【週俳10月・11月の俳句・川柳を読む】
暮らしの危機
堀下 翔
暮らしより遠のく身体鰯雲 千倉由穂
「暮らし」というのは、生活のことであり、その日々であり、その身の置きどころのことだけれども、「生活」とか「日常」などのような硬質な熟語よりは、よほど現実感のある言葉で、生きている時間に対するたしかな手ごたえがその響きににじむ。花森安治の「暮しの手帖」なども連想されてくる。ひらがなを多用した、余白のうつくしいあの雑誌の印象を思うにつけ、われわれが「暮らし/暮し」というとき、そこには生活者としての清潔な哀歓があったように思うのだ。
この句は、その「暮らし」から「身体」が遠のいているという。
問題なのは「身体」だ。「身体」というのは「からだ」と読ませるのだろうが、漢語を当てると術語めいてくる。「暮らし」が和語で、口からふと発せられるたぐいの語であったのに対して、「身体」には、思惟のうちに述べられたような手触りがある。自己を生活者としてとどめおきたいと思いながら、どんな事情かはしらず、非現実的な領域に没入してしまったこの人。事態のありようはこの漢字表記に表明されていよう。それでもなおこの「身体」がシンタイではなくカラダであるうちは、危機は「遠のく」の範疇にとどまり、乖離までには至らない。その微妙な時期の不安が、うすうすと広がり去る秋の雲の流離感に重ねられている。
なんぴともわかめ涅槃を想像す 榊陽子
「わかめ涅槃」という造語だろうか。
この句は単語どうしのバランスの悪さがくせになる。「なんぴと」という古めかしい言い回し(かつ本来なら「何人」と漢字を充てるところなのに、正しく読んでもらえるか不安なために、ひらがなに開くという現代的な配慮)、「わかめ」という間抜けなひらがな表記、その「わかめ」に対して文化的背景を持ちすぎている「涅槃」、「なんぴと」「涅槃」という深みのある語彙を承ける動詞としては安易でチープな「想像す」――どこをとっても言葉の質量が釣り合っていない。その軽薄な言葉遣いが、われわれが普段使っている、おのれにとっての語彙の展開の定番を挑発する。
極細の鮫が毎日首都へ降る 竹岡一郎
竹岡一郎の言葉遣いは乱暴である。この句は「極細」が当世風で無造作だ。その他の句であれば、たとえば〈開戦日不眠不休のハッカーら〉における「ら」止め、〈開戦日死の商人が美男子だ〉における「が-だ-」の散文脈などがそれで、いずれも独特のごつごつとした語彙を裏打ちするようにして異様なスピード感を発散しており、強引に言葉を投げつけ、書き殴ることによってこれらの句がなされたことが想像される。1のことを10に思わせるような繊細な言葉の組み立てではなく、10のことを10さけぶことによって、強烈なイメージの快感を読者に差し出している。
掲句は「毎日」にどきっとする。細長く尖った鮫が雨のように首都の人々を襲っている。首都という無機質な都市におとずれる悲劇。それが「毎日」であるという。この「毎日」は鮫の降ることに掛かっている語であるが、いっぽうで「首都」とも響き合っている。一国の主要機関が集中し、機能してゆくさまもまた「毎日」のことなのだ。鮫が降るという悲劇はその機能的な都市に加わった新しいルーチンのようでもある。凄惨美に心をかきたてられる。
後篇:
番外篇:正義は詩じゃないなら自らの悪を詠い造兵廠の株価鰻上り
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