週俳2015年9月のオススメ記事
お尻ならなおさら
三木基史
週刊俳句は何らかの形でゆるーく関わっている人の多さが魅力。そのため掲載される記事の書き方にも自然とバラつきがあるし、硬派も軟派も楽しめる。
読み物としては軟派(内容ではなく書き方が優しいという意味で)を好む私としては、今井聖氏の『名句に学び無し、なんだこりゃこそ学びの宝庫』と畠働猫氏の『「尾崎放哉・種田山頭火」を読む』(1 2 3)には楽しませてもらっている。とくに、2015年9月6日号に掲載された畠働猫氏の記事は面白かった。記事の導入部で畠働猫氏は乳房について《自分自身はそこまで思い入れはなく、あれば揉む程度で、なければないで特に困ることはない。》とクールにおっしゃっているが本当だろうか。格好つけてはないだろうか。私なら絶対むしゃぶりつきたい、お尻ならなおさらだ……。最低だ。公共の場で、しかも本名で。嗚呼、家族にゴメンナサイ。
さて、記事の内容だが《すばらしい乳房だ蚊が居る 尾崎放哉》《ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯 種田山頭火》を皮切りに、乳房とちんぽこが詠まれた放哉と山頭火の句が並ぶ。《「性」とは、もっと根源的なものであり、人間存在の根本にかかわる問題であろうと思う。》で始まり、抑圧や禁忌の対象ともされてきた「性」は芸術とは切っても切れないものであり、自由律俳句でも自由に試行錯誤してほしいと締められている。
女乞食の大きな乳房かな 尾崎放哉
波へ乳の辺まではいつて女よ 尾崎放哉
お椀を伏せたやうな乳房むくむくもり上る白雲 尾崎放哉
秋暑いをんなだが乳房もあらはに 種田山頭火
日だまりの牛の乳房 種田山頭火
ごくごくおっぱい おいしからう 種田山頭火
霜へちんぽこからいさましく 種田山頭火
しかしながら、私は畠働猫氏の挙げられたそれらの句から「性」をそれほど意識しなかった。作中では確かに放哉や山頭火の目は乳房やちんぽこにクローズアップされてはいるが、それは性的な眼差しなのだろうか。私は「性」より「生」を感じる。作中の主人公が生きている象徴として。あっそうか、それが「性」に深いところで繋がっているのかも。
2015-12-27
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