2015-11-29

自由律俳句を読む118 「鉄塊」を読む〔4〕 畠働猫

自由律俳句を読む 118
「鉄塊」を読む〔4〕

畠 働猫

前回に引き続き、「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
今回は第六回(201210月)から。


◎第六回鍛錬句会(201210月)より

帰りたい空に少し欠けている月 渋谷知宏
「帰りたい」というからには、帰れない状況なのだろう。
「少し欠けている」のは、ここでは、これから望月に向かう月であろう。
「今ここ」は少し物足りない場所なのだ。居心地が悪いわけではない。しかし満たされてはいない。だから帰りたい。帰れば待つ人がいる。帰る場所があるのだ。
そういう人の句である。

足が攣った明け方のこおろぎの声す 渋谷知宏
睡眠中に足がつることはある。
季節の変わり目でホルモンバランスが乱れているのだろうか。
明け方に目が覚めてしまい、ひとしきり呻き苦しんだ後、落ち着いてみるとこおろぎの声がしていた。そうした景であろう。
古来、ある音が止むことにより、それと同時に続いていたより微かな音に気づく、という句は多くあった。例えば、同じくこおろぎの声を詠んだものには凡兆の句がある。

「灰汁桶の雫やみけりきりぎりす」(野沢凡兆)

この句では、こおろぎの声に気づくことで、雫が止んでいたことに気づくわけだが、音と音ではなく、痛みをもってきたのは新鮮かもしれない。
ただ「声す」という表現には疑問が残る。
作者の内奥のリズムがそれを選ばせたのだろうが、必然性はないように思う。

出したいクソが出ない 渋谷知宏
これはどうにも評価できない。
素材を昇華しきれていないように思う。この場合は消化と言うべきか。

トラブルで人を知るおろかさ 白川玄齋
人間性が表れるのは、多くそのような場面であると思う。
「おろかさ」は自分自身のことでもあり、「人」(人間)そのものの性質でもあるのかもしれない。

懸命に走っただけで拍手をしないでくれ 白川玄齋
安易な称賛は、自分に対する期待の低さを感じさせるものだ。
この句では、評価の対象になっている行為は「懸命に走った」である。
私は長距離走が苦手で、小中学校でのマラソン大会はいつも後ろから数えた方が早い順位であった。そうすると、ゴール付近でこのような拍手を受けることになる。屈辱的だった。
ちなみに短距離が速いことがばれてからは、いつも「マラソンも真面目にやれ」と叱られることになった。二重にいやな思いをした。
誰にも得意不得意はあるものだ。

道を語らなければ好い人だ 白川玄齋
主義主張は、時として人間関係を壊すことになる。
なかなか人格と切り離しての議論というものは成立しないものだ。
この相手もそうした人なのだろう。普段は温厚でいい人なのだが。
古典における賢者たちもこういった人物として読める。

いっせいにとんぼ飛んで行く夕暮れが来る 天坂寝覚
美しい句である。
子供のころ、よく見た景色だ。
とんぼはどこから来てどこへ行くのだろう。
夕暮れが来れば、自分は家に帰らなくてはならない。
私は家が嫌いだった。いつもどこか遠くへ行きたいと考えていた。
しかし、一人で生きる力がないことは、わかりすぎるほどわかっていた。
何度も「いなくなる」計画をしては断念した。
早く大人になりたかった。
「いっせいにとんぼ飛んで行く夕暮れが来る」
あのころの悲しみや痛みは私だけのもののはずなのに、なぜこの句はそれを的確に蘇らせるのだろう。

たばこ一つあれば良い夜のベランダ 天坂寝覚
それだけで満たされる、ということなのだろう。
「夏は夜」。
千年前の清少納言から変わらぬ詩人の姿がここにある。

雨へ逃げる 天坂寝覚
「雨」よりも嫌なものが迫っているのか。
それは別れであろうか。どうしようもない悲しみであろうか。
雨は涙を隠し、熱を冷やしてくれるから。
それともこれは、作者の句作における態度のことかもしれない。
また題材として「雨」を選んでしまった、という。

ザ・人間 同じ機能が横たわる 中筋祖啓
一般的には問題句かもしれない。個人的には秀句である。
「人間」というものについて、私たちはすでにある定義、先入観、概念から離れることができない。どこまで行っても、自分自身がそこに含まれてしまうからだ。それに対してこの句では、まるで初めて見るものかのように「人間」を見て、評価している。
「同じ機能」確かにその通りだ。
作者の「原始の眼」にさらされたとき、「人間」でさえもこのように解体され再構築される。これはもはや「人の眼」ではない。もっと高次な存在の視座である。

予測せよ我がママチャリと事故の人 中筋祖啓
危険予測である。自動車の運転であれば常に心掛けるよう教習所で習うことだが、ママチャリでは自ら意識しなくてはなるまい。
自転車でも歩行者との事故で多額の賠償金を請求されるようになってきた。
予測せよ。

排水口車でひけば答えを言う 中筋祖啓
ワオ……禅……。

眼鏡を外した世界でこけた 馬場古戸暢
私は眼鏡を外すとほとんど何も見えないため、入眠の直前にやっと外す。
この句のような経験をするのは温泉に行ったときぐらいである。
露天風呂の深さがわからず岩で足をすりむいたり転んだりする。
眼鏡を外した世界は危険である。

脛毛に迷った蟻と身支度 馬場古戸暢
この小さき者への視点は小林一茶にも通じる慈愛である。
脛毛にからめて、どこまで彼とともに行ったことだろうか。

どこかのピアノも寝付けない夜長 馬場古戸暢
夜にピアノを弾いている者がいるのか。迷惑な話である。
ベートーヴェンの「月光」辺りならよい入眠に導いてくれそうでもあるが。
「暇な奴が一日中釣りをしてるのを後ろで見てた」という落語の枕を思いだした。
どこかに仲間がいるようで不眠の不安も和らいだことだろうか。

君の座ってた椅子に何か乗せよう 藤井雪兎
喪失をより味わうための行為であろう。
「椅子」は、存在の有無を端的に示す道具である。
ただ、この句では「何か」と、「君」の代替になるものを示していない。
失ったばかりであるために決めていないのか、読者に委ねる意図であるのかはわからない。しかし、ここで「何か」を示すことによって、句の中の物語をさらに発展させることができるのではないか。
何を選ぶかによって、句そのものが台無しになることもあるだろう。むしろその可能性の方が高い。(だからこそ作者は、ここでは「何か」に留めている)
だが、その欠けたピースが埋まることによって、この句はさらなる悲しみ、さらなる美しい痛みを表現する完全な形を獲得することだろう。
ぬいぐるみや出ていった妻のジャケットではいけない。陳腐である。
それ自体が喪失を強調するひりひりするような「何か」。
豊潤な物語性が句風の作者である。
いずれそのピースを埋めてくれることと期待している。

たっぷりと血のつまったぼくら笑いころげて 藤井雪兎
背景にある思想はメメント・モリであろう。
確かにこの身体は血の詰まった風船のようなもので、些細な(本当に針で風船を引っ掻くくらいに些細な)きっかけで、弾けて中身をぶちまけてしまう。
そしてそれは多くの場合、陰惨な死を意味する。
その死を常に意識するからこそ、今この瞬間の喜びを互いに享受することができる。
警句に陥りそうな主題をよく句に昇華していると思う。

今度はツヤでくらべるどんぐり 藤井雪兎
どんぐりの背競べの続きであろう。
私は大学の卒業論文を宮沢賢治「どんぐりと山猫」で書いたため、そちらとの関連も想起した。
「このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちゃくちゃで、てんでなっていなくて、あたまのつぶれたようなやつが、いちばんえらいのだ。」のあと、一旦しいんとしたどんぐりたちが、今度はツヤでくらべはじめたら、「めんどなさいばん」の第二審が始まってしまう。

みんな消えてしまえと叫ぶ声する市営住宅 松田畦道
場面の設定が秀逸。
ここに描かれているのは、私たちの生活のすぐ隣にある闇である。
悪いのは社会でも政治でもない。貧困や虐待でもない。薬や病気でもない。
「みんな」なのである。
すべてを憎まずにいられない闇がここにあり、それを叫ぶ者の顔も闇の中で見えない。

真っ黒な体で家壊している 松田畦道
秀逸な労働句である。
日焼けした身体の解体業者の姿であろう。
昔、レッキングクルーというゲームがあった。
ボンバーマンやブロック崩しもそうだろうか。
「壊す」という行為には快感が伴うものだ。
夏の日に、汗をかきながら働く人の姿、見る間に形を失っていく家。
声。
重機の力強い音。
そうした光景を眺めながらカタルシスを感じている作者の姿も見えるようである。

陽の色だけ咲かせた 松田畦道
破れた句と言うのか、開かれた句と言うべきか。
作者の意図した句意を汲むことができるのは、同じ景を共有したものだけだろう。ただ、この句ではその「破れ」が句意を広げていると言える。
「陽の色だけ咲かせた」
何を言っているのだろう。
「陽の色」が何を指しているのか? 咲いたものは何なのか?
読む者にとってはあまりに情報が乏しく、はっきりとわからない、補完の必要な景である。ただ、用いられている語句の明るさから、美しい景であることだけは一見してわかる。そのことが読者に句意を読み取ろうという欲求を持たせる。

虚子の言う花鳥諷詠が人の行いも含めた森羅万象すべてを諷詠の対象としながら、「花鳥」という語を残した理由もおそらくここにある。
美しさを詠まなければ、人は読む欲求を持たないからだ。

何を対象にして詠んでもよい。特に自由律俳句と仮にも「自由」を名乗るのであれば、その句材の選択に何の制限もあるべきではない。
しかし句そのものの価値は、「読む側」の審美眼に委ねられるものであろう。「美しさ」は価値の一面に過ぎないかもしれない。しかし鑑賞者としての私は、何よりもそれを重視する。
句材がなんであれ、本質を穿つ視点や繊細な心の機微を捉えた句は美しいものだ。そして美しさとは、一つの方法で表現されるものではない。
前掲の渋谷の句を昇華不足と評するのはそのためである。
同じ句材でも美しい句は詠めるはずであるからだ。

西日の窓辺ゆく天道虫 矢野錆助
常々思うが、「貧しさ」は通過すべき経験である。
金がない、ものがない、ひもじい、寒い。
全ては必要な経験である。
「貧乏」は悪ではない。(「貧乏くさい」のは良くない。)
貧しさの中で得られるものは必ずある。
生きる強さや、小さな喜びや楽しみに気づく視点だ。

この句も、そうした貧しさ、すなわち「西日の当たる四畳半」を経験した者の視点を感じさせる。
動けば腹が鳴るからじっとしているのだ。しかし眼だけは窓の辺りで動くものを追いかけてしまう。
テントウムシは上へ上へと登る習性がある虫だ。
窓の桟から窓枠へ、そしていずれ上まで登りつめたところで、テントウムシは羽を広げ飛び立っていったことだろう。
対して部屋にいる男には斜陽。
同じ太陽を象徴する語句を並べ、上昇志向を「天道虫」に仮託して、現状を「西日(斜陽)」で表現した。
かなり知的な操作を経て作られた句である。
この知性もおそらくは「貧しさ」に磨かれたものである。

※ ただし、このように「貧しさ」を肯定的に捉えられるのは、自分自身がそれを経験しながら、生き残ることができたからである。
それは奇跡的なことなのかもしれない。
心を鈍麻させ、その中で殺し殺される「貧困」は現代社会の病理である。
根絶しなくてはならない。

欠けた月も眩い 矢野錆助
「欠けた」という表現から、満月を少し過ぎた月であろうかと思う。
ちょうど、同じ回に投句された渋谷の句「帰りたい空に少し欠けている月」と似た景でありながら切り口が違うところがおもしろい。
「欠けている」とした場合には、「まだ」欠けている状態、すなわち十三、四夜であると読める。しかし「欠けた」とした場合には、すでに欠けてしまった、十六、七夜の月となるわけだ。
すなわち、渋谷の句がこれから満ちていく希望を詠んでいるのに対し、錆助の句は喪失を詠んでいるわけである。
失われてしまった。欠けてしまった世界でも、どうにかそこに光を見出そうとしている。
大切な人を亡くした夜なのかもしれない。それでも生き残った者は、その不完全な世界で生きていかなくてはならないのだ。

啄ばまれ蜜柑まだ青く 矢野錆助
実景であろう。
ただ、青い蜜柑をメタファーと考えると、性的な句ともとれる。
未成熟な少年少女が性の対象となることについての諷刺か。
実際にそうした場面にいて、詩人の眼を通して表現したのかもしれない。

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次回は、「鉄塊」を読む〔5〕。

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