【週俳3月の俳句を読む】
言葉を組みなおして
堀下翔
犬の墓訪ふは草笛手の中に 渡部有紀子
この草笛がすでに死んでしまった犬の記憶、ないしはその墓の記憶とどのような形で関わりを持っているのか、そういった事情はこの際重要ではない。ありし日のこの犬はその笛の音が好きだったのかもしれない、といった程度の連想が「犬」-「笛」という名詞どうしの既存の結びつきから導かれているにしても、いったいこの句が語ろうとして、しかし語らぬままにしている気分というものは、そういった連想のもっと外側にあるような気がしてならない。
そういう印象を受けた理由の第一には、この句のもっとも重要な名詞と思われる「草笛」が音を立てることもなく「手の中」に隠されているという状況が、一句の風景をあまりにいきいきと動かそうとしているからだ。この「草笛」は、「犬の墓」に着いたときには吹かれるものであるか、あるいは持って行ったにも関わらず、その用がなされることもなく、ずっと手に握られたきりになるのか、いずれであるかという気配を持たず、ただ無造作に「手の中」にあるということが述べられている。
いや、正直に言えば僕は、「手の中」という状況を読んだとき、この「草笛」は墓の前にあったとしても吹かれずじまいになってしまうような、むざむざとした予感を覚えたのだ。それはおそらく、「訪ふ」という名詞が、「犬の墓」に対してやや思わせぶりであるような、過剰であるような手ごたえを感じていたからに他ならない。「犬の墓」というものが現実的にどのような場所かといえば、僕はそれを“ペット霊園”、あるいは庭先を掘ってなきがらを埋めた簡単な墓として想像した。それらのひどく生活的な場所は、「犬の墓」として名詞化されることで、まるで風景が変わって、なんだか約束が違ったような、奇妙な印象を伴いはじめるのであるが、けれどもそれにしたって、「訪ふ」というのはちょっと大げさなのではないか、まるで山奥にある誰も知らない道をひとりでとぼとぼと進んでいるような、そんな風景さえ、見えてしまうではないか。だからこそ「草笛」には、笛の音によって犬を呼ぶような劇的な小道具にはなってほしくなかったし、事実この語は、「犬の墓」「訪ふ」といった語との関わり合いの中で、ぼんやりとしながら、ひそかにバランスを取ろうと図っているように見えたのである。
だが何度もこの句を口にするたびに、そのような読みは深読みでしかないように思われてきて、結果としてこの句は、読むたびに風景を変えてゆくこととなった。要は、どっちでもありえる、ということだ。「訪ふ」が提示する、墓に着くまでの時間の幅は、読者にとっては無音であり、だからこそ墓の前で「草笛」がびいっと音を発する瞬間は、やはりなんとも言えず味わいがある。どちらがどう、というのが問題になっているのではない。どうとでも転がる「手の中」の無造作なふるまいが、この句に底知れぬ不気味さを与えている、それを確認したかったのだ。
第二には、掲句の言い回しが、きびきびとして過不足のないような、いや、むしろ肉を削りすぎていくばくかの要素を欠いてしまっているような、不思議な姿をしていることだ。「は」によって倒置が起こっている掲句であるが、これを整叙の形にしてみると、
「草笛(を)」「手の中に」「犬の墓(を)」「訪ふ」
ということになろうか。「手に」ではなく「手の中に」であるから、本来「草笛を」に対応してあるべき動詞が一つ抜けていることが分かる。元の形に戻ってみれば、
犬の墓訪ふ(ということにあって/ときは)は草笛(を)手の中に(入れる)
とでもなる筈だから、やはり、「手の中に」で切れているのはやや収まりが悪い。あるいは、
犬の墓訪ふ(ということにあっては/ときは)は草笛(が)手の中に(ある)
という読み方も可能だろう。こちらは「ある」という動詞がいっぱんに省略しやすいために、「に」切れにも違和が少ない。格助詞「に」ではなく、助動詞「なり」の連用形として取ってしまう手もあるし。
とにかく、もともとテクニカルな作りであるうえに、読者のほうで動詞を一つ補う必要があるため、ひじょうに“疲れる”句なのだ。表現というものは、その姿を取っている必然性をまとうものである。たとえば〈草笛を掌中に訪ふ犬の墓〉というシンプルな姿でも同じ風景を示しうる以上、〈犬の墓訪ふは草笛手の中に〉には、何らかのニュアンスが含まれている。それをここで逐語的に解釈していくのも悪い仕事ではないが、もう野暮だよ、という気もしないではないから、とりあえずここでは、この句は決して〈草笛を掌中に訪ふ犬の墓〉ではない、というのを指摘するにとどめておく。
不気味さとか、ニュアンスとか、何の足しにもならないことばかり書いてしまったけれど、この句がそういった何の足しにもならないものによって成立していることは間違いない。
この草笛がすでに死んでしまった犬の記憶、ないしはその墓の記憶とどのような形で関わりを持っているのか、そういった事情はこの際重要ではない。ありし日のこの犬はその笛の音が好きだったのかもしれない、といった程度の連想が「犬」-「笛」という名詞どうしの既存の結びつきから導かれているにしても、いったいこの句が語ろうとして、しかし語らぬままにしている気分というものは、そういった連想のもっと外側にあるような気がしてならない。
そういう印象を受けた理由の第一には、この句のもっとも重要な名詞と思われる「草笛」が音を立てることもなく「手の中」に隠されているという状況が、一句の風景をあまりにいきいきと動かそうとしているからだ。この「草笛」は、「犬の墓」に着いたときには吹かれるものであるか、あるいは持って行ったにも関わらず、その用がなされることもなく、ずっと手に握られたきりになるのか、いずれであるかという気配を持たず、ただ無造作に「手の中」にあるということが述べられている。
いや、正直に言えば僕は、「手の中」という状況を読んだとき、この「草笛」は墓の前にあったとしても吹かれずじまいになってしまうような、むざむざとした予感を覚えたのだ。それはおそらく、「訪ふ」という名詞が、「犬の墓」に対してやや思わせぶりであるような、過剰であるような手ごたえを感じていたからに他ならない。「犬の墓」というものが現実的にどのような場所かといえば、僕はそれを“ペット霊園”、あるいは庭先を掘ってなきがらを埋めた簡単な墓として想像した。それらのひどく生活的な場所は、「犬の墓」として名詞化されることで、まるで風景が変わって、なんだか約束が違ったような、奇妙な印象を伴いはじめるのであるが、けれどもそれにしたって、「訪ふ」というのはちょっと大げさなのではないか、まるで山奥にある誰も知らない道をひとりでとぼとぼと進んでいるような、そんな風景さえ、見えてしまうではないか。だからこそ「草笛」には、笛の音によって犬を呼ぶような劇的な小道具にはなってほしくなかったし、事実この語は、「犬の墓」「訪ふ」といった語との関わり合いの中で、ぼんやりとしながら、ひそかにバランスを取ろうと図っているように見えたのである。
だが何度もこの句を口にするたびに、そのような読みは深読みでしかないように思われてきて、結果としてこの句は、読むたびに風景を変えてゆくこととなった。要は、どっちでもありえる、ということだ。「訪ふ」が提示する、墓に着くまでの時間の幅は、読者にとっては無音であり、だからこそ墓の前で「草笛」がびいっと音を発する瞬間は、やはりなんとも言えず味わいがある。どちらがどう、というのが問題になっているのではない。どうとでも転がる「手の中」の無造作なふるまいが、この句に底知れぬ不気味さを与えている、それを確認したかったのだ。
第二には、掲句の言い回しが、きびきびとして過不足のないような、いや、むしろ肉を削りすぎていくばくかの要素を欠いてしまっているような、不思議な姿をしていることだ。「は」によって倒置が起こっている掲句であるが、これを整叙の形にしてみると、
「草笛(を)」「手の中に」「犬の墓(を)」「訪ふ」
ということになろうか。「手に」ではなく「手の中に」であるから、本来「草笛を」に対応してあるべき動詞が一つ抜けていることが分かる。元の形に戻ってみれば、
犬の墓訪ふ(ということにあって/ときは)は草笛(を)手の中に(入れる)
とでもなる筈だから、やはり、「手の中に」で切れているのはやや収まりが悪い。あるいは、
犬の墓訪ふ(ということにあっては/ときは)は草笛(が)手の中に(ある)
という読み方も可能だろう。こちらは「ある」という動詞がいっぱんに省略しやすいために、「に」切れにも違和が少ない。格助詞「に」ではなく、助動詞「なり」の連用形として取ってしまう手もあるし。
とにかく、もともとテクニカルな作りであるうえに、読者のほうで動詞を一つ補う必要があるため、ひじょうに“疲れる”句なのだ。表現というものは、その姿を取っている必然性をまとうものである。たとえば〈草笛を掌中に訪ふ犬の墓〉というシンプルな姿でも同じ風景を示しうる以上、〈犬の墓訪ふは草笛手の中に〉には、何らかのニュアンスが含まれている。それをここで逐語的に解釈していくのも悪い仕事ではないが、もう野暮だよ、という気もしないではないから、とりあえずここでは、この句は決して〈草笛を掌中に訪ふ犬の墓〉ではない、というのを指摘するにとどめておく。
不気味さとか、ニュアンスとか、何の足しにもならないことばかり書いてしまったけれど、この句がそういった何の足しにもならないものによって成立していることは間違いない。
0 comments:
コメントを投稿