【週俳3月の俳句を読む】
クレソン、その他
瀬戸正洋
還暦を過ぎると、こんなにも気楽になるものかと驚いている。会社の仕事は質量とも何も変わらない。老妻との二人暮らしも、健康でありさえすれば、自由で気ままなものだ。休日に、子どもたちが帰ってくることも煩わしいと思うくらいだ。たまに、老妻は、一週間、あるいは、十日間と旅行に出かけたりもするが、不便なことといえば、その程度のことである。朝、駅まで送ってもらえないので、夜な夜な、途中下車ができなくなってしまう。午前六時に、自宅まで、タクシーを呼ぼうなどとは思わない。
吊雛めでたきものは土のもの 渡部有紀子
吊雛とは、庶民にとって雛壇飾りの代用のものあった。無病息災、良縁を祈願して飾られる。土のものとは、筍、蕨、薇、蕗、あるいはタラの芽のようなものなのだろう。庶民にとって持て成しとは旬のもの、それも自生しているものを振舞うこと。吊雛を飾ることも、持て成すことも、その家族にとっては、幸福なひとときなのである。
貌覆ふ雛ひとつに箱ひとつ 渡部有紀子
片付けるときになって箱の多さに気付く。貌を覆うとは、汚れから守るということもあるが、少しでも日常から隔離しようとする意志でもある。貌を覆い箱に収めて非日常の世界へ。そして、次の年を迎えるのだが、いつか、ある年、ひとの記憶は、薄れていってしまうのである。それから、貌を覆われ箱に収められた雛は、何年も何年も、暗闇の中で過ごす。数十年が経ち、忘れられてしまったとき、雛は日常に戻る。日常に戻るとは記憶を持たないひとたちによって捨て去られてしまうことなのである。
青き踏む面白きこと面白く 渡部有紀子
土手を歩いていても、畦道を歩いていても、春の息吹が感じられ、この季節の散策は至福のひとときなのである。つまらないことは、つまらないことに決まっているが、やらない訳にはいかない。くだらないことは、くだらないことに決まっているのだが、それでも止める訳にはいかない。そんな日々の暮らしの中の貴重なひととき、足の裏全体で春を感じることを幸福であると思わないひとはいない。
草餅の少し尖つてゐるところ 渡部有紀子
少し尖っているところは誰にでもある。それが、そのひとにとってのおだやかな個性なのかも知れない。
三猿に草餅一つ誰が喰ふ 渡部有紀子
三猿とは叡智の三つの秘密。三匹の猿が両手で、目、耳、口を隠す。その意匠を眺めているのは人間なのである。もちろん、草餅を食べるのは猿ではなく人間なのだが、誰が食べるのかといえば、それは作者だということになるのだろう。
犬の墓訪ふは草笛手の中に 渡部有紀子
犬を野原に解き放つ。躍動する肉体には草笛が似合うのだ。目の前を駆け抜ける肉体は美しい。疲れて犬が戻ってくるまで、ひとは草笛を吹きつづけるのだ。今、その愛犬は霊園に眠っている。手の中に、かつて、吹き鳴らした葉や莢を持って霊園を訪れるのである。
草笛を吹くとき肩のあがりやう 渡部有紀子
何かをすれば身体に何らかの動きが伴うのはあたりまえのことだ。草笛を吹くとき、動くのは肩だけではない。だが、作者は肩があがることだけに気付いてしまった。
早春や製図に線の跡無数 永山智郎
図面を製作している行為の中に不要となった線の跡が無数ある。つまり、不要になった線が記憶の中にあるといっているのである。頭の中で、線を引くことを繰り返し、何も無いところから、あるものを造り出す。早春の風が通り過ぎてゆく。
春灯表紙の顔のありふれて 永山智郎
ありふれてとは、いつも決まったひとなのか、同じような印象のひとたちなのか。表紙には、最大公約数的なひとの顔が無難なのだろう。春の灯りの下には、奇をてらったもの、特別なものよりも、ありふれたものの方が相応しいのである。
頬杖同士卒業を確かめ合ふ 永山智郎
卒業した者、それも親しい者同士が頬杖をして、とりとめもない話をしているのだ。いっしょに過ごしてきた友だちが、四月からは、離れ離れになり、別々の生活を始める。これからも親友でいよう。そんなことを確かめ合っているのだと思う。
草餅やビルからビルの影へ出て 永山智郎
オフィスから外へ出た。たまたま、オフィスのあるビルの影のあたりを歩いていることに気が付いた。口中には、草餅の余韻が残っている。今日は、日頃、怠けていた分を取り戻そうなどと考えている。
レコードの空転が始まる彼岸 西川火尖
彼岸は、春と秋とにある。合わせて十四日間。その間はレコードが空転して音楽は聴こえなくなる。ひとはレコードを掛けようとするのだが、レコードの意志により空転は始まるのだ。彼岸には、ひともレコードと同じように空転してみようと思うことは大切なことなのである。
花種に黒使はるる眩しさよ 西川火尖
黒いろを使うのは神の意思なのだ。花の種に黒いろが多いのは神の意志によるものなのである。それを眩しいと感じたのは、ひとなのである。神の意志であると確信したゆえに、ひとは、眩しいと感じたのである。
クレソンをしつかり食べて壊しけり 西川火尖
クレソンといえば身体によいものというイメージがある。身体によいものといえは、当然、精神にもよいものなのである。それを、しっかり食べたあと、壊すものといえば、精神、あるいは身体の隅々に隠れている邪悪なものなのである。自分の弱さゆえ、断ち切ることの出来ない誘惑、あるいは欲望。クレソンを、しゃきしゃきと噛む、あの口中で感じるさわやかな音こそ、邪悪なものが壊されていく音なのである。
囀や鼻血ふつふつ湧く心地 西川火尖
鼻血が出るとき、ふつふつ湧くような心地がするという。確かに、上を向いて寝かされたとき、ティシュペーパーを詰め込んでいても、ふつふつと湧いているような気がするといえば、そうなのかも知れない。頭のうえの方からは囀りが聞こえる。鼻血が出るまでは気にも留めなかったが、こんなにもうるさかったのかと思うほどの囀り。
蒲公英や記憶正しいかも知れず 西川火尖
土手にへばり付くように咲く蒲公英、そのところどころにある黄色い塊が精神の不安定さを象徴している。記憶に間違ったものなどあるはずが無いのに、そう思い始めると、ひとは、不安になってしまうのである。そんなときは、われに返ることだ。間違った記憶など存在しないのである。間違った記憶だと思っていても、それ自体が既に「記憶」として存在しているのである。
学生時代に親しんだ本を読み返していると、あの頃は、「不安」の中で暮していたような気がする。Aではないが、将来に対する漠然たる不安といったところなのだろう。二十歳の頃の読んでいる自分を、四十年後の自分が思い出しながら読むのである。読み返すことにより四十年前の自分の生活がまざまざと甦ってくる。この年になると、何が「不安」なのか、それなりに解ってきたような気がする。どうしょうもないことは、諦めるか、避けて通ればいいのだ。あとは、笑ってしまうこと、照れ笑いで十分だと思う。
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