【週俳10月・11月の俳句・川柳を読む】
〈われわれ〉の文芸
山田耕司
「個人が主役ではなくて関係が主役になってしまっている。おそらく「お葬式ごっこ」の状況はそうだったろうという感じがする。関係が主役で個人がなくなって、それぞれが「孤」になってしまっている場合は、そこに作用している意図、その中にどういう傾向があったにしろ、悪意があったにしろ、冗談があったにしろ、それは全部無記名なものになっている。関係のものになっている。個人のものとして機能しないで無記名のものになっている。」 『ベケットと「いじめ」』より 別役実
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〈わたし〉とは、なかなか〈わたし〉のままでほっておいてもらえない。
「そりゃあなたはそれでいいかもしれないが、なんせ社会というものは一人で生きているわけだから誰かとつながるなり支持を表明するなりするのが当然でしょう」という具合に、なんにせよ何らかに組み入れられてしまう。個人と個人が単位として分離しつつ連帯するものというよりは、おそらくはやわらかくきよらかに思考を停止させつつ流れにのっている状態をこそ〈われわれ〉と呼ぶとして、それを拒んで〈わたし〉でいようと思っても、これはこれでいつのまにか〈彼ら〉というひとくくりにされてしまう。
であるとして。こういう状況を弾劾し嘆くことが、俳句、ひいては文学の果たすべき役割なのだろうか? たしかに、集団の外側にありつつ異物としての視点を維持することにより、社会の内実を相対化することがブンガクに求められた時期があったことは否めない。しかし、そうした弾劾が自己目的化したスタイルのブンガクが、それそのものの文芸としての価値を持ちうるかといえば、それは話が別である。
俳句やら川柳やらの文芸において現代社会をそのまま対象化するのがどこかいかがわしい感じがするのは、形式という枠の中で〈われわれ〉がつくり〈われわれ〉が読むという閉じた作用を持つ世界を足場にして世界を批評しようとすることが少なからず関わっているだろう。「オマエがいうな」というわけだ。
では、俳句やら川柳やらに社会批評は不可能なのだろうか。
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対象化することが不毛ならば、自らが対象そのものになってみる。そんなことができるのが表現というものであろう。
なんぴともわかめ涅槃を想像す
秋雨やふえるわかめとコンドーム
泣いたから訊けばわかめにゃ顔がない
「ふるえるわかめ」榊 陽子
(なな子、社長ほか代用可)
この「わかめ」は、そのモザイクをはがせば、その向こうには特定の個人があるかといえば、それはない。あえていえば〈われわれ〉のなかにおける〈孤〉としての佇まいこそが、その正体であろう。〈われわれ〉は「なんぴと」でありつつ「顔がない」存在である。ばらばらになりそうなイメージが、ばらばらになりそうだからこそ、定型の定型たるところの意義がかえって見えてくることになるのであり、そうして、みずからを規定する外枠に頼りながら内実のモヤモヤをモヤモヤのままに維持しているところなどは、まさしく、社会を対象化しているのではなく、社会そのものとして対象化されてもおかしくはないほどのたたずまいである。記号としての「コンドーム」と並ぶには、みずからの存在も記号になってしまいそうであり(記号とは、この場合、実体から切り離されて、それ以外のたくさんのことを連想させる象徴としての役割を持つ後という意味で使用しています。ま、ちょっと理屈っぽい読み方が寄り付きそうな感じの言葉と言い換えることも可能でしょうかね。)「秋雨や」という定型詩の芝居がかった借景が「これは、理屈で理解するんじゃないぞ、いいな」といわんばかりに世話を焼きに来る。こんな自演を以て、とりもなおさず、定型詩における社会批評のあり方を見ることもできるのではないだろうか。まあ、そんな重たい見方なんて想定してないだろうけどね、作者は。
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暮らしより遠のく身体鰯雲
恋風という語恐ろし実南天
家族という器のかたち寒牡丹
生きるとは待つこと羆も人間も
「器のかたち」千倉由穂
そういう視座からすれば、千倉由穂の句からは、人々の社会からすこし離れて自分を異物化することにおいてこそ、文芸を為す動機を見出そうとしているようにも見えるし、かつ、そこには〈われわれ〉から〈わたし〉を分離しようと試みている姿勢を透視することもできるだろう。俳句とは、おおむね、〈われわれ〉のなかにおいて思考を停止させるための仕掛けのように扱われ、また、そのことをありがたくもてなしたりすることなどもある文芸となってしまっているようだが、時に、「自分が〈われわれ〉の中に飲み込まれているんだ」という内省をもたらすこともあるのだ。ともあれ、句の作り方が「われわれではないわたしの感性+季語」というフレームのままでは、そうした内省を自己目的化しながら、「ピタッとはまった感じがする句」が出てくるまで生産をし続けることになりかねない。それは「われわれではないところから自分を感じていたい」という〈われわれ〉として、思考を停止してしまうことと同義ということも可能なのではないか。こんなことは千倉由穂のみに問われていることではなく、自戒も含めて、俳句の作者たちに関わるところだろう。しかしながら、こういうスタイルは、今のところ、むしろ主流になりつつあるように思うのだけれど、さて。
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しかるに、
竹岡一郎
進(スス)メ非時(トキジク)悲(ヒ)ノ霊(タマ)ダ
この作品群の懐かしいような重たさは現代社会をそのまま対象化しようとしているからこそ発生しているのだと思えるのである。そして、作者は、そういう重たさをまといながらも、であるからこそ、次のような作品を偏愛しているのではないかと思うのだがいかがであろう。定型詩への愛とは、意味の重たさへではなく、言葉遊びやらイメージの寄り道やらという「世の役にも立たないような余剰」においてこそ育まれるものだろうから。
千代ちやんの舌吸ふ秋の蛸断片
(了)
後篇:
番外篇:正義は詩じゃないなら自らの悪を詠い造兵廠の株価鰻上り
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