俳句ガイドライン板とは何だったのか、あるいは型の再定義と最適化
生駒大祐
俳句ガイドライン板
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週刊俳句・第482号において、俳句ガイドライン板を作ったことについてざっくりとした文章を書いたところ、すぐに西原天気さんから、とても的確な指摘をいただきました。
「A 似ている、B パロディ・本歌取り、C 構造/パターン(の相同)。これらはぜんぶ違うことだと思うのだけれど、この趣旨説明、判然としないところがある。」
https://twitter.com/10_key/status/754595789519806464
正直に言うと、これは本来のガイドライン板のやっていること(パロディ、すなわちB)と僕の元々やりたかったこと(型の相同、すなわちC)がずれていることに掲示板を作った直後に気づき、ガイドライン板と名前を借りた手前、この相違をなんとか繋げないといけないと感じて文章に持ち込んだのが「似ていること」(A)というキーワードだったので、説明に飛躍が生まれてしまった、というのが事の顛末です。
(ただ、俳句が「似ているという感情を誘発する要素」を性質として持っているということは前から感じていたことで、これはいつかちゃんと文章にしたいと思っているので、そのうちどこかに書くかもしれません)
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僕が俳句ガイドライン板(本来の意味とは上記のように異なるかもしれませんが、呼び名は変えないことにします)でまだそこまでやれていないけれど将来的にやりたいこと、すなわち「俳句における型の相同の収集・集積」には二つの意味があると思っています。
・現在までの俳句の持つ型の数が実はかなり限られていることを明らかにすること
・俳句の新しい型を考えた人がそれは本当に新しいのかを確かめられるようにすること
です。
トータルの目的としては「型の再定義と最適化」で、前者は俳句の「新しさ」にわかりやすい定義を与え、後者はその「新しさ」を実現するための助けとなります。以下ではそれらを説明します。
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前者は僕が直感的に感じていることで、現在までの俳句という形式の持つバリエーションは実は少ないのではないか、ということがあります。それは、これまで俳句が多様であると(以前の僕も含めて)思っていたのはその「型」の考え方がまだ最適化されていないからではないか、ということです。例えば「上五の『や』+中七+名詞」「切れのない上五中七+(季語)かな」という湘子が行ったような分類では定義域が広すぎて型とその効果の説明において一般的なことしか言えないでしょう。一方で、僕が自分で掲示板に書いていますが、「下五が『思ふかな』」というような型では、例句が少なすぎておそらく一般化が困難です。
そこで求められるのが、丁度良い例句数(いたずらに句の数が多いのではなく、その型を使った面白い句が複数ある、ということが大事だと思います)を持った型の記述の仕方を考え出し、かつその効果を説明することです。それによって俳句の持つ法則性のようなものが炙り出され、さらに僕の直感が正しければ、ある閾値以上の面白さ(そこに関しても別途議論が必要ですが)を持った句群の全てを有限の型で分類できるはずです。
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それが出来た時には、二つ目に書いたことが意味を持ってきます。俳句がある有限の型で分類できるならば、本当に新しい俳句を生み出そうと志す人は「これまでにない新しい俳句の型」を創造しなければならない、という状況が発生します(既にある型で面白い俳句を作る、という考え方もあるとは思いますが、僕の考えはそうではない、ということです)。その状況下では、新しい型を作ったと思った人が掲示板を見ると、自分の作った型が既存のものでないかを検索で調べることができます。これは、俳句の新しさが明確に定義され、その判定がシステマティックに行えるということも意味します。僕にとってこれは理想的な状態です。
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長々と書きましたが、俳句ガイドライン板の目的を再び一言で言えば「型の再定義と最適化」です。それがもしかしたら俳句を滅ぼすかもしれないし、一定の人にとっては好ましくない状態が生じるかもしれませんが、僕はそれをやりたいと宣言しています。
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最後に、俳句ガイドライン板では変わらず皆様の書き込みをお待ちしております。
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2 comments:
書いてあることはとても興味深いのですが、この文章を読んで俳ガ板に書き込みやすくなるかというと、実は、前より書き込みづらくなるひとのほうが多そうな気がします。有用性に重きが置かれすぎている。目的意識を真面目に共有していないひとは書き込んではいけないような気がしてくる。
生駒さんは、前回の文章では「大言壮語でネタを真面目に見せるのが僕の悪いところ」と書いていらっしゃいました。いまこの箇所を引用したのは、べつに上げ足をとるためではなくて、この「ネタ」というところに、僕なんかは積極的な価値を見出しているからです。
楽しいからやっていることは、こう楽しいからやっていますよ、と教えてほしいと思うのです。僕は、目的よりは、むしろその楽しさを分かち合いたい。
僕は、俳ガ板へ書き込むという行為に、分類を口実にした引用の快楽を覚えます。さしあたり、それが僕にとっての俳ガ板の価値です。なんにせよ、引っぱってきて並べるのは、楽しい。
似ていることとパロディと型との違いとかは、この場合は、僕にとっていずれにせよ引用の口実でしかありませんから、細かいことのように感じられます。その口実は、ほどほどのゆるさとひきしめによって、ジグソーパズル的なあてはめの快楽をもたらしてくれさえすればいい(たとえば、《天平のをとめぞ立てる雛かな》(水原秋櫻子)が今立っているいくつかのスレッドに同時にあてはまりそうなのに気づいたりすると、楽しい)。
快楽の所産が結果として何らかの目的に役立つかどうかは、二の次(役立ててほしくないというわけではありません。役に立とうとするとしんどい、という話)。そのくらいの気楽さがないと、続いていかないのではないかと。
ガイドラインというネーミングで「?」となってしまう部分があります。
スタイリッシュとかハードコアを狙ったのかも。
「似たものどうし」とか、ダサいほうがいい。
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パターンの相同、ネタの類似(反復性)、もじり・パロディー・オマージュ等々、どれもアリでいい。でも、スレッドごとに最低限の峻別があったほうが、書き込むほうとしては好都合。
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