古老の言葉と解するのが本来の「生身魂」。だってこれ季節の行事を本意としてるんだから。
ただ老人の生態を描くなら、それ季語じゃないでしょ。
そうすると逆ギレする人がいる。現実にあるかどうかじゃなく、コトバとして面白いから使ってどこが悪いという意見も出そうだ。
あのね、その言い方を論拠にして昔「新興俳句」は出発したんです。「写す」という方法も季語もナンセンス。コトバはコトバ以上でも以下でもない。詩語としてのコトバを俳句に用いるということで。
それも俳句形式にとっては短絡的でおかしなモダンだと僕はずっと言い続けてきた。季語をコトバとして用いるなら季語にこだわる意味がない。コトバはすべて同じだと主張した方がすっきりする。
僕の考え方を言います。
俳句は「写生」だ。写すことがまず在る。写すことは実感です。見て、聴いて、触れて、味わい、匂うこと。
本意、本情などという「知識」をあらかじめ予定しない。
本意、本情は実感が決まればあとからついてくるもの。
歳時記の中の解説や傍題に捕らわれないこと。
「豚冷す」は視覚的現実のナマの実感がいかに強いか、写すことがいかに驚きに満ちたものであるかを教えてくれる。
写生のための空間描写に有効なひとつの手段として季節がある。
一に「写生」、二に季節。
なんだこりゃこそ学びの宝庫。
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