〔ハイクふぃくしょん〕
限界と終局
中嶋憲武
限界と終局
中嶋憲武
『炎環』2013年6月号より転載
どれくらい経ったのだろう。仕事で近くまで来たので、懐かしくなって寄ってみたが、あの頃と同じ様子で建っている。木造モルタル造りの二階建て。破風の白いところに「あけぼの荘」と墨文字で太々と書かれてある。ブロック塀が周囲を囲い、入口は両脇が角柱になっていて、丸い門灯がそれぞれに鎮座している。辺りがうす青い闇に変じて来ると、橙色の明りがぽっと灯る。きゅるきゅると軋む引戸を開けると広めの玄関で、下駄箱へ運動靴(あの頃はスニーカーなんて言わなかった)を仕舞い、階段を上がって廊下を少し歩いたところの角の六畳間が、わたしのアジールだった。合鍵を鍵穴に差し込んで左へ数回廻して戸を引き開け、この戸は開く時、ぎゅるぎゅると神経に障るような音を立てた、部屋へ入るとすぐに流しと一口コンロがあり、右側の障子を開けると六畳の城。トイレは共同で風呂無し。わたし達はもっぱら銭湯へ行った。絵描きの彼の部屋へ、わたしは転がり込んでいた。書物、スケッチブック、イーゼル、カンヴァス、油絵の道具。そんな物が部屋を占領していて、居場所は二畳くらいのスペースしかなかったけれど、そんな事はちっとも気にならなかった。装飾品と言えば、映画雑誌から切り抜いたらしいジーナ・ロロブリジーダのモノクロ写真が画鋲で留めてあるだけ。彼は看板描きのアルバイトからまだ帰って来ていなかった。
食べる物が無くて新聞紙食ったよ。彼は言って笑った事もあった。絵が少々売れるようになっていた彼は、過去の悲惨をファルスにしてしまえる心の余裕を持っていた。毎日が不安に押し潰されそうだったはたちのわたしには、その余裕がとても羨ましく映った。わたしはストーブの上に薬缶を置いて彼の帰りを待つ。カンヴァスに彼が描き散らした様々な色彩に囲まれて、オーネット・コールマンを低く流す。読みかけのホイジンガを開く。薬缶がしゅんしゅんと白い息を吐き始める頃、彼が帰って来る。わたしのかけがえの無い時間が、そこには確かにあった。
頭蓋にオーネット・コールマンが小さく響めいていた。わたしはあけぼの荘の前に佇んでいた。よく見るとあちこち相当傷んでいる。窓ガラスが割れて、そのままになっている部屋もある。青い闇が周囲を満たしても、壊れているのか門灯の点く気配は無い。軋む戸が開いて、内側の暗闇からペルー人と思しき男が一人出て来た。胡乱な一瞥をくれて、出掛けて行った。オーネット・コールマンはだんだん大きくなって、アルト・サックスが最早半狂乱の頂点へ螺旋を伸ばして行った。あけぼの荘の壁が剥がれ出し、めきめきと罅割れたかと思うと、生木の裂ける音が轟き、ガラスが飛び散り、瓦が吹っ飛び、土煙を上げて建物は崩落した。
わたしはふと会社へ戻らなければと思った。うすら寒い銀白色の街灯が灯り、陰気なオルゴールの流れる商店街を、駅に向かって歩いて行った。
寒オリオンあけぼの荘に灯のふたつ 岸ゆうこ
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