俳句雑誌管見
違うかもしれない
堀下翔
初出:「里」2014.5(転載に当って加筆修正)
本州に引越していちばん驚いたのは桜のことである。三月までいた北海道とはどうも様子が違う。色が薄くて葉がまじっていない。北海道のはエゾヤマザクラでこっちのはソメイヨシノだから種が異なる。知ってはいたがこれほどとは思わなかった。まずいぞ。今まで桜の俳句はぜんぶエゾヤマザクラの印象で読んでいた。
劇作家の平田オリザは評論でよく「コンテクスト」という言葉を持ち出す。ほんらいは「文脈」ぐらいの意味だが平田は「一人ひとりの言語の内容、一人ひとりが使う言語の範囲といったものと考えてもらいたい」(『演劇入門』講談社現代新書/1998)と述べる。自分の言う桜がエゾヤマザクラであるといったこともまた、この意味でのコンテクストに含まれる。
季語は日本人の共有財産だなんて言うけれど、それは意外と危ういものかもしれない。季語でなくとも、自分と詠者のコンテクストにズレがある可能性は、ある。
違うかもしれない一例。
春炬燵まづ新聞を持つて来い 今瀬剛一(『対岸』2014.3)
春とは言っても朝は寒いので炬燵を仕舞わない。寒い春の朝が、炬燵で読む新聞から始まる。……のだと思う。というのは、北海道では多くの家庭に炬燵がないので、いったい人間と炬燵はどういう付き合い方をしているのか、想像がつかないのである。「春とは言っても……」云々はすべて想像。ここで春炬燵の本意を調べてみると、てぢかにあった角川の『俳句歳時記 第四版増補』には「春になってもしばらくは寒さがぶり返すこともあるので、なかなか炬燵をしまうことができずにいる」とある。なるほど地域によっては朝が寒いという前提が違うことさえある。むろん寒いから仕舞わない地域もどこかにはあろう。誰がどう読むかなんて想像がつかない。
永らへて啓蟄のわが誕生日 深見けん二(『珊』2014.2)
深見氏、九十数回目の誕生日。啓蟄の生命力が誕生日の喜びを印象付ける。ここには「永らへ」たことへの喜びもある。
「誕生日」もまた詠者と読者との間にズレがあるかもしれない言葉だ。十八回しか迎えていない筆者の誕生日と違うのは当然として、たとえば六十歳の人間だったらどうだろう。大病を患った人、戦争経験のある人だったら。それぞれが確かに「永らへ」た誕生日を持っていても、その実態は異なる。
言葉は記号だが、イメージと言葉とが一対一の対応をしているわけではない。あるイメージの託された言葉が、誰かに受け取られた瞬間、別のイメージに還元されてしまうことは往々にしてある。これらのズレを誤読と呼ぶ必要はない。鑑賞の広さが俳句の醍醐味だ。ただ、せっかくなら詠者と同じ感動を得たいということもあろう。そのためにはコンテクストの拡大が求められる。
いちばんいいのは、旅だ。知らない土地へ行って自分のコンテクストにないものに触れる。こんなものまでコンテクスト外にあったのか、とたくさん驚いてみたい。そういう意味で『船団』(2014.3)の特集「再びひとり旅」はたいへん面白かった。俳句三句とエッセイによる会員のひとり旅の記録である(括弧内は行先)。
山頭火に手紙届ける秋の暮 内野聖子(湯平温泉)
神戸とは海を抱いているうさぎ 中居由美(神戸市王子動物園)
旅先で何より多く出会うのは固有名詞だ。自分の土地では遭遇しない名前に触れ、それらを語彙に追加する。旅の句は固有名詞が多くなる宿命にある。しかし旅によって得られるのは、新しい言葉だけではない。
上空はいつも快晴神還る わたなべじゅんこ(関西国際空港)
初めて飛行機に乗って雲の上に出たとき、こんなに綺麗なものは他にないと思った。どんな悪天候の日に飛び立っても上空まで行くと青空が広がる。あれを見てから空への認識が変わった。地上で見ている「空」は、時として雲に過ぎず、ほんとうの空ではない。〈上空は〉の句を得た詠者もまた同じことを思っていた筈だ。ここにおいて筆者と詠者における「空」のコンテクストは一致している。飛行機という経験によって。
宮本常一の『忘れられた日本人』(岩波文庫/1984)に「世間師」という言葉が出てくる。一般的には「悪賢い人」の意味だが、古い村では、奔放な旅をしてさまざまな知識を得た人間を指してこう言ったらしい。僕は世間師になりたい。あちこちを見て回ってコンテクストを広げたい。本連載は「管見」ではあるが、それにしても現段階の穴はあまりにも小さい。筆者が立派な世間師になるまでのご笑覧を乞う。
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