2015-12-06

名句に学び無し、 なんだこりゃこそ学びの宝庫(19) 今井聖

名句に学び無し、
なんだこりゃこそ学びの宝庫 (19)
今井 聖

 「街」113号より転載

月下の宿帳
先客の名はリラダン伯爵
高柳重信『蕗子』(1950年)

なんだこりゃ。

ゲッカノヤドチョウ
センキャクノナハリラダンハクシャク

言うまでもなく重信さんは多行表記。

俳句高踏派の首領であった。形而上派とか高踏派としか言いようが無いのは本人が自分は「前衛」ではないとおっしゃったからで、他に呼びようがない。

括りみたいなかたちで無理に呼ぶなよという声もあろうが、楸邨だって草田男だって本人が肯っているわけでもないのに人間探求派なんて呼ばれ、初出は「探求」だったものが、途中でなにやら重々しい「探究」なんて漢字に変わってきた。どっちにしても本人はどうぞ勝手に呼んでくださいってなもんだ。

重信さんも同様の思いだろうが、多行表記が「前衛」でないとすると正統だと思っていらっしゃったのか。

重信さんは「社会性俳句」もお嫌いだった。「社会性俳句」の人たちが「前衛」の起点になった。俺たちはそんなんとはわけが違うとおっしゃっていたのだった。

そんなんの中心には「寒雷」があると思っておられたから、重信さん編集の旧「俳句研究」では「寒雷」系をめのかたきにされた。楸邨憎しの原点は戦前の「俳誌統合」に遡るのでこれは根が深い。子飼いの論者を使って「寒雷」系を引っ張り出しては叩かせていた。彼等は褒める俳人も俳句もみな一様で上意下達に見えた。あまりにも統一的、党派的なので紅衛兵が浮かんだほどだ。

叩かれていた末席に僕もいたわけでこれは愉快なものではなかったが、そのおかげで自分の立ち位置への理解が深まったと言えなくもない。

まあ、今回はその両者の論旨はさておいて、句の話をしたい。

こういう句を見ると意地悪になる。

宿に着いて宿帳を書こうと思ってひらいたら先客に「リラダン伯爵」が居たという内容。もちろん思念の句。

リラダン伯爵は十九世紀フランスの詩人、小説家。奇行、放蕩の作家。伯爵の家に生まれたのに最後は極貧で終る。

帝大出て寺男で終わったフランス版尾崎放哉みたいな人だ。

この句の魅力はどこか。新鮮さはどこか。

先客がリラダン伯爵じゃなくて西行だったとする。

 月下の宿帳先客に西行と

 或は

 先客に西行とあり月の宿

とでもするとまるっきり伝統派俳人の句になる。

伝統俳人は西行が大好きだ。こう書けば西行へのリスペクトと自らもそこを目指す意識が出るんじゃないか。リラダンも同じだ。リラダンも西行も思念の中の先人。

 月下の宿帳先客に金嬉老

とでもすれば寸又峡の宿になる。

この宿帳、牧水、放哉、山頭火、「ゆきゆきて、進軍」の奥崎謙三、伊藤博文暗殺の安重根、岡本公三、重信房子なんかも入りそうだ。放浪、異端、無頼なら宿泊の権利のある「宿」だ。

他の誰でもなく、リラダン伯爵の示すところはなにか。それは重信さんのダンディズム。

これは「フランス」の放蕩貴族であるところが味噌だ。

重信さんは1923年生まれ。「おそ松くん」のイヤミが「おフランス帰り」を連発した。その作者赤塚不二夫が1935年生まれ。遡れば「ふらんすへ行きたしと思へどもふらんすは余りにも遠し」と歌った朔太郎もいた。

「フランス」はずっと「知識人」、「芸術家」の憧憬の的でありつづけてきた。さらに放蕩無頼、その上に没落貴族とくればモダンオヤジはぐっとくるでしょう。泥棒詩人ジャン・ジュネなんかもおフランス憧憬の人たちに人気を博したっけ。

僕の学生の頃の「澁澤龍彦」もブームだった。フランスの知的退廃ムード満載だったな。

個人的な句会に呼んでくださって僕が「寒雷」に居つくきっかけとなった当時の「寒雷」編集長平井照敏さんはフランス留学帰り。安東次男さんもフランス文学に造詣が深かった。最近の俳人でもそういう人いるけどどうしてフランス嗜好の人は超啓蒙的になるんだろ。睥睨的と言ってもいい。

重信さんのあの有名な「身をそらす虹の/絶顛/処刑台」にしたってこれルイ十六世やマリーアントワネットの公開処刑のギロチン台でしょ。どうみてもアメリカの十三階段や日本の斬首じゃないし。やっぱりおフランスですよ。

「写生」手法や神社仏閣俳人を笑って「言葉は言葉だ」って言った重信さん。この句は別にコトバの実験句じゃなくて通念的ダンディズムの句じゃないか。

では、この句、学ぶところはないのか。

ある。

イタリア未来派運動に呼応して二十世紀初頭に登場した日本未来派詩人の平戸廉吉はすでに百年も前に記号表記も立体表記も試みていたのだった。自由詩ではない個別俳句というジャンルにそんな啓蒙を持ってあらわれたことが新しいと言えば新しいということにはなる。

さはさりながら、重信さんの試みは俳句固有の要件とは何なのか。詩的モダンと俳句のモダンはどう関るのか。個人のダンディズムの内実は何か。新興俳句が狙った言葉への認識と反権力志向という不可分の関係がその遺志を継ぐ人たちにどう継承され示されているのか。

これらのことをあらためて提起してくれる。

なんだこりゃこそ学びの宝庫。



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