〔ハイクふぃくしょん〕
覚
中嶋憲武
覚
中嶋憲武
『炎環』2014年4月号より転載
ちょっと休んでくかと、伝法な口調でスナミさんは言うと、いかにも通い慣れてると云った態で、そのオレンジ色のドアを押した。オレンジ色のガラスに「純喫茶らん月」と明朝体の文字が白くプリントされている。僕はやや戸惑いを隠せぬまま、その異空間へ続いて入った。
入ると右手にレジがあり、その奥はカウンターになっている。左手に発育不良な感じのするゴムの木の鉢があり、鉢植の傍に雑誌や新聞、コミックスの入ったカラーボックス。その奥にテーブル席が四つほどある。スナミさんは、カラーボックスから無造作に週刊誌とスポーツ新聞を取ると、カウンターの中にいた店主らしき五十がらみの女性に、久し振り、元気だったなど声をかけると、小柄でショートヘアの女性は快活に軽口で応え、二人で豪快に笑う。
スナミさんが先に立って、隅の一角のソファに着くと僕もその向いに腰を下ろした。腰を下ろす時に、スナミさんの整髪料がつんと匂った。上司であるスナミさんは、五十代半ばの営業部長。飲食店から転職をして来て二か月、僕はスナミさんに付いてあちこち回っている。三十歳になってこのままではいけないと感じたと云う、よくある転職の動機だった。実のところ、何がこのままではいけないのか、分かっていないのだが。
壁に何枚も貼られてある、軽はずみで性急な調子のサイン色紙を眺めていると、「何にする」と聞かれたので、「コーヒーでいいです」と言うと、その言い方はコーヒーに失礼じゃないのと、厚い唇を歪めてスナミさんは薄く笑いつつ。厚い唇に広がった鼻、二重瞼の大きな目。誰かに似ていると思ったら、ルイ・アームストロングだ。内心、サッチと呼ぶ事に決める。
「誰に似てるか考えてるのか」
言われて、ぎくりとした。「そんな視線だったぞ」と、スナミさんは、運ばれて来たコーヒーを啜った。昔、美濃の山中には覚と云う人の心を読む妖怪が住んでいたと聞く。スナミさんは覚か。これは安直にサッチとは呼べぬ塩梅になって来た。やはり営業部長ともなると相手が何を考えているのか、何をしたいのか的確に読み取ってゆかなければ、著しい成果は難しいのだろう。そこに思いが至ると途端に不安になって来た。
スナミさんは週刊誌の袋とじを眺めていたが、やおら顔を上げると「行くか」と言った。
午後も三時を回ると、少し冷たい感じの風が吹くようになった。
「これから寒くなると、いい季節だな。浅草の酔虎か三角でふぐもいいし、神田のいせ源で鮟鱇鍋か、ぼたんで鳥すきなんてのもいいな」
スナミさんは両手をポケットに突っ込んで、やや背を丸めながらそう言った。何事に寄らずがさつで不器用な質の僕は、先刻の喫茶店の事と云い、いまのスナミさんの言葉と云い、どこか別世界の事のように思えた。スナミさんの背に僕の影が映っている。ひょろひょろと斜めに長い僕の影が。
カトレアや男二人の喫茶店 野﨑タミ子
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