【週俳10月・11月の俳句・川柳を読む】
数句鑑賞〔後編〕
堀本 吟
はじめに
先週、榊陽子氏と千倉由穂氏の十句を「鑑賞」させていただいた。校正したはずなのにまだ「癇癪鑑賞」なんて出てくる(これは、私の入力や変換のミスである)。もう、まったく落ち込んでしまった。うまく「解釈」してくださる読者がいたらありがたいが、粗忽にまちがったほうが悪いのである。やっぱりこういうことは、恥ずかしい。今回おおよび今後は十分気をつけるつもりである。(お詫びしても、私にかぎって言えば、悪癖でもあり目の老化現象でもあるので、またこういう誤入力や変換ミスもあるはずだが、その都度謝ります。)
それからもうひとつ。拙文は二週続きのところを、うっかり「前編、後編」としてしまった。ところが、今回の竹岡氏の「連作」は同じタイトルで一篇づつ分けられて「前篇、後篇、番外篇」と三部作になっている。それぞれ竹かんむりの「篇」として、ひとまとめにしている。拙文は【10-11月の俳句川柳を読む】の堀本吟担当の「後編 竹岡一郎」。「前編 榊陽子、千倉由穂」に続く俳句鑑賞を行ってゆく。すこし区別しにくいかもしれないが、よろしく読みわけてください。
それから、竹岡氏の各篇には、まえがき(プロローグ)風エピグラムー警句様のものが
置かれている。三篇は続いているのだが、各「篇」ごとにモチーフが少しずつ違い独立した読み切りの連作構成だと考えられる。また、このエピグラムのルビはカタカナである。ルビにひらがなを使用した俳句作品群からは一応独立しているようだ。これと作品群との関係が解読のヒントらしいのだが、うまく理解できないうらみがある。それであるいはピントはずれとなるかもしれないが、ご寛恕ください。
数句鑑賞(3)
第446号 2015年11月8日 竹岡一郎 進(スス)メ非時(トキジク)悲(ヒ)ノ霊(タマ)ダ 前篇
a 「タイトル」と前編の「まえがき」 エピグラムのこと
「非時」は古代の日本語で「ときじく」と読む。「ときじく」の意味は、「時」に形容詞をつくる接尾後「じ」がついてその連用形。意味は「時を選ばず」「いつでも」ということである。「悲(ヒ)ノ霊(タマ)ダ」はそのとおりに読めばいいのだが、何を指すかということが俳句群の内容となっているはず。とうぜん「火の玉」も連想する。かなしい恨みの霊魂に呼びかけられ、それも、ときじく、いつでも、「進(スス)メ」「進(スス)メ」、という叱咤駢儷のものである。漢字の「非時」は、「非時香菓=ときじくのかくのこのみ」という故事にある表記からだろう。ともかくこのタイトルで、七十九句の一挙提出の意図を象徴している。
「舌もてどくどくする水平線を幾度なぞつてもふやけず諦めず舌が鳥になるまでパアマネントは褒めませう」と前編冒頭にあるのも、鳥が魂(霊)の使いであるという神話につながる。ともかく不穏でエロチックな雰囲気を明晰な表現にはならないがある感覚を表している。しかし、もちろん神話的な想像力が溶け込んでいるにしても単に引き写しではない。
察するにこの「悲」しい「霊」は、陸地にいながら長い舌でもって水平線を舐め回しているのだが、いくら舐めてもふやけもぜず一向に功を奏さない、という俗っぽい姿(その設定は面白い)。しかしそれでも「舌」は諦めず「鳥」になってでも遠い「水平線」を手中にするための行動をとれ、時ところをわきまえない進行をうながす。この「パアマネント」=「非時・永久」の挑発を天命のように受け入れ、続けられる無為の運動をよしとして「褒めませう」という。このあたり、「舌」は隠れた作者のもの、「鳥」は変身願望の仮託とも思える、作者のやや特異な心境吐露か、自と他がどちらともとれる記述となっている。句についても同じような困惑を与える。「褒めませう」、というここの収め方によって、途切れるともない輪廻転生の物語の始まりを予想させる。一句一句と場面を切りながら並べてゆくことで、作者は何を言いたいのだろうか?とても奇妙な混乱に満ちたエピグラムをあたまにおいて、こんなんあり?と疑いつつ「句」の世界に入ってみる。
b 数句の鑑賞
三十句の中では巻頭の一句が、このまえがきに素直に対応している。だが、この一句だけにこもる長い歴史時間への思い入れに目を縛られる。全体の中の秀作だと観じた。
禁野の鹿夜ごとの月に舌挿し入れ
禁猟区にいる「鹿」が月をながめている。月光を遡るがごとく「舌挿し入れ」とは、思い切った比喩だなあ、崇高でもありいやらしくもある。その才気にすこし感心するのだが、それでもこれは面白い一句だ。一句鑑賞これだけでもいい、って気がする。そのうえ、前の一節に「水平線を舐める」とか、「舌は鳥になって」という擬人化や光景があるので、作者の中の、かなり強い超現実への好みが読み取られる。
さらに、「禁野」という語彙にはいくつかの特殊な意味があることを知ると、少し詳しく説明せざるを得ない。
①「禁野」はもともと古代史や民俗学の用語であるらしい。まず古くには、「しめの」と同じく皇族や貴人専用の土地をいうのであった。お狩場であり庶民には禁猟地区、また貴重な生薬や染料の草や根を育てるための野でもある。「しめの」は「占野」「禁野」と書かれる。万葉集には、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る・額田王」という有名な歌がある。それが固有名詞となった土地がいまも幾箇所かある、由来がはっきりしているものの一つが、大阪府寝屋川市の「占野(しめの)」(宇多天皇の鷹狩りの場所であった)、と大阪府枚方市にある「禁野(きんや)」である。つまり、古代ではこう言う意味での特別地区であった。
② さらに、枚方市にはこの地に「禁野古墳」という遺跡がある。ここは八世期後半の百済王の支配地であった。百済滅亡のおりに亡命して帰化した王族とその一党の居住地跡、百済王の古墳が残っている。付近に「百済寺跡」があり同市の観光地となっている。ここが、半島から来た帰化人の居住地であったこと。
また、日本書紀に、田道間守なる人物(新羅王族の子孫と伝えられる)が、垂仁天皇の命令で常世の国へ不老長寿の食物である「非時香菓」(橘のことだとされている)を探しに行って持ち帰ったが、間に合わす天皇は百四十歳で落命していた。それで墓の前で自殺した、ということが書かれてあるらしい。(検索による)。竹岡のタイトルの「非時」(ときじく)は、この記述からの表記である。図らずも「禁野」は半島経由の常世の道につながる土地である。この句の「鹿」の「舌」は、水平線のかなた常世の国に達したいことの希望の形とも言える。
それが、この禁野遺跡になって残っている「禁野」の土地は帰化人の聖地である。日本人の祖先が朝鮮半島からきたという騎馬民族学説も思いだされ、我が国の祖型につながるパワースポットであること。これは、歴史のロマンのひとつであり、私が読む場合の興味となる。
③ そしてさらに、俳句外のことであるが、「禁野」は近代日本国家の歴史上の重要な地名である。「禁野本町火薬庫」。近代軍需産業のひとつの拠点であったこと、ここに帝国陸軍直轄の大きな火薬庫があった。このことは、竹岡がそのことに詳しければ、そしてこの地名をつかった想像力のルーツが枚方市の「禁野」であるとしたら、こういう形で俳句による一大戦記を書こうとしたのではないか?ということで実験詩として大変大きな意味を持つ。仮にそれが私の全くの思い込みであるとしても、近畿圏に住む一読者にここまで、実際の土地を想起させるリアリティの創出の表現力を、高く評価しよう。
「禁野本町火薬庫」は一八九七年明治三〇年に設置され一九四五年まで続いた。枚方市には三箇所も火薬保管庫があった。そのうちのひとつである。一九〇三年に大爆発がおき、死者一〇人倒壊家屋多数。その後も土塁を作るなどして火薬保管施設が拡大し、また隣接の地域に造兵工廠が広がりその地域一帯一大軍需工業地域に拡大した。そして、一九三九年三月一日の大爆発では、死者九十人を含み七〇〇人の死傷者が出て、その爆発音は京阪神一帯に響き渡ったという。むろん家屋倒壊も多数。周辺地域も京阪電鉄も大きな被害を受けた。国外での旧日本帝国の戦争犯罪が言われているが、日本の国内でのこの惨事は、国家による犯罪なのである。
大阪府や枚方市は戦後この火薬庫の発掘調査を行い詳しい調査報告もでている。枚方市ではこの三月一日を平和の日と定めている。
作者がそのことをどれくらい意識してまた知識としてわかっているかはここでは問わないが、「禁野」にはこのような歴史的な時間、あるいは天皇や権力者に欲しいままにされた土地とそこに住む人たちの怨念がこもっている。古代に使われた同じ意味の「標野」というよりインパクトが強烈である。これが私の全くの思い込みの解読であるとしても、普通名詞や固有名詞の起源が、もともと偶然的なものだということも思わせ、言葉の取り込み方が大変面白い作品である。
この中に、ほかに、
砲兵工廠勢(きほ)ふ舌より紅葉(もみ)づらん
わが舌は長夜の獄を舐め熔かす
があることから、作者もこういう戦時中の日本に、禁野火薬庫の大事故のようなことがあった…ことに想をおおよぼし。狩りの標的になるよりほかはない「鹿」とは、権力者に囚われた弱者、「舌」だけが自由であるという寓意であることは十分考えられる。
また、この「砲兵工廠」句の「舌より紅葉(もみ)づらん」や、「長夜の獄を舐め熔かす」には、かの爆発の炎の地獄の凄惨な美しさ、を思わざるを得ない。ここから見れば、巻頭句の「鹿」の「舌」は、そのような火炎の暗喩ではないか、この「前篇」三十句に流れている長い「舌」は、「禁野」なる地名を刻印された土地を流れる悲劇的な時間性の宿命を書き出した、少なくとも表そうとしている、と思われる。想像の炎はとりとめなくまた自由に、「舌」になったり「鳥」になったりして、三十句の世界で、禁忌を犯そうとする動きをうと舐め回している。「舌」が蠢いている句はとみに美しい。
満月が毀(こぼ)れてはデモ隊となる
議事堂無月見渡す限り髑髏馬
瞋り光り巨塔へなだれ込む鹿たち
その月がすこしは毀れてかの国会をとりまくデモ隊になる。「馬」も「鹿」も「禁野」から飛び出して、馬鹿馬鹿しいほど軍国主義化をいかっている。
この「前篇」の叙述は単純明快で比喩もそう複雑ではないとは思うが、日本の国家形成史上のいくつかの闇の部分を思い出させ読み進ませる、ここが面白かった、
鹿よりも瘦せ爛爛と法学者
これは、字義解釈に便便としている法学者への諧謔の一句であるろうか。
いずれも、権力の束縛で阻害される存在の形象化である。「俳句」と称して、奇譚仕立ての活劇と見える。
ひところの社会性俳句であれば、
千代ちやんの舌吸ふ秋の蛸断片
というようなふざけた句の滑稽な景は出来上がらないのだが、現代の俳句、定型の枷を着ながらも想像力の舌はなかなか細かいところを舐めている。この短詩群では、テーマ性強烈な中、そうとうナンセンスな言語風景も広がっている。「鹿」とか「蛸」がここの場合のトリックスターである。(後篇では「鮫」と「人魚」。)
第447号 2015年11月15日竹岡一郎 進(スス)メ非時(トキジク)悲(ヒ)ノ霊(タマ)ダ 後篇
a 後篇の「まえがき」エピグラムのこと
接吻一擲無智一擲惜しむべからず抱くまでは木琴聴いても正気が足りぬ億兆の新たなる終末に洗濯は素敵だ!
かなり難解である。目に入れて先に進もう。
b 数句の鑑賞
察するに、ここでは「戦史」を具体的に俳句化している。この後篇の句群には、句の主語に、鮫、人魚、鶴、という生類の空間移動が甚だしい。ただしアニミズムという程は徹底していない。シンボリズムという意味ではまだ具象的すぎる。「産めよ呪へよ鮫よ造兵廠すてき」などの「鮫」の登場がおどろおどろしい。ただし、オブジェとしてのおもしろさがある。「極細の鮫が毎日首都へ降る」。海に棲むはずの鮫が空から降ってくる設定は、「ジョーズ」の映画の方が怖いのだが、空爆で落下する焼夷弾を思わせる。「開戦日発電所から鮫!鮫!鮫!」、発電所の水門には、しかしサメではなくエチゼンクラゲなどが蝟集するので、この句はどうもいまひとつ迫力がない。「産めよ呪へよ鮫よ造兵廠すてき」「霊として鮫は獲物を選ばない」。説明抜きに「鮫」が動いている、こういう句に出会うと、「鮫」は軍や力の象徴でもなく弱き人間の霊魂でもなく、どこにもまつろわぬ善悪を超えたエネルギーの「火の玉」である、と思う。
しかし、ひとつの作品群の中で、「鮫」がいろいろ表情や役割を変えるとき、読者はその変身にあるマンネリズムを感じる。「前篇」のイメージと重なるものとしては、「まつろはず鮫の穿てる舌なれば」、がいい。その報いを受けよ、と。
人魚。鶴。猫。これらは人間にやさしい。特に「人魚」はほとんど人間、人民と同化している。弱々しい存在を美しく書ける感受性を「褒めませう」。
軍(ぐん)払下品(はらいさげひん)として人魚冷ゆ
鶴凍てて難民の子へ翼貸す
主権即ち人魚に在れば吹雪く国会
以上の「前篇」三十句と「後篇」三十句によって、作者は、近代日本の戦史の俳句化をこころざしている(ようだ)。そして、その地に生きることがその土地の邪悪な力に抗し得ないゆえに「まつろはぬ」「悲(ひ)の霊(たま)」になることをまがりなりにも突き出した。だが、これだけたくさん生類がうごめいていても、その動きはとかくパターン化されている。それはそれで、概念のステロタイプな絵解き、と読めばいいのであろうが。このような漫画めいた構成の中では、もともとキャラクター自体にオリジナリティがないのである。榊陽子の「わかめ」と同じく顔がないのである。しかしだからこそ、ここに跳梁する生類の一個一個の運命には「火の玉」のように悲しい霊がうごめいている。いいの悪いのといえない境地で差し出されているその果敢な志を「褒めませう」。
第447号 2015年11月29日竹岡一郎 進(スス)メ非時(トキジク)悲(ヒ)ノ霊(タマ)ダ 番外篇
a まえがき・エピグラムについて
「正義は詩じゃない」なら自らの悪を詠い、「造兵廠の株価鰻上りに指咥えてる君へまつろう者を俳人と称えるが百年の計にせよ季無き空爆を超える為まつろわぬゆえ祀られ得ぬ季語へはじめてのうっちゃり
まだ、続くのだろうか? 粋がっているなあ。しかも、何がどこにかかって文脈がつながるのかが不分明なのである。「正義は詩じゃない」なら「悪は詩である」、と言う立場は安直だとは言えないだろうか?時を選ばす襲い来る空からのサメたちをうっちゃり、ふるさとへ戻るならば、軍拡景気…というほど実は世の中は甘くない。アナーキー状態のその「現在」の状況を作者はきっと自覚しているのだろう。
b 数句の鑑賞
鶴蒼く告ぐは空爆たる恐怖(テロル)
「空爆」は「空漠」の感慨を呼び出す。冬鳥であるの鶴の思いがけぬ啓示、この句には鶴の動きに意外性があり、視覚的に美しい。
砂の郷(くに)発ち原爆となる二十歳
自爆テロをこの用に言い収めると、特攻隊からベトナムへ行った青年兵、ISの自爆テロの青年ら世界各国の若者を結んでいる死へむかわせる「戦い」の悲しさが浮き上がってくる。
竹馬を基地のフェンスに立てかける
この句の何気なさが怖い。「竹馬」という遊び道具をなにげさそうに中を窺うと疑われそうな。これは佳句である。
劇画俳句とでも名づけたい句群。表現に比喩が少なくなり、寓意が薄くなっている。だが、この番外篇の句は、感覚的に生に荒々しく屹立している。
俳句表現としては 季語を用いているが季語としては邪魔にならない。動きには敏感だが、モノに焦点を当てるとかそのような方法論はあまり自覚されていない様に思う。だが、とにかく全体を描こうとしている動機が伝わる。端的で短い言い切りの快感があった。やはりその意気や良し、と言いたい。緊密に小説的な構想が積み重ねられたら、この人なりの文明批評的な短詩の群れが出現するかもしれない。
「十句」は「七十九句」に、エントロピー的増大をきたしているらしいので、キリがない。このへんでやめる。
後篇:
番外篇:正義は詩じゃないなら自らの悪を詠い造兵廠の株価鰻上り
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