【週俳10月・11月の俳句・川柳を読む】
数句鑑賞〔前編〕
堀本 吟
対象作品のうち、竹岡一郎氏の句の数がかなり多い。それと、その書き方にもある種大きなテーマ性がうかがい知れる。それで、別文にまとめさせていただくことにした。
一方、榊陽子氏の十句は、川柳誌を拠点にする作家だから、その作品もひとたびは「川柳」と考えて読むべきだろう。竹岡氏の「俳句」と同様、コンセプチュアルという意味では、一句というより創作意欲の固まりとして何がしかの主張を感じ取る。なかなか力作だと思って読んだ。
尤も、彼女の現在の活動場所である、「川柳カード」やその誌友の中では、いちいち調べてはいないが、そう珍しいものではない。「私」ではない別のキャラクターを作り、それを句の中に泳がして劇的空間を作り上げる構成方法はよくみられる。あるいは、現代の川柳の共通の姿勢や問題意識を感じるものである。
そして、千倉由穂氏の「俳句」は筆者の実感には全く「俳句」らしい句群。季語の印象や、風景の輪郭のつくり方には、一句屹立のための言い切りがあり、川柳の方へは持ちこんでゆけない雰囲気がある。これは作者の持ち味だろうけれど爽やかで怜悧なセンスを感じた。
数句鑑賞(1)
榊陽子《ふるえるわかめー(なな子。社長ほか代用可)》中
この十句は、一句一句少しづつひねりが有りかつ垢抜けている。
泣いたってわかめわかめのショウタイム
で始まり、
泣いたから訊けばわかめにゃ顔がない
で終わる。まだつづきがあるのかもしれないが、この発表作で一応言いたいことを引き出している。ある種の一貫性があるので「連作」と読むのがわかりやすい。この調子で、百句ぐらい出てきたら、それはすごい存在感を持つだろう。軽快で皮肉であか抜けている。川柳の感性が捉えた現代風俗詩である。
(と、書いた時に、「俳句」にもこういう五七五、十七音、の軽妙なリズムを持つ口語一行詩がどんどん出てきていることに気がつく。形式上の違いがほとんどない「句」には、ある雰囲気で出自が違うなという受け方をする意外、柳俳の区別ををつける意味が以前にも増して無くなってゆく。では、これらはいったい何なのか?)
いくつか特徴を挙げてみる。タイトルでは(なな子、社長ほか代用可)とあるわけだから、主語を変えて「わかめ」のところが「なな子」になっても、「社長」になっても置き換え可能。つまり、「わかめにゃ顔がない」から誰がどうしたという現実的な手がかりがない。しかし、それが、まさに現実というのものの正体なのだ・・、というのも解釈のひとつ。「顔のない」というのはそれらの名付けが恣意的である、ということだろうが、そういう恣意性の代表として「わかめ」の動きが奇妙に生き生きしている。
この十句は、「わかめ」が主役ではあるが、完全な主語ではない。明らかに分かる主語が見当たらないないのは、「わかめ」を見つめあやつる真の主体(主語)が隠れているからだ。(想像するのは海藻の「わかめ=和布なのだが、サザエさんちのワカメちゃんの成人した姿かもしれないけれど)。何者かが「わかめ」のやっていることを描いているのであり、「わかめ」という存在が「私」として語っているのではない。眼前にあるのは、軽快に走ったり、泣いたり、セックスしたりという行為を晒している。仮に「わかめ」が跳梁するどの句にあっても、誰かが「わかめ」のことを「こうこう、こうだ」と観察し述べているという仕立てである。一句ごとのこういう書き方が川柳の本道か?と、問い直す時には、これが最近の川柳の傾向だ、という以外には筆者には適当な答えが見いだせない。筆者が観ているものとは、疑念化できない川柳現象が目の前にある、ということである。そして、それが、わたくしたちの生きる世界の実存のあり方なのかもしれないと、まで一瞬は思いこむ。が、これらの「わかめ」句から発してそこまで深刻ぶることもまたバカバカしい。行っていることがあまりにも常識的だからだ。一体これらは何なのだ。
ただし、このうち九句目だけに、句の語り手と作中の主語が一致する手応えがある。
なんでやねんうち新宿のわかめやし (十句中九句目)
大阪生まれの「わかめ」が新宿歌舞伎町あたりに住み付いて、大阪弁で啖呵を切っている。それ自体が漫才のセリフのように滑稽だ、そこに、この句のみに作中の主体と主語の関係が実感できる。他の句には、曖昧にくずれてしまっている関係性が書き分けられてあり、具体的なちがいをもった人間として生きているこおTについての文法(叙述)がしっかりあるわけだ。こういうのは、普通人の感覚からそう離れていない、つまりそういうところで読みつがれてきた「川柳」のような気がする。
そのように主体不明ではあるが、言葉から受ける「わかめ」は動きがのびのびとユーモラスで、ご当地キャラ風のイメージを容易に思いうかべる。また「ふるえるわかめ」とは商品のキャッチコピーの「ふえるわかめ」その転換、それが再び、
秋雨やふえるわかめとコンドーム
となって出てくれば、今度は「ふえるわかめ」は、インスタント食品ではなく性欲旺盛に繁殖する舞台上の「わかめ」である。現実を逆にパロディに持ち込んでいる。「ふるえ」ながら「ふえて」いるものとは一体何だろう。ここら辺まで読んでくると、「わかめ」は大変アナーキーな怪物になり、不特定な個人または無名者の塊、名付けようのない集団意志ともとれる。しかし、文面ではやはりひらひらテロテロした「わかめ」なのだ。それで「なな子」でも「社長」でもいいけれどやっぱり「わかめ」と名付けられるのが一番適当だ、ということになる。「わかめ」こそこの作品群を作品世界として、立たしめる代替できない固有名詞でなければならない。
というように、風俗と言葉のかかわらせ方がとてもうまいので、どうとも癇癪鑑賞して、これはいったい何なのだ、ということになる。
最後に、筆者が気に入っているのが、
天皇家ならびにテロテロするわかめ
である。時節柄着想しやすいがなかなか言いにくいモチーフを、大胆に取り込んだ上掲句である。まさにテロテロしただらしない「わかめ」。何の説明もなく「天皇家」をうかがうテロリストかなんかに見えてくる。これは時事川柳である。
数句鑑賞(2)
千倉由穂 《器のかたち》 十句
名辞や名付けの曖昧さを突き出した榊陽子の作品世界は、百万言費やしても、読みきった気がしないのだが、千倉由穂の世界は、切り口がかなりはっきりしているので、あまり解説しなくてもいいのかもしれない。読み切った気になってしまう。
構成は構成であり、内容は内容で罐がられるので、大変読みやすい。普通のまともな俳句として読める。すなおな佳作をみせてもらったよろしさがある。読めるのだが・・内容については、考えさせられる、わたしたちの持っている概念を壊してしまうような場面を作り出している。
暮らしより遠のく身体鰯雲
秋蝶の家族であった風ばかり
寒風を切り寒風になりて漕ぐ
家族という器のかたち寒牡丹
生きるとは待つこと羆も人間も
というのが印象に残った。一句の独立性は十分にあり、しかしこの作者のここでのこだわりが家族の「かたち」であることが知れる。「連作」でなくとも、この統一感のつくり方は納得できる。
「家族」とは、「器のかたち」をもっていて、それは「寒牡丹」がその比喩として重ねられる。これは季語でああるから独立の世界として添えられているのだが、上句への働きは緩やかな比喩としてある。別の句では「家族」は「風」である。この捉え方がどちらも清冽できっぱりしている。なお家族の捉えがたさをいい止めている。
最初にあげた句はわかりにくい。「暮らし]というものが「身体」の行動の重さを伴うことを実感できない。それを広大な秋の雲の感じと取り合わせている。素朴な二句一章方式、しかし内容は屈折があり平明ではない。
「寒風」の中で漕いでいる、すると自分がその寒い「風」そのものになったという、この感じがとてもわかる。ボートを漕ぐ人が自ら「寒風」に乗り移るその緊迫感がつたわる。この喚起力が心地よい。
しかも、である。「生きることは待つこと」これの実体として獰猛な「羆と人間」をワンセットに並べる。何か悲しいし、共生ということへの独自の認識を感じる。
初めて読んだ作家であるのだが、俳句のつくりかたに好感が持てる。
この二人の作家を読むだけで、いま十七字の短詩型分野が、クロスオーバーどころではない途方もない崩壊現象をおこしているのではないか、という気がする。
(この回終)
後篇:
番外篇:正義は詩じゃないなら自らの悪を詠い造兵廠の株価鰻上り
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