2016-07-03

自由律俳句を読む 143 「鉄塊」を読む〔29〕 畠働猫

自由律俳句を読む 143
「鉄塊」を読む29

畠 働猫


今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第三十回(20151月)から。

この回から鉄塊に小澤温(はる)と武里圭一が参加する。
とは言え、小澤は「木葦」「春風亭馬堤曲」の号で、第一回から第四回にかけて参加していた草創期のメンバーである。
小澤も武里も若い詠み手である。
前回も述べたように、若い詠み手は貴重な存在だ。
この先の俳句人生の長さを思えば、その伸びしろや生み出せる句の数において若さはそのまま可能性の大きさである。
ただ、自由律俳句において、詠み始める早さが必ずしもそのままアドバンテージとなるかは疑問である。
花鳥諷詠、自らの外部に句材を求めていくならば、いつ詠み始めようと無限に句を拾うことができよう。
しかし、自らの内面に材を求めていく場合、それはいずれ枯渇するのではないか。
事実自分の場合、詠み始めて2年くらいは、汲んでも汲み尽くせない井戸が自分の中にあった。これまでの人生の中で、詩や小説にできなかった素材たちが、「自由律俳句」という表現手段に出会い、次々に現出していった。
そしてある日、覗き込んだ井戸が空になっていることに気づく。
もはや「表現しなくてはならない」ものは枯れ果てていた。
不思議と喪失感はなく、晴れ晴れした気分があった。
これは自分の実感であるし、誰もがそうだとは思わない。
そして、恐らくはまだ自分が至らぬ境地がこの先にあるのであろうとも思う。

しかし、若くして同様に井戸を汲み尽くしてしまったと感じた者はどうなるのか。
「これしかない」という思いでこの表現方法を選び、そして詠めなくなってしまった者は。
その苦しみを思うと、私は他人事ながら胸が痛む。
だからそうした若者のために何ができるかと、いつも考えてしまうのである。


文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。



◎第三十回(20151月)より

手にいっぱいの種をまく 小澤温
○希望を感じさせる。小さな手であろう。子供の手か。私たちは種を蒔く土壌をどれだけ次の世代に残せるのだろう。(働猫)

美しい句である。
小さな子供とともに種をまく様子を思い浮かべた。
種は未来への希望である。
私も種をまき育てる仕事をしながら、その種が育つ未来を思い、しばしば暗鬱たる思いに囚われる。
自分も含めて、すべての大人は無力であり、一種白痴的傾向に陥っているように思う。
政治も経済も行き詰まり、もはや自分がこの世から逃げ切るまでの誤魔化しや暇潰しに終始しているようだ。
「いかなることも七世代先まで考えて決めなくてはならない」というネイティブアメリカンの格言がある。まだこの世にいない者の利益が最大限になるよう考えて生きなくてはならないということだ。
それが今を生きる者の責任である。
いますでに存在している若者をも切り捨てようとしている社会は滅ぶべくして滅ぶ。せめて私は、種をまくことをやめないでいたい。



雀一斉に陽へ隠れ 小澤温
○羽ばたく雀を目で追って太陽を見たのだろう。視点の移動を自然と表現している。(働猫)

小さなものを追った視線が太陽を見てしまったのだろう。
冬の日の長閑やかな景を切り取っている。
さえずりや羽音まで聞こえてくるようである。



鉄塔の重き夜空 小澤温
○曇り空ならば重いのもわかるのだが、「夜空」が重いというのはよくわからない。では重いのは鉄塔か。鉄塔を重いと感じるのはどのような目なのか。これは景色・情景を常に審美眼によって切り取る癖を持つ者の句であろう。この夜、この情景においてあの鉄塔が重いのである。その自らの違和を詠んだものか。(働猫)

小澤温の句に通底するものは、この審美眼であろう。
小澤は好んで性的な句材を用い、また露悪的とも言えるような句を詠む。
そうした句ばかりを見ると気づきにくいが、そこには自身の審美観に沿った美の発見があるのである。その美醜の判断は、社会的通念や倫理、道徳とは無縁である。ただただ、自らの眼で美の本質を探り当てようとしているのだろう。
ここまでの3つの句だけでも、その美への眼差しの鋭さ、慧眼を感じ取ることができよう。



インポや妻に初夢見させる 小澤温
△「見せたる」と誤読して、関西弁の句かな、と思ったが違った。関西弁の句の方が面白かった。(働猫)

露悪的で自嘲的である。



今日の寝床か脚をさらせば 小澤温
△一夜の宿を得るために、脚を晒しているのだろうか。家出の末、身体を売ることを覚えた女子の悲哀を詠んだものか。女子の貧困は、搾取と偏見によってさらに貶められてしまう深い闇だ。(働猫)

こちらも性的な匂いのする句である。



殺したい顔面拭えないので 一人暮らしはじめました 武里圭一
●よくわからない。意味が、ではなく、表現の意図が。空白も効果的ではないように思う。始めるのは冷やし中華でもよいように思う。(働猫)

武里の鉄塊での最初の句であるが、当時逆選でとっているように、よくない。
冗長であり、内容も甘えが過ぎる。
若さゆえであろう。今はまだ詠むべき景ではなかった。
のちに振り返って詠めばまた違う句になろうかと思う。



君の的外れ俺の的を射た 武里圭一
△J-POPの歌詞のようだなと感じた。(働猫)

「君」と「俺」が「若い子の聞く曲」に感じたところだろうか。
「君」に対応する一人称は「僕」であろうし、「俺」と言うなら「お前」だろう。
「君」と「俺」だとパーソナリティが分裂気味であり、思春期の不安定なアイデンティティを感じさせる。
そうした若さゆえの不安定さを(それこそ露悪的に)そのまま見せていけば、それこそ今しか詠めない句となり、彼の持ち味となると思う。しかし武里は妙に老成したところがあり(あるいはそう見せたいのか)、それを隠してしまう。
周囲に同世代の詠み人がないせいかもしれないが、老人が詠むような句を武里が詠む必要などないのである。
必要なのは呈示ではなく開示だろうと思う。



寂しい夜の水洟すする 武里圭一
△「水」で区切るのか、「水洟」とするのか。「水洟」ならば相当熱も高いのだろう。大事にしてほしいものだ。(働猫)

句意としては「水」で区切った方がおもしろいと思う。
しかしそうであるならば、表記上そう読めるようにしただろう。
だからやはり「水洟」なのだ。
熱の夜の寂しさを「寂しい」と言ってしまっては身も蓋もないではないか。
これも若さか。



二の足踏むや祖父はICUにいる 武里圭一
△母親の脳梗塞を経験しているので、この心境には共感できる。現実を直視することを恐れる心境がよく表現されている。(働猫)

目を逸らしているうちは、苦しみや悲しみを無いものとしていられる。
しかし、現実は時間とともに確実に進行してゆく。
失わずにすむものなど、この世には何もない。



主治医の話きいていきおい煙草吸いに出た俺だった 武里圭一
△「永訣の朝(宮澤賢治)」中の「曲がった鉄砲玉のように」を思わせる。「俺だった」はなくともいいと思うが、よく知っている自分自身の意外な行動に驚いたという意味での「俺だった」ならば、削るわけにもいかないのだろう。(働猫)

「俺だった」と聞くと、ジョジョ好きとしてはヌケサクしか思い浮かばないから困るよ。



真っ直ぐ蒲団を敷いて祈る 小笠原玉虫
△ムスリムかな。互いの祈りが尊重される世界であってほしい。(働猫)

種をまき、あとは祈ること。
未来のために、次の世代のために私たちにできることは限られている。
人がみな尊重し合える世界になるように願うばかりだ。



裸木のレース透かして鈍空がくる 小笠原玉虫
△「レース」と表現したのは詩的であると思う。「鈍空」はよくわからないが曇天のことなのであろうか。雪の降る前の情景を詠んだものだろうか。(働猫)

「裸木のレース」は巧みな比喩表現であったと思う。
おそらくは、葉を落とした枝の影がレースのように絡み合う様子を喩えたものと思うが、その景に気づくのは晴天でなかろうかと思う。
明るい日差しにふと見上げた枝が逆光で黒くレースのように絡み合っている。
その発見は「鈍空」とは別の日にあったのではないか。
そしてその「レース」の印象を持ったまま、それ以降の日の鈍空に出会ったのだろう。
つまりこの句は二つの時間の発見を一つの句にまとめているのだ。
そこに違和感を覚えるのは確かだが、詩としては悪くないように思う。



明け方の月が薄くて爪を噛んだ 小笠原玉虫
△なぜ「噛む」にしなかったのだろう。「噛む」の方がずっといいのに。「噛んだ」と過去形にすることで、爪を噛むという無意識の行為を意識下のものとしてしまう。「爪を噛んだ自分」を詩的なものとして振り返っているような、やや過剰な自意識を思わせてしまうのだ。「噛む」であれば、意図のない瞬間を切り取った表現となる。どちらも「爪を噛む自分」を客観視しているのだが、「噛んだ」とした場合には自意識がやや臭う。(働猫)

これは当時の句評の通りである。好みの問題かもしれないが。



鍵盤叩いてひとつずつ葬る 小笠原玉虫
△レクイエムだろう。鎮めるものは魂であろうか、思い出であろうか。(働猫)

私はあらゆる楽器が弾けない。
おそらく神は与えすぎることを恐れたのだろう。
したがって、楽器が出てくる句は、どうにもよくわからない。
当時の句評も「そんなことがあるのだろうかなあああ」くらいの想像で書いたものである。



雨のせいです笑うしかない 小笠原玉虫
△「他者のせいにすること」も「笑ってごまかすこと」も私は忌み嫌っている。この句にはそれが二つとも入っている。むう。許せぬ。(働猫)

十年くらい前のことだが、雪道で信号待ちをしているときに後続車に追突されたことがあった。
幸い互いにけがはなかったが、私の車はバンパーがかなりへこんだ。
後続車を運転していたのは若い女性で、かなり動揺していたようだったので、できるだけ優しく対応することにした。
その後、事故処理の過程で、謝罪の電話をかけてきたのだが、終始へらへらと笑っているのである。緊張すると笑ってしまう人というのはいるものなので、電話の応対の際は「ああしかたないよな」と思いながら聞いていたが、あとになって猛烈に腹が立った。
そんなことを思いだした句である。
むう。



水音かさなる秒針 馬場古戸暢
○時を刻む音が二つある状態。「水音」は水滴であろうか。重なっているから耐えられるが、二つの音にずれがあった場合、精神に異常を来しそうな気がする。(働猫)

微かな音を描写することで静けさを表現する古典的技法である。
しかし、その音を二つにすることで、狂気的な不安定さを加味した。
眠れずに冴えていく意識が、何秒かに一度落ちる水滴の音と秒針の音を数えている。
ぞっとするような景である。



ごみも落ち葉もこの棟の陰 馬場古戸暢
△吹き溜まりになっているのだろう。掃除する者もない閑居の様子か。(働猫)

団地を思う。
そこに住んでいるのだとすれば、ごみや落ち葉とともに吹き溜まりわだかまる自分自身を詠んでいるのだろう。



ごみ袋あいて雀二羽 馬場古戸暢
△袋の中にいたのか。開けたところに餌を求めてやってきたのか。いずれにしても微笑ましい景色だ。(働猫)

小澤の詠んだ雀が飛び去って行くのに対し、古戸暢の雀はそこに留まっている。
人柄の差であろうか。



小雨のふたりの近い深夜 馬場古戸暢
△傘の中の二人なのだろう。温もりを感じる。(働猫)

今日(72日)札幌はひどい豪雨に見舞われた。
出かける用事がなければ、雨も悪くはないのだが。
小雨の深夜、一つの傘で歩く。
色気のある状況である。
このところ経験していない景でもあり、寂しい。



この子どこの子抱き上げておく 馬場古戸暢
△正月の親類が集まる席であろうか。誰の子供かわからないが、とりあえず抱き上げておく。やさしさのようでもある。しかし自分に引き寄せて考えてみると、子供嫌いな人間が、社会にうまく適応するために、パフォーマンスとして行っている情景を思う。そういった「とりあえず」感がこの句の主題であろう。(働猫)

ああ、私はよくやってしまうのだ。
子供は本当に嫌いなのだが、とりあえずパフォーマンスとしてかまってしまう。
その度自己嫌悪に陥るが、「子供嫌いなので近寄らないでください」とか言ってしまうのは幼稚に過ぎる。
とりあえずやっとかないといけないことが大人には無限にあるのだ。



*     *     *



以下五句がこの回の私の投句。
雪降り積もりだれもいない夜が輝く 畠働猫
平等に呪われながら愛を負う 畠働猫
夜しずか咎の無い者みな眠る 畠働猫
--・-・ ・-・-・ --・- ・-・-・ -・-・- ・・-・- --・-・ ・・・- ・-・・・ ・・- ・・-・・ ・・- ・--- ---- ・・- 畠働猫
避けられぬ苦しみぐらいあるさひつじ年 畠働猫

1月の句会であったので、新年を詠んだ句が集まるかと思ったが、自分以外では小澤のインポ句しかなかった。

4句目はモールス符号で、
「シンネンサミシクオウトウヲコウ」
「新年さみしく応答を乞う」
と詠んだ。
同音で「信念」、「桜桃」などの意にとってもおもしろかろうと思ったのだが、どうか。特に誰も言及してくれなかった。
応答のない「さみしさ」は、鉄塊の終焉を遠からず感じていたこともあるのだろう。



次回は、「鉄塊」を読む〔30〕。


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