2015-12-13

自由律俳句を読む 119 「鉄塊」を読む〔5〕 畠 働猫


自由律俳句を読む 119

「鉄塊」を読む5



畠 働猫







前回に引き続き、「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。

今回は第七回(201211月)から。









◎第七回鍛錬句会(201211月)より

両手で林檎すくい上げて小さき手よ 渋谷知宏

美しい愛に満ちた句である。

「林檎」と「小さき手」との取り合わせもよい。

「すくい上げて」の後に切れ、あるいは断絶がある。

この句の中心は「林檎」ではなく、「小さき手」の発見にある。

「小さき手」の持ち主が、すくい上げた林檎を詠者に見せているのだろう。

我々読者はその詠者の心の動きを追体験することになる。

まずは林檎の赤さが目に飛び込んできたはずだ。

「あげる」そう言って微笑む子供が林檎を捧げて立っている。

「ありがとう」受け取った林檎は詠者には片手で持てる大きさだ。

その両手を包み込むように受け取ったのかもしれない。

そこで、相手の手の小ささに改めて気づく。

互いの愛情が垣間見られる佳句と思う。



夕闇に溶けて秋刀魚の煙る下町 渋谷知宏

こちらも郷愁を誘う美しい景である。

古き良き幸福の姿がここにあるように思う。



ベンチからみた空は雲一つ無い空で靴は脱いでいます 渋谷知宏

「靴は脱いでいます」という報告が、誰かに伝えたいと思うほどリラックスできている状況であることを表現している。可憐な少女を思い浮かべたいところだが、営業途中のサラリーマンでもよかろう。なんとも微笑ましい情景である。



アンドロイドを夢見た少年は機械に生命を握られており 白川玄齋

少年時代、手塚治虫や藤子不二雄の描く未来都市に憧れていた。しかし大人になって見る現実の世界は、けしてあの頃夢見た輝かしいものにはならなかった。

SFの中で繰り返し鳴らされていた人工知能の反乱や支配といった警鐘は、現在、インターネットやスマートフォン依存という形で現実となっている。

そうした現状と、自分自身の置かれた状況をともに思い、自嘲のように呟いた句である。



これは恋なのか君の顔も見ずに終わる恋 白川玄齋

古くは文通、現在であればメールやSNSでこのような恋があるのだろう。

しかし恋か。久しくしていないな。歳をとると何もかも億劫になっていけない。



君子より軍師を慕って書を閉じる 白川玄齋

周の文王より太公望呂尚、劉邦より張良、劉備より諸葛亮。或いは孔子よりも孫子に惹かれるということか。

「君子」は時にその正しさゆえにつまらなく感じるものである。

それに比して、「軍師」は時に冷酷に、時に非情をもって策略を巡らし敵を陥穽にはめる。彼らの生きた時代を遠く離れた私たちにとって、君子も軍師も物語の中の人物である。物語として魅力があるのはおのずと軍師の方であろう。



今朝夢でころしたひとと笑う 天坂寝覚

特に憎しみを抱いている相手ではないだろう。

夢の中では思い通りには動けないものだ。たぶん不可抗力で殺してしまったのだと思う。それでも、殺してしまった罪悪感がしこりのように残ったまま、本人に会ってしまった。そんな居心地の悪さの中、なんとなく話を合わせて笑っている。

しかしこんなことは誰もが一度は経験し、そしてすぐに忘れてしまうものだ。

それを句にせざるを得なかったこだわりがここにある。

繊細と言えば繊細。不器用と言えばあまりに不器用なこだわりであるように思う。



猫よこんなにあたたかいきみが先に逝ってしまう 天坂寝覚

これは末期の眼による句である。

今この時が二度とないものであることを意識したがゆえに、まだ温かな猫の体温が永遠ではないことに気づいている。

ペットロスを自分も経験した。猫の死は巨大な空洞を私たちの心にもたらすものだ。

しかしそうした喪失を繰り返すことでしか、私たちは「末期の眼」に至ることができない。そう思う。



ばらばら別れゆく冬になる雨 天坂寝覚

時雨であろう。「ばらばら」は、雨の様子と別れゆく姿との両方に掛けている。

「ばらばら」という語感から、二人の別れではなく、複数人が三々五々別れてゆく様子を思う。

忘年会などの飲み会のあと、ふと一人になった瞬間に生まれた句かもしれない。

また、この別れは今生の別れのようにも思う。

人にはそれぞれの人生がある。今ともにいるとしても、たまたまその人生が交わった一瞬をともにしているのに過ぎない。

それは、たとえ家族であっても変わらない。

これもまた末期の眼による句と言える。



おのずからミシン学んでゆき三十歳 中筋祖啓

寝覚の「末期の眼」に対して、祖啓の「原始の眼」がここに表れている。

どちらも天才と思うし、天才の宿命である「生きにくさ」をどちらも抱えているように思う。ただし祖啓の場合、生きにくさが自覚されているかは不明である。

この句もなんとも楽しそうに生きている様子が見て取れる。



まんざらでもない服の嵐 中筋祖啓

なんだかわからない句と見えることと思う。

しかし「原始の眼」を理解して見れば、人の流れの中で一人立ち止まり、目を輝かせている詠者の姿が見えてくる。

私たちは普段、無意識に情報を取捨選択しながら周囲を見ている。

すでに知っているもの、いつもと変わらないものについては、見ているつもりで実は見ていない。

視覚情報の全てを処理していると脳に負担がかかるからだ。年齢や経験により、私たちはだんだん見ないで処理してしまうことが多くなる。

しかし、「原始の眼」とは、言わば今この瞬間に生まれ出でた赤子の眼と同じものである。

そんな眼を持ち、人混みに立つことを想像してほしい。

あらゆるものを初めて見るように興味深く見ることになるだろう。次々に押し寄せる情報の波。ここではそれを「嵐」と表現している。脳は揺さぶられ、心も激しく動いたことだろう。



いつからか川がきれいに見える橋 中筋祖啓

この句も「原始の眼」の発露である。

川が浄化されきれいになっていた発見ともとれるし、見るものすべてを新鮮に感じながらの彷徨の末にいつか橋に辿り着いていた、ともとれる。

「おのずから~」の句と同様、この句も575の定型の律を利用している。

奇抜な「原始の眼」によって感知・入力された情報が、定型と言うフィルターを通すことで、一般的にも感知できる形で出力されている。

祖啓にとっての定型律は、異国の言語を翻訳するように、自らの内奥にあるものを他者に伝えやすくするためのツールなのであろう。



寒空そびえる生足 馬場古戸暢

「そびえる」としているところから、詠者自身は低いところから見上げていることがわかる。「まいっちんぐまちこ先生」のような明るいエロティシズムがここにある。古戸暢には、「生足」を詠んだ句がいくつもあり、重要なモチーフであることがわかる。



みつけた携帯黙った 馬場古戸暢

散らかった部屋なのであろうか。それとも昨夜酔って帰ってきて、どこに置いたのかおぼえていなかったのか。

音と振動で着信を知らせているものの、肝心の携帯電話自身が見当たらない。

探して見つけたところで携帯が沈黙する。

誰もが一度は経験したような情景である。

私は電話が嫌いである。

電話をかけてくる者は、こちらの都合はお構いなしに、一方的に繋がりを求めてくる。しかも半ば強制的である。また、この句のように勝手にあきらめて繋がりを中止したりもする。

自分がそう感じるのだから、かけることも嫌である。

コミュニケーションツールが、手紙から電話、電話からメールへと変遷した背景には、自分のように「電話」を憎む者が多くあるためかと思う。メールとは手紙への回帰であるからだ。

私は利用していないが、ラインというアプリは、電話のような強制性を備えたコミュニケーションツールであるようだ。

電話、ラインは発信者の利便性を優先したコミュニケーションツールである。

対して、手紙やメールは受信者の負担を考えたツールだ。

コミュニケーションとは、受け手が主体となるべきものである。

発信者の都合を優先するようなコミュニケーションは、教育や伝達など、受け手にそれを容認する準備が整っている場合にのみ成立するものだ。

このことは創作においても同じである。すべての創作活動は受け手とのコミュニケーションである。

表現者はそれを忘れてはならない。

自分の思いを押しつけるのではなく、受け手の中に響いていくことで作品は完成を見ることができる。

「言いおおせて何かある」とはまさにそういうことである。



ティッシュでいっぱい燃えるゴミ出す 馬場古戸暢

風邪ひきのあとか、男性の生理によるものか。

いずれにせよ、早く燃やしてしまいたいゴミである。



靴擦れを隠して輪に入った 藤井雪兎

この複雑な羞恥、心の機微を句として切り取る視点の鋭さ。それが雪兎の句風であると言える。鉄塊においても何度か句会をともにしたが、独特の言い回しがあるわけでも、共通の律を使いまわすわけでもないのに、雪兎の句は無記名の段階でも彼のものとわかった。

彼に限らず、鉄塊に参加していた者たちはそれぞれに独特な句風、世界観を持っていた。

「句風」という語を用いたが、「句風」とは自己模倣に陥る危険性を孕むものであり、作者本人は意識しないことが好ましい。

なぜかと言うと、「句風」とはアウトプットされた作品から他者が判断するものであって、作者本人が自覚すべきものではないからだ。

本人が自覚すべきものがあるとすれば、それは、五感からインプットされた情報を自分がどのようなフィルターを通して認知し、アウトプットするのか、というメタ認知(認知についての認知)である。あるいはそのフィルター自体。

そのフィルターが、私や寝覚にとっては「末期の眼」であり、祖啓にとっては「原始の眼」なのである。

そしてまさにこの句における「靴擦れ」こそが雪兎のフィルターであるようにも思う。黙っていれば誰にも気づかれることのない傷、痛み。それを隠して輪に入る。自分だけの痛み、自分だけが意識し、気にしている傷。

雪兎の句が笑顔を装いながらひりひりした痛みを伝えてくるのはそれゆえであろう。



描かずに筆置く大樹の前 藤井雪兎

この句はのちに本人の推敲により「描かずに大樹の前」となる。こちらの方が圧倒的に良い。句会という「場」を経て、句が昇華した例と言えるだろう。

雄大な自然に対する最大の賛辞である。

推敲句は、雪兎の句の中でも屈指のものと言える。

描かないことが大樹の壮大さや美しさを逆に描くことになる。

まさに俳句である。

しかしそこで疑問が生まれる。では、それを句にするのはどうなのか、と。

ここでは表現しなかった(描かなかった)ということを表現(作句)しているわけであり、入れ子構造を持つメタ表現が行われている。高度で知性的な操作である。



花びらを数えてから占う 藤井雪兎

石橋を叩いて渡るタイプであろう。

策略によって恋の勝者となる「こころ」の先生のごとき人物であろうか。



己の弱さに朝から氷浮かべた 松田畦道

ウイスキーであろうか。依存症は病気であり、心の弱さと考えて自分を責めるのでなく、受診をすべきである。



尖った靴で夜を企む 松田畦道

イカした句である。死語かもしれないが敢えてそう表現したい。

私は今年で40になったが、約30年前、中学校の頃にはとんがった黒い革靴がまだ流行っていた。ARBの「ダディーズシューズ」(1981年)という曲でも「トンガリ靴を履いたままヤツと街を歩いたら」と父親の靴を履いてみたことについて歌われている。

しかし、最近店頭で見る靴は尖っていないように思う。

このことから、「尖った靴で夜を企む」に共感できるのは、昭和3050年に生まれ、昭和から平成にかけての時期に青春を過ごした世代であると言える。

安心してください。履いてましたよ。



弄ぶために作られたなんという小ささ 松田畦道

バレ句の可能性も捨てきれないが、おそらくは工芸品、あるいは玩具であろう。

以前テレビで浅草にある江戸玩具の店が紹介されていた。吹けば飛びそうな小さな独楽がただ小さいだけでなくしっかりと回る、というところに職人のこだわりと矜持を感じた。

そうした感動を詠んだ句であろうと思う。



何かしら言い訳しているイルミネーション 本間鴨芹

11月句会であることから考えて、少し気の早いクリスマス飾りであろうか。

家の周囲にイルミネーションを配し、チカチカさせている家も最近少なくなったように思う。

「言い訳」とした視点は実に鋭いように思う。

クリスマスの飾りつけは幸福の象徴に見えるものだ。

しかし、だからこそ、そこには家庭内の不和、家族の不幸などが糊塗されているのではないかという穿った見方をしてしまうことがある。

実際、寂しい住宅街で、ただ一軒、イルミネーションを飾り付けている家を見たとき、なんとも言えない物悲しい気持ちになることがある。そのとき思うのはまさにこの句のように、何らかの糊塗、言い訳としてその飾りがあるのだろうということである。



ソフトクリームと書かれ寒風の幟 本間鴨芹

こうした景は北国の人間でなければ実感しにくいものかもしれない。

特に北海道においては、冬のアイスクリームの消費量は他都府県に比べて非常に多いという統計がある。

北海道共和国の冬は容易に死ねる環境なので、断熱・気密に優れた住宅で一日中暖房をつけっぱなしで生活する。したがって室内は常夏であり、アイスが美味い、と。

この句も、共和国外の人は、しまい忘れた幟がはためく、ちぐはぐさを詠んだ句との印象を持つことだろう。しかし共和国人にとっては日常であり、あたたかい部屋や車の中で食べるソフトクリーム美味しいです。



枯葉集まるここが新居です 本間鴨芹

良句である。

秋の引っ越しであろうか。

新居でありながら、不満があるのだろう。

意に添わぬ転勤、あるいは家族との別れ。

そうした不安や悲しみを「枯葉集まる」で表現した。

「新居です」という第三者への報告のような言葉は、納得や覚悟を促すために自分自身に言い聞かせているものなのだろう。





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次回は、「鉄塊」を読む〔6〕。

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