落選展2015を読む〔1〕
大塚凱×堀下翔
編集部・記●今回、「落選展2015」参加作品について、参加者でもある大塚凱さん・堀下翔さんのお二人に対談していただきました。お二人には、事前に参加作品から10作品をピックアップしていただき、それらの作品を中心に、語っていただいております。お二人の選は下記のとおりです。
大塚凱選10作品
- 青本柚紀「飛び立つ」
- 上田信治「塀に載る」
- 加藤絵里子「ものの芽」
- 杉原祐之「日乗」
- 折勝家鴨「塔」
- 高梨章「明るい部屋」
- ハードエッジ「ブルータス」
- 堀下翔「鯉の息」
- 宮﨑莉々香「眠る水」
- 小池康生「一睡」
堀下翔選10作品
- 青本柚紀「飛び立つ」
- 上田信治「塀に載る」
- 大塚凱「鳥を描く」
- 杉原祐之「日乗」
- 高梨章「明るい部屋」
- 折勝家鴨「塔」
- ハードエッジ「ブルータス」
- 前北かおる「光れるもの」
- 利普苑るな「否」
- 小池康生「一睡」
大塚:
10作品選には入れなかったものの、選んだものよりも「採れる」句が多かった作品があったことは事実です。ただ、今回は対談形式ということなので、僕が喋りたい作品を選びました。喋りたい作品というのは、僕にインスピレーションを与えてくれた作品です。俳壇ではペーペー中のペーペーであって、ましてや角川の一次通過作品に入っていない僕には本来このように通過作品を含めて公に評をするなどという権利も価値もない、と思い込むようにしているので、作品の善し悪しをあまり評したくないなあ……、と消極的な気持ちでいます。大それていることをしている以上、僕は僕の観点から「自分はどう感じたか」だけを言っていると解釈していただければ幸いです。かつて上下関係の厳しい環境で野球をしていたせいか、年功というものにはひどく臆病です。前置きが長くなりました。すみません。
堀下:
おなじく、取りたい句の数ではなく、書き方や問題意識が特徴的で、ぜひ触れておきたい作者を10人挙げてみました。あんまり気負いせず、面白い表現を面白いと言っていく感じでがんばります。
大塚:
結構、採った作品が被ってしまいましたね。
●青本柚紀「飛び立つ」
堀下:
鳥飼つて二月の空を明るくすあたりをとっています。
叢に蟻の泉を掘りあてる
馬を彫る泉につけて来し両手
青嵐鳥に始まる進化学
蟻の泉とか、最高だねえ。わーっといる感じがたまらない。
クリアーな語彙をわりと狭い範囲から選び取って、それをどう関係づけていくのか、というところで書いた50句だと思います。あるものとあるものとを関連付けようとすると、ふつう、切って並べてぶつける、というやり方をするのが一番ラクなんですが、この50句を見てみると、そういう王道的な取り合わせの型があまり多くない。かわりに「て」でゆるやかに二物を結びつける、という方法がひじょうに多いんですね。上に挙げた〈鳥飼つて二月の空を明るくす〉もそうだし、〈鳥なくて鳥の巣に日の真直ぐなり〉〈蜩に明けて一日の晴れわたる〉あたりもそうです。
ゆるやかに繋ぐために、二物どうしのあいだに、もうワンクッションを入れているわけです。「飼ふ」とか「なし」とか「明く」がそうですね。それが、まあ読み手の感じ方にもよってくるんでしょうが、僕には、描写している感、みたいなものに思われました。細部に言及していることが、一句のたしかさになりえているような。
大塚:
青本家が誇る妹、柚紀さんの作品から。
僕も堀下くんの採ったものはチェックをつけています。〈蟻の泉〉の句は採ってるけれど、ちょっとオーバーすぎる感じはしました。ただ、この作品群には溶け込んでいます。他にも〈鳥なくて鳥の巣に日の真直ぐなり〉〈カルデラの深さを思ふとき夏帽〉〈鳥の骨春風に満たされてゐる〉〈四五匹のみんな恋猫みな濡れて〉〈よく鳴る森木に空蝉の夥き森〉などもいただいています。まず動物の句が多いですね。特に鳥。動物を「標本」として物体的に捉えている印象でした。〈恋猫の硬く帯電してをりぬ〉がいい例だと思います。そこに「濡れる」や「風に満たされて」といったフレーズを配合することで象徴化を図っているのだといった感じです。堀下くんはその部分を「描写」と捉えているけれど、つまりそのブリッジを用いることで心象風景とリアリズムをつなぎとめているのだと解釈できるのではないでしょうか。最後の〈白鷺〉の句もそうですが、なんだかレリーフのような……或いは、古代エジプトの壁画のような原始性がこれらの句にはあるかと。色彩を多用しているのもその志向と密接だと思います。逆に、〈あめんぼに水の逆らひつつへこむ〉なんかの写生句の方が、この作品群では異質に感じられたくらいです。植物ですら動的なんですね。〈ひらきゆく蓮を真中に抱くからだ〉や〈誰も見ぬダリアに水の真つ逆さ〉など。
その一方で、〈銅像を誰も過ぎ去り花は葉に〉〈墓の裏に廻れば花野そして風〉なんかは順当な印象。〈蝶よりも薄く図鑑のページあり〉は高柳克弘さんの〈つまみたる夏蝶トランプの厚さ〉(『未踏』)が出てきてしまって、2句目なのが勿体なかった。もう少し人事の句があるとバランスがいいかな、と思ったりもしましたが、この句作の方向性を突き詰めるには人事句を入れづらかったのかもしれません。堀下くんの指摘の通り語彙やモチーフが幅広い作り方ではないので、来年これをどう更新するのか、一読者として楽しみにしています。
堀下:
即物性を志向していないのにも関わらず、心象風景を読者に手渡そうとするために、リアリズムの影が差している感じ、ですね。
●上田信治「塀に載る」
堀下:
空はいつもの白い空から花の雨をとっています。これねえ、すごくゆるゆるじゃないですか。言葉どうしの緊張感がまるでない。緊張感のない中で書くとすれば、別のところでひっかかりをみつけなきゃいけないんですが、上にあげた句などは、たとえば、語順や文法といった表現のうえでヘンなところを見せようとしていたり、あるいは言ってることに妙な実感があるぞ、というところを狙ったり、そういう方法で問題を乗り越えようとしている感じがありました。骨はないんだけど、読んでいるうちに、そこで語られている言葉が急にのっぺりと、生クリームが固まるような感じで、手ごたえのあるものに変質していくイメージ。
ねぢ花を見てゐる顔や空の雲
雨の祭の金魚のやうなこどもたち
芋虫がふたつゐて芋虫のころ
ものすごくしょーもない句も多いんです。〈夜の梅テレビのついてゐるらしく〉とかは、〈夜の梅〉がヘンで面白い、という向きもあるかもしれないけど、まあ、しょぼい。たぶんこの書き手は、俳句形式、言い換えれば俳句という強烈な文体をしんから信頼していて、俳句にすればどんなこともたしかな手触りをともなって立ち上がるんだ、と思っている。それが成功したときには、あ、これが言葉になるとリアリティをもつのか、とびっくりさせられます。〈ねぢ花を見てゐる顔や空の雲〉がとくにそうですね。下五へのふわふわした飛び方もいいですけど、「ねぢ花を見てゐる顔」がいいですね。「見てゐる」だから、主体が注目しているのは相手の目なんです。見られているとも知らないで「ねぢ花」なんて変なものを見ている間抜けな目。で、それは「見てゐるまなこ」とかではなく、「見てゐる顔」と書かれている。いとしさがありますよね。眉毛とか、口元とか、顔のバランスとか、そんなところもひっくるめて、ちょっと好き、みたいな口吻があるなあと思いました。
あと〈雨の祭の金魚のやうなこどもたち〉はとにかく鮮やかでうつくしいので好きです。
大塚:
気象というか、空の句が多い印象だったのですけれど。なんていうかな、文体と相俟って、良く言えばおおらか、悪くいえばゆるゆる、という。それが成功している句にはなんだか惹かれてしまいます。
〈神の留守たて掛けてある濡れた板〉の謎めき、〈お団子は串に粘つて道に雪〉のどうでもよさ、〈ひばりの空のびる手足のつめたさよ〉はのびやかで季感もあるし好きです。〈炎昼に半月がありずつとある〉〈吾亦紅ずいぶんとほくまでゆれる〉なんかは言葉の密度が薄くて、鰹出汁だけの美味しさ、みたいな。個人的には〈空はいつもの白い空から花の雨〉に可能性を感じました。読み下す時には〈空はいつもの/白い空から花の雨〉とも読めるし、2度目には〈空はいつもの白い空/から花の雨〉と断裂させたい心地がして、でもやっぱりひと続きなんだなあ。メビウスの輪のような奇妙さが「花の雨」の風景と合っています。ここら辺にインスピレーションを強く受けました。〈雨の祭〉の句は、僕はあまり推しません。「雨の祭のこどもたち」が「金魚のやう」だって解釈すべきなら比喩が飛んでいないし、「こどもたち」が「雨の祭の金魚のやう」だと読ませたいなら「祭」という要素、しかも「雨」ということがこの句においては贅肉になってしまっている気がします。
堀下くんが「しょぼい」として挙げた〈夜の梅〉の句と、一方で採っている〈芋虫〉の句も作者は恐らく同様に「積極的に内容がない句」として詠んでいるつもりだと思うのですが、両者が違うのは対象へ向かう意識の密度ではないかと。〈テレビのついてゐるらしく〉はどこか他人事で、推定の助動詞だし、句が薄いのです。その点、〈芋虫〉は奇妙に執拗です。なのに述べ方がぶっきらぼうだから捻れていて面白かった。〈二月の雨ピンクのジャージ着て女は〉などの流し方は句を薄くしてしまっていると思いました。俳句の「内容」と「表現」が一定の相関関係を持つにしろ対になる概念だと解釈することを許して、両者の密度を一句においてどう設定しているかでモデル化を図るならば、両方が薄いと「しょぼい」になってしまうんではないかと。
堀下:
ああ、なるほど、対象へ向かう意識の密度、分かりました。意味性を逃れようとするときに、意味からだけでなく、対象からも目をそらしてしまっているというのはたしかにその通りだと思います。全体としてまなざしの拡散している句が多いのですが、それぞれのまなざしが拡散した先で、全部が全部なにも見ていない、ということが起こっているんですね。それぞれが見ているものが一句のうちにバランス悪く書き込まれ、そのバランスを失した感じがポエジーになる、ということならいいんですが。
大塚:
意味から逃れるために対象を凝視する方向性は、詩に結び付くと思います。それはゲシュタルト崩壊に似ているような。「あ」という文字を眺めていて、「『あ』ってこんな文字だったっけ?」という感触。そこに「あ」は実在するのだと思います。
●大塚凱「鳥を描く」
堀下:
タクシーの問はず語りもしぐれをり大塚凱のことが大好きなので、もっとたくさんとろうかと思いましたが、まあこんなところで。あなたは人情派だよねえ。母とか父とかの出てくる句は最高。一緒に句会をやっていると、昭和の青春をやっているようなダサい句がいつも出てきて、うすうす大塚凱の句だろうなあと思いつつ、「これはクソダサいね」などと言いながら、やっぱり取っています。泥臭さを演じながら、それを情感のレベルにとどめて、表現上で陳腐さを見せないのが、いいところだなあと思います。
母が拭く成人の日の鏡かな
火にひらく貝のふしぎを春の暮
母の日の父と来てゐる楡のかげ
冷蔵庫ひらき渚に立つこころ
〈タクシーの問はず語りもしぐれをり〉は助詞が決まっているよねえ。「の」の省略が効いているので、「タクシーの問はず語り」のくだりは一語あたりの意味濃度が高くて、コクになっている感じ。「も」で、車内の淀んだ空気、それから時間が長く感じられるような気分も見えてきて、何回でも読みたい句だなあと思わされます。田中裕明の〈大学も葵祭のきのふけふ〉(『山信』私家版/1979)に見られる、助詞のゆるぎなさが、この句にもあるよねえ。
〈母の日の父と来てゐる楡のかげ〉は、下五、ことに「かげ」がいいね。平仮名表記がなんとも言えず純朴で。
〈火にひらく貝のふしぎを春の暮〉も、省略と助詞の正確さにほれぼれします。あなたはともすれば意味で読まれがちな句の書き手なんだけど、それ以上に表現が緻密だよね。
大塚:
堀下くんは僕の作品も採ってくれたようで、ありがとう。今年度、初めて角川俳句賞に投句しましたが、そこから半年以上経つと「僕のやりたいこと」と「やらなければならないこと」と「賞が求めるもの」とのそれぞれの間にはそれなりに大きな乖離があるという気がしてなりません。僕は俳句をはじめた環境からして「賞や大会は狙うべきものである」という一種のイデオロギーに曝されてきました。賞への投句は「賞を獲るため」なのか「自分の志向を発露するため」なのか、そしてその両立は可能であるのか。僕は自分でとてもつまらないことを言っていると感じるけれど、でも間違っているのは果たして僕だけなのでしょうか。僕は「積極的ニヒリズム」として俳句を詠んでいると自己を解釈していますが、あらゆる賞に対しても、投句するたび自分が「消極的ニヒリズム」に堕落していく虞を抱いています。
堀下:
いいがたいものがあるの、たいへんよくわかります。新人賞の発表の時期になるといつもウツウツとした気分になる。僕の場合は高校2年生のときに島田牙城からいきなりメールが来て「角川賞に出そう」と言われてから、志のある書き手は角川賞に出すものだとなんとなく信じてきて、これは変な言い方かもしれないけれど、年に50句、自力で最高の句をそろえられることが、特にわれわれのような若い書き手にとっての矜持であり良心である、みたいな変な倫理観すらないではないのです。きみとおなじく「やりたいこと」「やらねばならないこと」は持っていますが、それは賞の求めるものかどうか、という点とは対立する項目ではない気がするので、おれの革新的な表現が俳人たちを瞠目させるんだ、という気概でどうにかしています。……と、ちょっと青臭いことを言ってみました。
大塚:
いや、対立はしていないけれど、乖離している気がするのです。
……自分語りが過ぎました。「俳句」の話をすると心が座礁しますが、「その俳句」の話は楽しいですから。次の「その俳句」の話に移ります。
●加藤絵里子「ものの芽」
大塚:
加藤さんの作品、堀下くんは採っていないですね。僕はなんだかゾクッとしますが。
麗らかなオルガンの中みちなりになど。この方の句からは静かな狂気を感じます。特に〈甘皮〉の句には久しぶりに興奮しました。どこか、身体が自然へ還元されてゆくような危うさを感じます。これが魅力です。自然との対話、というよりは、作中主体が外界との同化を志向しているかに。シングルヒット以上の句の絶対数はそこまで多くはないかもしれませんが、断片的にゾクッとした言葉を連ねているんです。音が悪いのが難点ですが(個人的には中八がすごく気になります)、〈春風はモルヒネのように夜行列車〉。或いは〈春を読みさして海までささくれる〉の「海がささくれる」という部分など、完璧な一句ではないかもしれないけれど、所々に可能性を感じるのです。
足踏みや菜の花畑に溶け込んで
晩春の甘皮むいて砂の中
一方で、外界を観念として把握しようとすると、やはり成功からは遠のくのではないでしょうか。〈水温む銀河系とは素数かな〉〈空想はスクリーンを泳ぎ青嵐〉〈四分音符てんとう虫を掬い上げ〉など。それでも、この人は身を鉛筆のように削ってこの作品を書いたんじゃないかと、そんな手触りがあって。粗さはあるのですが、でも、加藤さんの作品をまた見てみたいな、と、素直にそう思いました。
堀下:
単純に中八が多いので心が折れてしまったのですが、
春を読みさして海までささくれるあたり気になっています。口語性がつよい。〈桜蕊散る都心部の車輪たち〉の「たち」が擬人化になっているあたりがそうなんですが、概念的とはいっても、難解な方に捉えるのではなくて、ちょっと天真爛漫の感じがある。でも、そうかとおもえば、〈春を読みさして海までささくれる〉〈風花に問われてみれば椅子に居て〉のような、どこから発想したのかちょっと不思議な、ラフで明るい言葉遣いなんだけど心中には冷静を残す句が出てきて、こういうのがいいと思いました。〈晩春の甘皮むいて砂の中〉も取りこぼしの感があります。どの句も緩急がないのが特徴だと思います。
桜蕊散る都心部の車輪たち
梅干しの苦手な人の背中かな
風花に問われてみれば椅子に居て
大塚:
梅干しの句は言いませんでしたがしるしをつけています。擬人化が多すぎる、音が悪いなどはやはり難だと思います。だから50句単位で見ると堀下君のように心が折れてしまう人が出てくる。でも発想が面白くて、自由な感じが好きです。
次回へつづく……
2 comments:
この度は句評をして頂き、ありがとうございます。正面から丁寧に読んでコメントをして頂いて、何よりです!!感謝!!(^_^)他の方の句と並べて読んでみて、本当に句評の通りだなぁと思いますし、一方で全体的に、現実的な意味よりも詩としてのリズムや感覚から鑑賞なさっていているので、非常に勉強になりますし、個人的には励まされました。私はまだ作り方が未熟ですが、さらに精進したいと思います。m(_ _)m
そう言えばこの対談の続きが出てきませんね。
学生さんたちで試験でお忙しいのでしょうか。
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