自由律俳句を読む 145
「鉄塊」を読む〔31〕
畠 働猫
今回も「鉄塊」の句会に投句された作品を鑑賞する。
第三十三回(2015年4月)から第三十五回(同6月)までの投句。
文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。
◎第三十三回(2015年4月)より
この道も胸に穴あける道 武里圭一
△どの道も悲しみに充ちているということか。それとも銃弾の飛び交う修羅の国かな。(働猫)
感傷的な句。若さを感じる。
あてどなく春の風に吹かれ大阪城 武里圭一
△死に場所を求めて秀頼のもとに集った牢人のような心境か。(働猫)
大阪の陣について、真田丸でどのように描かれるのか楽しみですね。
四月の風吹け我葉桜を待つ 武里圭一
△「葉桜を待つ」とはどのような心境か。よくわからない。特別な思い入れでもあるのかと思う。北海道の開花は四月どころか五月中旬ですよ。ゴールデンウィークにはぜひお越しください。(働猫)
今見てもやはりわからない。
花見客を憎んでいるのだろうか。
黒光りする水にも桜の色が襲う 武里圭一
△汚れた水か。重油であろうか。昔のガソリンスタンドはこうした水を垂れ流していたように思う。昭和の記憶だ。色彩の対比を狙ったものと思うが、「の色」がうるさく感じる。削るべきだろう。(働猫)
夏の夜、父に連れられてクワガタを採りに行ったことを思いだす。
近所のガソリンスタンドの灯りに照らされたコンクリートの白い壁が穴場だった。
父は無口で、会話した記憶はほとんどない。
それでも、時々そうやって連れ出してくれたことは楽しい思い出として残っている。
冬あけても膝抱いている 武里圭一
○寒さによって生命が脅かされる冬に比して、実際には春の方が憂鬱なものである。生きる意志がなくとも生きられてしまうからだ。この句でも、そうした無気力と理由のない悲しみの季節が描かれている。(働猫)
いつからかずっと、春は憂鬱な季節である。
赦されたい夜の薬切れとる 馬場古戸暢
○自嘲的な句であるが、「~とる」が軽妙な印象を添えている。方言であろうが、ここでは効果的であると言える。(働猫)
薬に「赦し」を求めたのだろうか。合法であってほしい。
桜の根元のお母さんを呼ぶ 馬場古戸暢
●桜の下に死体はありがち過ぎる。(働猫)
実際には生きているお母さんなのだろうが。
女の指の長さに春日 馬場古戸暢
○良句。「指」を句に詠み込むことで読者はその様々な形態、動作を想像する。春日を受けている指の長さをどういった場面で発見するのか。色気のある情景である。(働猫)
「指」は豊潤なモチーフである。
それは「繋がり」や「関わり」の象徴であり、そこに私たちは自分自身の他者との関係性を投影する。
濡れた夜も深まる 馬場古戸暢
△濡れた夜が深まるのは当たり前だろう。(働猫)
まったく当たり前である。いやらしいことだ。
酒飲む体に薬いれとく 馬場古戸暢
△お医者さんが駄目だと言っていたでしょう。飲むなら飲むな。飲んだら飲むな。(働猫)
順番を変えてもだめなものはだめなのだが。
そんな夜もあろう。
◎第三十四回(2015年5月)より
酔えないまま日が射してきた 武里圭一
△夜明けととるか。西日ととるか。「酔う」が酒によるものかそれとも別のものか。夜明けと酒では平凡な句に堕してしまうが、西日と情交に酔うものととればバレ句とも読める。四畳半の匂いが漂ってくる。(働猫)
四畳半句として読みたい。
醒めてしまった二人。
同棲生活は始めは楽しくとも、慣れて「家族」になってしまうとこんなものだ。
冷めた蛍光灯に稚児のような咳繰り返す 武里圭一
△形容詞が多すぎてよくない。語り過ぎか。(働猫)
多すぎる。
責られて顔の陰影 武里圭一
△うつむいて影が濃くなった様子だろうか。祖啓の句であれば、中東諸国の人々の彫りの深い顔を詠んだとか、そんな違う意も読み取れそうだが、彼はもうここにはいないんだな……。(働猫)
祖啓ロス現象である。
何の残渣か肉の冷え 武里圭一
△「残渣」が言いたかったんだろう。(働猫)
「残渣」という言葉が浮き過ぎている。
後悔するっきゃない放浪の夢 武里圭一
△みやすのんきかな?(働猫)
逆に、「やるっきゃ騎士」世代の我々には詠めない句と言えるかもしれない。
夢の君が振り向く夢か 馬場古戸暢
△あとの「夢か」は気づきの詠嘆であろう。かつて愛した女の顔が思い出せない。共感できる句である。ムジナの怪談として読んでもよかろう。(働猫)
あるいは無限に夢が続くループともとれる。
春眠汗ばむ子の声 馬場古戸暢
△縁側での昼寝だろうか。子もその親も汗ばんでいるのだろう。くっついて眠っていたものか。(働猫)
ほのぼのした景である。
遊ぶ子を見守りながらうとうとした場面かもしれない。
地平の月の大きさをふたり 馬場古戸暢
△二人がともに何をしたのか。その行為について、読む者に委ねているのだろう。見つめ合ったのか。それとも互いに句や歌にしてみたのか。「月」も「ふたり」も鉄板ネタかもしれない。「月並み」ということです。(働猫)
「月」を詠めばなんとなく句になってしまうものだ。
したがって、月並みにならない句を「月」で詠むのは難しい。
三度目の桜散り過去はどうして赦してくれない 馬場古戸暢
△過去がゆるしてくれないのは当然であり、「どうして」と問いかけるには値しない。(働猫)
古戸暢にしては珍しい情緒過多な句である。
分かっていても問いかけてしまうほどの感情の高ぶりが、桜に呼び起こされたのだろうか。
子らが海を指差す橋だ 馬場古戸暢
○「海が薫る橋で泣く(古戸暢)」第二十八回 鍛練句会(2014年11月)で特選にとった句だ。作者は同じく古戸暢であろうかと思うが、この「橋」は多くのドラマの舞台となってきたものなのだろう。(働猫)
橋と生足は古戸暢の重要なモチーフである。
この「橋」が定点となって、古戸暢の人生のあらゆる場面を見守ってきたのだろう。
◎第三十五回(2015年6月)より
メメクラゲの空涎臭い街 武里圭一
△引喩、アリュージョンという技法であろう。「メメクラゲ」は「××クラゲ」の誤植であるらしいが、間違いから新しい生命が得られた奇跡的な言葉である。その奇跡的な言葉を安易に引いてもだいたいは失敗する。引喩は引用元をどこかで超えなければ、単なる紹介文に堕してしまうものだ。(働猫)
これではつげ義春の作品世界そのままであり、武里が詠む意味がない。
引喩は、その引用元を自らの作品の一部として利用する手法である。それによって自作品の内容を豊かにすることが目的だ。
したがって、その自作品が引用元の世界観から抜け出ていないのでは、何の意味もない。中学生の読書感想文と同じである。
住宅街にネオン・ノイズが鳴り出した 武里圭一
△昭和の音という感じがする。しかし住宅街に?どういう状況なのかよくわからない。路地裏の音。酒場の音かと思うが。しかしそうではない違和を詠んだものであろう。自分には状況をつかみ難かった。(働猫)
この若者は昭和からタイムスリップしてきたのかもしれぬ。
細腕や青春は自殺した 武里圭一
●自殺は私自身のテーマでもあるので、見る目は厳しくなる。これはよくない。(働猫)
「細腕」と「自殺」からリストカットを連想するが、そのリストカットのような空々しさがある。
そういや髪の毛一本落としてかなかったあの娘 武里圭一
○デリヘル句であろうか。経験がないのでよくわからないが。また呼びたくなる女の子というのは、こうした細やかな心遣いができる子なのだろう。(働猫)
心遣いはこうして相手の心に響き、歌や句になるものなのだなあ。
だけどゴミ漁らなければあめのひるどき 武里圭一
△烏か野良猫に自らを仮託したものか。新しい題材ではない。「だけど」の逆接も「あめ」にかかっているのが解り易すぎて広がりがない。言い尽くされている。(働猫)
武里の中にも「捨てられた」感があるのだろうか。
どこかで自分を認めてやることができれば、句風も化けるのだろう。
今後の変化が楽しみである。
深夜の不意に全裸だ 馬場古戸暢
△全裸句はおもしろいが「不意に」はその面白さの中でも月並みなものである。我々はもっと新しい全裸句を求めているのだ。(働猫)
急に思い立って全裸になってみたのか、それとも夜の窓に全裸の女性を見つけたのか。いずれにせよ、「月」の句同様、「全裸」句にはより新しいものが求められる。ハードルの高い句材と言える。
洗濯機壊れた夜にこけた 馬場古戸暢
△悪いことは重なるものだが、洗濯機が壊れたほどの不幸の前には「こけた」程度の不幸は忘れられてしまうものではないのか。それを同等に語るからには、この「こけた」の結果は全治2週以上の重傷であったのだろう。遠方からご平癒をお祈りしています。(働猫)
洗濯機、冷蔵庫などの大きな家電が壊れると、非常に困るものだ。
ちょっと買ってくるというわけにもいかないし、生活のために常時使用しているものであるので、生活が滞ることになる。
「洗濯機壊れた」とはそれほど大きな不幸であるのだ。
それに比肩するほどの「こけた」の結果を思えば、かなりの重傷を想定せざるを得ない。そしてそれにより洗濯機を買いにいけないという相乗効果による生活の停滞。気の毒としか言えない。
カフェの女の指輪に気付いた 馬場古戸暢
△淡い失恋であろうか。だからどうしたという気持ちになる。童貞感の強い句である。(働猫)
ほんとにね。
贅肉つまむ子抱き上げる白昼 馬場古戸暢
△愛情が伝わる。「贅肉つまむ」は実際の情景であるというリアリズムを演出する効果がある。(働猫)
古戸暢の詠む「子」の句はどれもほのぼのとしていてよい。
溺愛ぶりが窺える。
私もすっかり贅肉が落ちなくなってきた。
ポケモンGOでもやってみようか。
ゴキブリ一匹居間を飛んだ 馬場古戸暢
△そのまま過ぎはしないか。何か、例えば違和感でも詠み込まなければ、句として成立しないだろう。(働猫)
北海道なのでわからないのだが、ゴキブリは飛ぶだけで句になるくらいの衝撃を持つのであろうか。
そうであれば、当時の句評は的外れであったかと思う。
* * *
私の投句は以下15句。
第三十三回(2015年4月)
花影を歩き続けている 畠働猫
猫とボインが着地する暁 畠働猫
凍えてしまう(ハルハクル?)空が白む 畠働猫
春雨に濡れてもつれているふたり 畠働猫
過ぎ去りし十代は血の味のして 畠働猫
第三十四回(2015年5月)
夕焼け仏陀桜は散った 畠働猫
春踏み潰した靴を脱ぐ 畠働猫
正しいと信じて生きて五月闇 畠働猫
花病んで月射す 畠働猫
春のトランクいっぱいの闇 畠働猫
第三十五回(2015年6月)
諍いのあと雨は静かに薔薇を濡らす 畠働猫
泣いている人とおんなじ夕焼けでいる 畠働猫
正しい夏の灯にかぶとむし 畠働猫
網膜焼いて飛ぶ鳥の行方 畠働猫
暑かった寒かった窓の無い部屋で外の話 畠働猫
鉄塊の鍛錬句会を第一回から振り返ってきた。
今回紹介した三十五回句会をもって「鉄塊」は活動を休止した。
「鉄塊」は結社や同人とはかかわりなく、句会をともにできる場であった。
これを休止という状態にしたのは、当時の参加者の合意によるものである。
いつでも、その「場」が必要となったときに、必要となった者が使えるように、という配慮であった。
武里のように、特に若い世代にそれは必要なものであろう。
しかし、そうした「場」が「鉄塊」である必要もない。
必要な者は必要な場を自ら生み出していくだろうからだ。
いずれ同じような、あるいはもっと野心的な、新しい「場」が生み出されることだろう。
井戸や坑道はあちこちでどんどん掘られるべきだ。
自由律俳句の泉は未だ汲み尽くされてはいないのだから。
次回は、「荻原井泉水」を読む〔1〕。
第三十三回(2015年4月)から第三十五回(同6月)までの投句。
文頭に記号がある部分は当時の句会での自評の再掲である。
記号の意味は「◎ 特選」「○ 並選」「● 逆選」「△ 評のみ」。
◎第三十三回(2015年4月)より
この道も胸に穴あける道 武里圭一
△どの道も悲しみに充ちているということか。それとも銃弾の飛び交う修羅の国かな。(働猫)
感傷的な句。若さを感じる。
あてどなく春の風に吹かれ大阪城 武里圭一
△死に場所を求めて秀頼のもとに集った牢人のような心境か。(働猫)
大阪の陣について、真田丸でどのように描かれるのか楽しみですね。
四月の風吹け我葉桜を待つ 武里圭一
△「葉桜を待つ」とはどのような心境か。よくわからない。特別な思い入れでもあるのかと思う。北海道の開花は四月どころか五月中旬ですよ。ゴールデンウィークにはぜひお越しください。(働猫)
今見てもやはりわからない。
花見客を憎んでいるのだろうか。
黒光りする水にも桜の色が襲う 武里圭一
△汚れた水か。重油であろうか。昔のガソリンスタンドはこうした水を垂れ流していたように思う。昭和の記憶だ。色彩の対比を狙ったものと思うが、「の色」がうるさく感じる。削るべきだろう。(働猫)
夏の夜、父に連れられてクワガタを採りに行ったことを思いだす。
近所のガソリンスタンドの灯りに照らされたコンクリートの白い壁が穴場だった。
父は無口で、会話した記憶はほとんどない。
それでも、時々そうやって連れ出してくれたことは楽しい思い出として残っている。
冬あけても膝抱いている 武里圭一
○寒さによって生命が脅かされる冬に比して、実際には春の方が憂鬱なものである。生きる意志がなくとも生きられてしまうからだ。この句でも、そうした無気力と理由のない悲しみの季節が描かれている。(働猫)
いつからかずっと、春は憂鬱な季節である。
赦されたい夜の薬切れとる 馬場古戸暢
○自嘲的な句であるが、「~とる」が軽妙な印象を添えている。方言であろうが、ここでは効果的であると言える。(働猫)
薬に「赦し」を求めたのだろうか。合法であってほしい。
桜の根元のお母さんを呼ぶ 馬場古戸暢
●桜の下に死体はありがち過ぎる。(働猫)
実際には生きているお母さんなのだろうが。
女の指の長さに春日 馬場古戸暢
○良句。「指」を句に詠み込むことで読者はその様々な形態、動作を想像する。春日を受けている指の長さをどういった場面で発見するのか。色気のある情景である。(働猫)
「指」は豊潤なモチーフである。
それは「繋がり」や「関わり」の象徴であり、そこに私たちは自分自身の他者との関係性を投影する。
濡れた夜も深まる 馬場古戸暢
△濡れた夜が深まるのは当たり前だろう。(働猫)
まったく当たり前である。いやらしいことだ。
酒飲む体に薬いれとく 馬場古戸暢
△お医者さんが駄目だと言っていたでしょう。飲むなら飲むな。飲んだら飲むな。(働猫)
順番を変えてもだめなものはだめなのだが。
そんな夜もあろう。
◎第三十四回(2015年5月)より
酔えないまま日が射してきた 武里圭一
△夜明けととるか。西日ととるか。「酔う」が酒によるものかそれとも別のものか。夜明けと酒では平凡な句に堕してしまうが、西日と情交に酔うものととればバレ句とも読める。四畳半の匂いが漂ってくる。(働猫)
四畳半句として読みたい。
醒めてしまった二人。
同棲生活は始めは楽しくとも、慣れて「家族」になってしまうとこんなものだ。
冷めた蛍光灯に稚児のような咳繰り返す 武里圭一
△形容詞が多すぎてよくない。語り過ぎか。(働猫)
多すぎる。
責られて顔の陰影 武里圭一
△うつむいて影が濃くなった様子だろうか。祖啓の句であれば、中東諸国の人々の彫りの深い顔を詠んだとか、そんな違う意も読み取れそうだが、彼はもうここにはいないんだな……。(働猫)
祖啓ロス現象である。
何の残渣か肉の冷え 武里圭一
△「残渣」が言いたかったんだろう。(働猫)
「残渣」という言葉が浮き過ぎている。
後悔するっきゃない放浪の夢 武里圭一
△みやすのんきかな?(働猫)
逆に、「やるっきゃ騎士」世代の我々には詠めない句と言えるかもしれない。
夢の君が振り向く夢か 馬場古戸暢
△あとの「夢か」は気づきの詠嘆であろう。かつて愛した女の顔が思い出せない。共感できる句である。ムジナの怪談として読んでもよかろう。(働猫)
あるいは無限に夢が続くループともとれる。
春眠汗ばむ子の声 馬場古戸暢
△縁側での昼寝だろうか。子もその親も汗ばんでいるのだろう。くっついて眠っていたものか。(働猫)
ほのぼのした景である。
遊ぶ子を見守りながらうとうとした場面かもしれない。
地平の月の大きさをふたり 馬場古戸暢
△二人がともに何をしたのか。その行為について、読む者に委ねているのだろう。見つめ合ったのか。それとも互いに句や歌にしてみたのか。「月」も「ふたり」も鉄板ネタかもしれない。「月並み」ということです。(働猫)
「月」を詠めばなんとなく句になってしまうものだ。
したがって、月並みにならない句を「月」で詠むのは難しい。
三度目の桜散り過去はどうして赦してくれない 馬場古戸暢
△過去がゆるしてくれないのは当然であり、「どうして」と問いかけるには値しない。(働猫)
古戸暢にしては珍しい情緒過多な句である。
分かっていても問いかけてしまうほどの感情の高ぶりが、桜に呼び起こされたのだろうか。
子らが海を指差す橋だ 馬場古戸暢
○「海が薫る橋で泣く(古戸暢)」第二十八回 鍛練句会(2014年11月)で特選にとった句だ。作者は同じく古戸暢であろうかと思うが、この「橋」は多くのドラマの舞台となってきたものなのだろう。(働猫)
橋と生足は古戸暢の重要なモチーフである。
この「橋」が定点となって、古戸暢の人生のあらゆる場面を見守ってきたのだろう。
◎第三十五回(2015年6月)より
メメクラゲの空涎臭い街 武里圭一
△引喩、アリュージョンという技法であろう。「メメクラゲ」は「××クラゲ」の誤植であるらしいが、間違いから新しい生命が得られた奇跡的な言葉である。その奇跡的な言葉を安易に引いてもだいたいは失敗する。引喩は引用元をどこかで超えなければ、単なる紹介文に堕してしまうものだ。(働猫)
これではつげ義春の作品世界そのままであり、武里が詠む意味がない。
引喩は、その引用元を自らの作品の一部として利用する手法である。それによって自作品の内容を豊かにすることが目的だ。
したがって、その自作品が引用元の世界観から抜け出ていないのでは、何の意味もない。中学生の読書感想文と同じである。
住宅街にネオン・ノイズが鳴り出した 武里圭一
△昭和の音という感じがする。しかし住宅街に?どういう状況なのかよくわからない。路地裏の音。酒場の音かと思うが。しかしそうではない違和を詠んだものであろう。自分には状況をつかみ難かった。(働猫)
この若者は昭和からタイムスリップしてきたのかもしれぬ。
細腕や青春は自殺した 武里圭一
●自殺は私自身のテーマでもあるので、見る目は厳しくなる。これはよくない。(働猫)
「細腕」と「自殺」からリストカットを連想するが、そのリストカットのような空々しさがある。
そういや髪の毛一本落としてかなかったあの娘 武里圭一
○デリヘル句であろうか。経験がないのでよくわからないが。また呼びたくなる女の子というのは、こうした細やかな心遣いができる子なのだろう。(働猫)
心遣いはこうして相手の心に響き、歌や句になるものなのだなあ。
だけどゴミ漁らなければあめのひるどき 武里圭一
△烏か野良猫に自らを仮託したものか。新しい題材ではない。「だけど」の逆接も「あめ」にかかっているのが解り易すぎて広がりがない。言い尽くされている。(働猫)
武里の中にも「捨てられた」感があるのだろうか。
どこかで自分を認めてやることができれば、句風も化けるのだろう。
今後の変化が楽しみである。
深夜の不意に全裸だ 馬場古戸暢
△全裸句はおもしろいが「不意に」はその面白さの中でも月並みなものである。我々はもっと新しい全裸句を求めているのだ。(働猫)
急に思い立って全裸になってみたのか、それとも夜の窓に全裸の女性を見つけたのか。いずれにせよ、「月」の句同様、「全裸」句にはより新しいものが求められる。ハードルの高い句材と言える。
洗濯機壊れた夜にこけた 馬場古戸暢
△悪いことは重なるものだが、洗濯機が壊れたほどの不幸の前には「こけた」程度の不幸は忘れられてしまうものではないのか。それを同等に語るからには、この「こけた」の結果は全治2週以上の重傷であったのだろう。遠方からご平癒をお祈りしています。(働猫)
洗濯機、冷蔵庫などの大きな家電が壊れると、非常に困るものだ。
ちょっと買ってくるというわけにもいかないし、生活のために常時使用しているものであるので、生活が滞ることになる。
「洗濯機壊れた」とはそれほど大きな不幸であるのだ。
それに比肩するほどの「こけた」の結果を思えば、かなりの重傷を想定せざるを得ない。そしてそれにより洗濯機を買いにいけないという相乗効果による生活の停滞。気の毒としか言えない。
カフェの女の指輪に気付いた 馬場古戸暢
△淡い失恋であろうか。だからどうしたという気持ちになる。童貞感の強い句である。(働猫)
ほんとにね。
贅肉つまむ子抱き上げる白昼 馬場古戸暢
△愛情が伝わる。「贅肉つまむ」は実際の情景であるというリアリズムを演出する効果がある。(働猫)
古戸暢の詠む「子」の句はどれもほのぼのとしていてよい。
溺愛ぶりが窺える。
私もすっかり贅肉が落ちなくなってきた。
ポケモンGOでもやってみようか。
ゴキブリ一匹居間を飛んだ 馬場古戸暢
△そのまま過ぎはしないか。何か、例えば違和感でも詠み込まなければ、句として成立しないだろう。(働猫)
北海道なのでわからないのだが、ゴキブリは飛ぶだけで句になるくらいの衝撃を持つのであろうか。
そうであれば、当時の句評は的外れであったかと思う。
* * *
私の投句は以下15句。
第三十三回(2015年4月)
花影を歩き続けている 畠働猫
猫とボインが着地する暁 畠働猫
凍えてしまう(ハルハクル?)空が白む 畠働猫
春雨に濡れてもつれているふたり 畠働猫
過ぎ去りし十代は血の味のして 畠働猫
第三十四回(2015年5月)
夕焼け仏陀桜は散った 畠働猫
春踏み潰した靴を脱ぐ 畠働猫
正しいと信じて生きて五月闇 畠働猫
花病んで月射す 畠働猫
春のトランクいっぱいの闇 畠働猫
第三十五回(2015年6月)
諍いのあと雨は静かに薔薇を濡らす 畠働猫
泣いている人とおんなじ夕焼けでいる 畠働猫
正しい夏の灯にかぶとむし 畠働猫
網膜焼いて飛ぶ鳥の行方 畠働猫
暑かった寒かった窓の無い部屋で外の話 畠働猫
鉄塊の鍛錬句会を第一回から振り返ってきた。
今回紹介した三十五回句会をもって「鉄塊」は活動を休止した。
「鉄塊」は結社や同人とはかかわりなく、句会をともにできる場であった。
これを休止という状態にしたのは、当時の参加者の合意によるものである。
いつでも、その「場」が必要となったときに、必要となった者が使えるように、という配慮であった。
武里のように、特に若い世代にそれは必要なものであろう。
しかし、そうした「場」が「鉄塊」である必要もない。
必要な者は必要な場を自ら生み出していくだろうからだ。
いずれ同じような、あるいはもっと野心的な、新しい「場」が生み出されることだろう。
井戸や坑道はあちこちでどんどん掘られるべきだ。
自由律俳句の泉は未だ汲み尽くされてはいないのだから。
次回は、「荻原井泉水」を読む〔1〕。
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