【週俳5月・6月の俳句を読む】
閉鎖性を条件とする《空》の相互観測とアニミズム
閉鎖性を条件とする《空》の相互観測とアニミズム
わたしの新たな身体の制作に向けたふたつのルートの仮設計
山本浩貴+h
休日 小林かんな
《朝ぐもり》という言葉で、ある活字のまとまりが始められたとき、それは言語的な主体にはなりえないものとしてまずは身をあらわすだろうが、続いて《開封の前よく振って》と来たとき、誰がその行為を担っているのかという以上に、何を開封しようとしているのかということの抜け落ちによって、《朝ぐもり》と《開封の前》のあいだに、単なる区切りとは別の隔絶が見える。《朝ぐもり開封の前よく振って》。《朝ぐもり》を、《開封の前よく振って》という言葉が示している行為にとっての、単なる書割とするのを妨げているその隔絶は、《開封》する対象として《朝ぐもり》をもたらすのはもちろん、《朝ぐもり》こそが《開封》する主体として機能する回路を、僅かながら開くことになる。
一般的には主体とはなりえないようなものの、言語表現を介した主体化の可能性の提示。同様に、《プールから人引き上げるひつじ雲》《金魚鉢ガーゼ包帯取り換える》《海の底見てきた夜の扇風機》の、それぞれ《ひつじ雲》《金魚鉢》《扇風機》にも見える、句内の行為を担う表現主体の位置をおぼろげに指し示そうという手つきは、たとえば優れて語りの入り組み構築された小説によって初めて露出する言語的性質のはずだが、俳句にはそれがあまりに平然と、頻繁に、横たわっているように思えるのはなぜなのか。
言語表現は、視覚や聴覚や触覚をベースにした表現よりもいっそう、前提となる知識や因果関係や習慣を外れにくい。ねこは空を飛ばないし、時間はご飯を食べない。もしもそれを外れてしまったなら、途端に活字は意味をなさなくなり、「難解」などとレッテルを貼られ、知覚情報ゼロとして読まれなくなる。当然、思考は起動しない。とはいえ一定の物理的な長さをもった散文であれば、語りを積み重ね、物語を整備し、徐々に既存の因果関係を狂わすことで「ねこが空を飛んだ」「時間がご飯を食べている」などの表記を成立させることは可能かもしれない(SFやホラー、幻想小説のように)。ただ、そのときにもやはり、そうした因果関係を読み手が自分のなかに整備できるような、ゆっくりとした速度が必要になる。あるいは、(認知言語学が熱心に探求しようとしていたような)人間の大多数が抱えているだろう身体に根付いたスキーマを利用し、それを軽くハッキングするようにして、辛うじての読みを成立させていく、その際どさをやはり辛うじて積み重ねていくことで全体として新たな因果律を作り出すこともまた可能だろう(多くの穏和な現代詩がとっている手続きである)。しかし、いずれにせよ物理的な長さは必要だ、短くやろうとすれば、既存の(人間一般として想定されるような五体満足な)身体を前提としてしまう点で、あまりに人間的すぎるものになってしまう。ほんの十数文字でしかない羅列が、それを十句並べたときに起こる余剰の問題は後に触れるとして、ある句が単独で、人間の身体を基盤とする主体性とは別の主体性を瞬時に読み手の内部に作り出そうとしているように感じられるのはなぜなのか。
もちろんその由来として、俳句という表現方法に頻繁に見られる、ふたつのかなり位相の異なる記述の、五七五での音の区切りを利用してのなかば強引な飛躍的並置が挙げられる。例えば河東碧梧桐《春風の吹いて居るなり飴細工》における《飴細工》は、春風が吹いて居ることと、密接させられるほどの関係にはあまりない。だが、それが俳句という小さな容器の中、あるいは短なリズムの中へ、強引に押し込められたとき、ふたつの無関係的な要素のあいだに、無関係性を際立たせる「/」が認められはじめ、同時に「/」前後の要素を完全には切り離すことなく統合する存在が、にわかに沸き立ちはじめることになる。つまり、ある句を一貫して表現しただろう主体が、言語の配列から立ち上がる統合作用の担い手として、読み手には(活字の中にはそんなものは把握されえないにもかかわらず)知覚されてしまう。そのとき、その仮構された主体は、基本的には春風が吹くということにも、また飴細工にも、還元されえないものであることが肝心だ。それが還元されるのであれば、《春風の吹いて居るなり》と《飴細工》のあいだには、「/」など生まれず、言語表現主体もまた単純に、ある行為(碧梧桐の句では《吹い》《居る》)に寄り添ったものとなっていただろう。逆に言えば、そうした「/」は、句中の行為に単純には寄り添わない位置へと、句の表現主体を押し出してしまうことで、自らもまた単なるリズム上の区切りや意味の切れ目などではない、《朝ぐもり》こそが《開封》する主体として機能する回路を用意するような隔絶として、ある種の迂回を経るかたちで、姿をあらわすこととなる。つまり、一度言語の上から身を遠ざけられ、隔たりを持った要素同士の、隔たりを持ったままの統合を担う位置に置かれることによって、表現主体は、言葉への既存の寄り添いではない、新たな主体化を分泌することになる。
では、その分泌の過程とはいかなるものなのか。隔絶としての「/」は、その生成過程に、ある言語表現を行った主体による外部環境の観測が埋め込まれている。《記憶より明るきくらげ出てきたり》の《より》には、あるくらげを《記憶》のなかのくらげと比較する観測者の表出があると同時に、《記憶》という場が立ち上げられることで、その内部と外部が作り出され、《記憶》からくらげが訪問するという状態を支える観測者の表出が、認められもする(比較の「より」と移動の「より」)。言語表現には、常にこうして、ある観測者が、自らの身体を持って外部の環境を観測した結果(あるいはその過程において)、獲得された行為と思考の自己表出があり、それを読み手は、活字の並びを手掛かりに再生することで語句を読む。隔絶としての「/」は、異なる位相にあるふたつの要素が強引に並置されうるような身体ないしは環境のなかで発生する観測者を依代として身を現し(同時に観測者は「/」のなかに身を置くことで、言語表現の外でこれまで平常に生きてきた身体からは離れて、新たな身体の獲得を目指して進むことができるわけだが)、結果的に句のなかのどこかにその観測者の位置をいくらか分配し、ものや抽象概念を主体化する道筋をつけようと準備することになる。
つまりは観測の基盤となる身体の内外の区別が、語句同士の区別、あるいは五七五のリズムのもたらす区別と噛み合い動く可能性がここで見られる。区切りが「/」よりも即物的に「と」の二度の使用によって作り出されている《箱庭と森の色した空き瓶と》では、《空き瓶》は、自らの位置に観測者を多分に寄り添わせ、そこから《箱庭》を観測することで、自身を《森の色》として提示する。もちろん箱庭と森は同義ではなく、むしろ圧倒的に箱庭よりも森の方が空間的な広がりを含み込んでいるその差が、箱庭と瓶との間にある、やはり極端な空間的広がりの差と重ねられたとき、広さの差は、観測と自己表出の成立の証として、事後的に回収されるだろう。ここでも内外を隔てる区切りが、ものの主体化を用意している(また、ここに来て、《開封の前》によく振られていたものが《空き瓶》的な存在だったと理解される。《朝ぐもり》とは、そのような、外部から閉ざされているがゆえに観測者の動きを獲得した抽象概念であった)。
俳句内部で、観測行為が新たに定義付けられることによって、言語表現主体の位置が、俳句外を迂回して、その俳句が作り出されるまではありえなかったような位置に、据え置かれる。では、そうした過程を用意する、物質的とも抽象的とも言い切れないような危うさを持った区切りが、複数の要素(「と」)によって作られるというよりも、それそのものとして複数置かれたとしたら、どうなるか。《夏の月字を消しているボールペン》には、「/」がふたつ見える。《夏の月》は《字を消している》主体にも道具にもなりそうにないし、それと比べて比較的《字》への親近感のある《ボールペン》に関しても、《字を》書く道具としての使用法が前面に出すぎていて《消している》との間でひねりをいれられたように境界線が見える。このとき、《字を消している》という行為は、《夏の月》と《ボールペン》の間にはさまれることで、二者が互いを行為を介して観測しあう可能性の巣として自らをあらしめている。もしもこれが「字を消している夏の月ボールペン」や「ボールペン字を消している夏の月」のような配列であれば、前者では「夏の月」と「ボールペン」の間にあまり境界線は認められず、後者でも「ボールペン」と「字」が近すぎ、いずれにせよ区切りは二つではありえなかっただろう。《夏の月字を消しているボールペン》においては、《字》と《ボールペン》のあいだにある六文字が基礎を作り上げることで、《夏の月》と《字》の密接、それによる《夏の月》が主体的に字を書いた可能性までをも、準備している感がある。つまりは、《字》が存在するということの裏地に潜む「字を消す」という動きへ、《夏の月》《ボールペン》がともに身を滑りこませることで、論理はねじられ、《夏の月》と《ボールペン》はその論理の奪いあいに際して、互いを主体として観測しあわずにはいられない。「字を消す」動きは、観測者として機能するのに必要な外部からの閉塞状態、つまりは《空き瓶》性を用意し、ものらに付与することで、無数の主体を句内に立ち上げる。
ふたつの性 嵯峨根鈴子
ものや抽象概念の傍に主体的観測を置くための条件となる区切りを、主に担う「/」は、書割とその手前側での行為という、ふたつの位相が句内に、五七五のリズムにおける区切りなどを味方につけながら置かれることで、くっきり姿をあらわす傾向がある。だが、それが常に、ものや抽象概念において行われる観測を用意するかといえば、そうではない。「/」は、もうひとつのパターン、つまりはシュルレアリスム的な状景の外部からの観測を用意する場合がある。
《油絵具全色滝を搾り出す》。ここでは、配置としては《朝ぐもり開封の前よく振って》などと同じく、《油絵具》の直後に「/」が見えることで、言語表現主体が言語表面から外へ押し出され、文字の羅列の統合機関として働こうとする感があるが、しかしその先で、油絵具こそが観測者となるようにはあまり感じられない。まず、《油絵具》の直後に《全色》とあり、「/」はこの時点ではそもそも発生を妨げられている。だが、《滝を搾り出す》という箇所で、「油絵具が自らから滝を搾り出す」という、油絵具=主体という像が用意されるのと同時に、油絵具という言葉の指し示すものがもともと、なにかしらチューブのようなものから絞り出されるという傾向を持つために用意される、「油絵具が自らを搾り出され、滝へと変容させられる」という、油絵具=受動という像の、二種の像が句内に混在することで、主に後者によって、《油絵具》の直後に、やはり意味のひねりの地点として、「/」が淡く立ち上がる。このとき、《油絵具》は二種の運動の渦巻く最たる領域となり、《夏鶯ふたつの性を跨いでしまふ》という句が、簡潔に述べているところの事態が生じる。だが、肝心なのは、油絵具が自らを搾り出すというイメージが、油絵具を搾り出すという、極めて人間的な行為を型にして作られているということである。つまり、油絵具は自らを主体として行為しようとするが、その行為は、チューブから油絵具を押し出す人間の模倣として存在している(「搾り出す」という行為が問題なのではなく、「油絵具」と「搾り出す」の親和をもたらすものとして、人間が事後的に要請されるのが問題である)。結果、油絵具の行為はそれを使用するテクスト外部の人間に大きく依存し、「/」によって句の外へと押しやられた言語表現主体は、人間として名付けられ、その状態を維持することを求められ、句の内部へと回帰できない(回帰しないことによって油絵具は能動的な滝への変容をアピールする)。句は既存の因果律を塗り替えるような呪文にはなるが、それはまるで他人の夢でも見ているかのような、外部の観測者特有の安心感の中で読まれる。ふたつの性の跨ぎを明瞭な出来事として観測できるのは、外部観測者だけだ。夏鶯は、《しまふ》などという大げさな言葉を用いずに、どちらかといえば《しんなり》と、一方から一方へ何気なく跨ぎ飛んでいるのではないか。《ででむしや箱にしんなりふたつの性》。
句が、思考の道具にはなるが、思考そのものが生起する場としては窮屈になってしまうという事態は、《そこんとこ超合金の蜥蜴の尾》《充血した地球に添うて蚊柱が立つ》《心臓のかゆきところに花ざくろ》などでも生じている。句が、新たな言語表現主体の身体を獲得する場となるためには、行為主体としての位置だけでなく、観測もまた、ものや抽象概念の内部へと滑り込まされなければならない。言語表現に常につきまとう、語りの問題が、俳句では観測の問題として、操作の対象となる。
もちろん、そうしたふたつの性の跨ぎが、既存の因果律の塗り替えを行うなかで、外部観測者を強引に引き廻してしまうような質感を持つこともある。《かかとからくるりとむけて夏の月》《空っぽの浮巣に戻る回転扉》、いずれも回転運動を基軸に据え、能動受動の往復を、かなり露骨に記述している。回転する機械は、自らを記述する人体を巻き込み、粗くすり潰す。物質の表皮が《くるりとむけて》あらわれる《空っぽの浮巣》。それは、どれだけの変化を被っても「私が私である」ことが維持されるその持続の媒体としての《空》を検分する手立てのひとつとして数えられるだろう。
まみれる こしのゆみこ
一方、観測者を回転する機械ですりつぶし《空》を露呈させるというよりは、精妙な手つきで「/」を操作し、観測者を言語内部へうずめていくことで、《空》を複数の存在に分け持たせ、相互に観測させあうなかで、微分的に《空》を記述していくのが、《空の箱つみあがりゆく夏の家》ではじまる、こしのゆみこの十句である。《空の箱》は、《空》として足されて大きくなるというよりは、無数の《空》として、ただ積み上げられる。そしてその積み上げの場が、《夏の家》の内部であると考えられることが、小林かんなの句で見たような、空間量のギャップのもたらす観測を、ここでも成立させる。このことは、次の《箱の蓋ずらし青葉騒を聞く》における、箱の内部から箱の外の環境が聞こえる……つまり箱の内部が、その蓋をあける人間とは別に、自らの置かれた家のさらに外にある青葉のさざめきを観測する……という事態へと連鎖していくだろう。さらに《青水無月絶縁テープ巻いてゆく》という句で再び外部から切り離され閉じられた《空》は、《郭公のきこえてきたる眠りかな》において、外から観測される《眠り》と化し、とはいえ一方的に観測されるだけでなく、《空》としての《眠り》は自らを観測するもののいる環境の音を鳴らす、奇妙に外に開けた容器としてそれ自体保たれており、そこを《ほうたる》が《ひとつふたつと》通りすぎてゆく……《ほうたるのひとつふたつとぬかれゆく》。あるいは《短夜から色とりどりのジャムの瓶》のように、《空》は《短夜》として《眠り》のまわりを覆いつつ、無数の色をあふれさせ、さらにその色が《ジャムの瓶》として形作られることで、ふたたび《空》は《ジャムの瓶》の積み重ねに乗じ、閉ざされていながら外部を観測する《色とりどりの》「私が私であること」として、自らを撒き散らす。《空》は《空》を観測し、私という言語表現主体の統合原理の場は、無数のものや抽象概念が飛び交う群れとしての自己を表出している。
《島中の鳥の集まる赤い空》、《島》という容器の内部にある《鳥》と、《赤い空》という容器に注ぎ込まれる《鳥》は、《集まる》という言葉の上で掛け合わされ、《島》と《赤い空》がやはり相互に場を取り合う争いのなかで観測が飛び交う構図だが、注目すべきは観測の足場となっている《空》としての《鳥》が、《島》の直後に置かれた《中》や、あるいは《集まる》によって、複数化されているということである。結果、《島》と《赤い空》までもがつられて群れとなり、《空》に施された《赤い》色は、《赤い》ままに《色とりどり》となる。《赤》と《赤》の隙間には、ひとつへの統合を決してゆるさない「/」が残る……《まばたきの間のアマリリスのなみだ目》。《まばたきの間》は、《箱の蓋》を《ずらし》、または《冠》を《泰山木の花》からはずすが、完全には《蓋》を取ることがなく、《冠》をはずし切ることもない。あくまで「/」は、《空の箱》のなかに《青葉騒》が鳴っているということを確かめる《空の箱》自身の輪郭としてあるからこそ、箱は《つみあがり》、《夏鶯》は《二重瞼と一重瞼持つ》。どちらか一方ではなく、またその両者を跨ぐのでもなく。そこで示されるのは、観測に伴う自己自身の多重化、あるいは無数の観測者が存在し相互の身体を行き交っているこの世界そのものである。
こうした思考を、単一の俳句で成すというよりは、複数の俳句の並びによって作り上げているという事実から、こしのゆみこが、俳句を並べる手つきにおいてもやはりテクスト外の統合理論として追いやられた観測者の位置の操作に自覚的であることがわかる。もちろんこれは、小林かんなや嵯峨根鈴子の十句にも見られる、あまりにも当然な話なのだが、ある韻律や慣習に従って、ひとつのまとまりをもっているように感じられる言葉らが、「俳句」と呼びならわされる場所において、しかしその「俳句」が個別にでなく十のまとまりを統括するべつの言葉を、作り手にしたがうコンポジションとともに被せられたとき、単純に十七音×十、というのではない余剰が生み出される。それは、俳句というのが十七音を担う何文字かの言葉らに収束しきらない事実との重ねによってわかりやすいが、しかし十七音の十並べられたときに見られる余剰は、単一の「俳句」制作の内部にある澱みと同じ言葉で呼びあらわされうるものであるとは限らない。そこに散文と韻文というふたつのコンポジションの制作論理が接し合う汽水域を、肌触りとして感じられるのかどうかが、一句の制作に散文的な力を利用できるかどうかにつながるだろう。《空の箱》をいかにつみあげ、《青葉騒を聞く》私を作るのか。こしのゆみこは、そうした領域を、ものや抽象概念同士の相互観測の連鎖を紡いでいくことによって、結果的に操作している。
耳打ち 黒岩徳将
閉鎖的な《空》は外部を観測するが、それは《空》が外部すべてを観測しつくすことと同義ではない。黒岩の十句においては、《明易や古墳と知らず昇りつめ》とあるように、やはりもの同士が主体として振る舞いながら、しかし、互いに何ものかわからぬままに観測しあう状態が取り扱われる。《耳打ちの蛇左右から「マチュピチュ」と》言われたとして、マチュピチュの辞書的な意味はわかる言語表現主体が、《蛇》が《左右から》語る《「マチュピチュ」》の内実を十分に理解している可能性はどれだけあるだろうか? そこでは、マチュピチュという活字の並びはあくまで見つめられるにとどまり、そのとどまりによって《蛇》との間にも無関係性の区切りが作られる。が、それは《蛇》にとって《「マチュピチュ」》が存在しないものとなるではなく、依然としてそこになにかしらがありはするのである(口走られる異様な音の羅列)。《サイダーや花屋の前の男たち》における《サイダー》と《花屋》は《男たち》の引力によって並置させられ、互いに観測を始めるが、《サイダー》が《花屋》をすべて内蔵することはない。《芝桜埴輪の馬に短き尾》に関しては、《芝桜》が《短き尾》を知らないのはもちろん、《埴輪の馬》すら、自らの一部として考えられそうな《短き尾》を知らないかもしれないという感覚がある。しかしそれでも彼らは観測しあうのをやめない。《夏の夕とほき小芥子と目が合つて》。そして、目が合うためにはやはり、自分との、ある程度の空間的な距離が必要なのだ。《だんだんに木々のひらけて時鳥》《六月の鼻緒に指の開きたる》。それは、相手を強く意識するというよりは、さりげなくつかみながら、つかんでいる私のことすらよく知らず、眠りへと閉じている状態に近いだろうし――《青林檎服をつかみしまま眠る》――顔を隠すための手拭いが短く、顔が隠れ切らないが、顔が隠されようとしていることには変わらないという状態にも近いだろう――《顔に巻く手拭ひ短か苗代田》。そうして、外れ切らない《冠》のように、かろうじての閉鎖状態が作られることで、やはり《空》が《空》自身に言及する《汗が汗を匿ふアレクサンドリア》へと行き着くことになる。《アレクサンドリア》は、そのもともとの内実以上に、この句の収められている十句の並びから、《「マチュピチュ」》などの持つ無意味さに近づき、《汗》が自らを自らとして《匿ふ》状態を用意する。そしてこれは、同じ言語が繰り返されたとして、その両方が同じ意味を持つとは限らないことを示唆する。「私が私である」と言った時のふたつの「私」が同一のものではありえず、「私」が別の位置の「私」をなんら知らない状態がありうるのと同じように、《空》が《空》自身として複数であるとは、ある場所に置かれた《空》と、別の場所に置かれた《空》が、同じでありながら別のものへとすでに移行している可能性が常に拭えないことを意味する。こうした奇妙なずれは、その《空》が句内で占める位置に依存し、《空》自身を、単なる活字から言語(表現)へと上昇させることになるだろう。つまりは、活字を使用する主体が自ら句作における制作素材となる地点である。
黒 潮 広渡敬雄
《空》と《空》の間の「/」、お互いがお互いを把握し切らない存在であることが重要であるとして、その隔絶を、広渡敬雄はリテラルに、距離を示す言葉として提示する。《みちのくの山稜ながし春の虹》。「/」は《春の虹》の手前に見えるが、そこに《ながし》とあることで、《山稜》と《春の虹》が、ともにその長さを媒介にして測られる。《振り返る山の遠さよ花辛夷》における《遠さ》も、同じく観測の媒体として働いている。ここでもやはり、観測者は、単に相手の長さ・遠さを純粋に抽出するのではない。観測する自らの《空》のなかに響く音として、相手との間に、空間的な質を作るのである。《慰霊碑は津波の高さ春の雲》、重要なのは《慰霊碑は》のあとに《津波の》ときていることだ。《慰霊碑》の高さはあくまで《津波の高さ》としていったん、あらゆる《高さ》の可能性から閉じられることで、《慰霊碑》の内部に津波の引き起こす無数の事象を鳴り響かせ、それは相互観察の関係にある《春の雲》にまで波及していく。《春の雲》が、津波の上空にあったものとして閉じられる。
《空》と《空》の間の「/」や論理のひねりは、距離によって代用され、《空》は《空》として外部から切り離されることで、知覚する相手を増やすだろう。《遠ざかるほど蒲公英のあふれけり》、遠ければ遠いほどあふれかえる《色とりどり》の《空》。広渡敬雄の十句の興味深いところは、この《色とりどり》のなかへ死者が混入していることが強く意識されている点である。《戦没と津波の位牌梅の花》《鮭の稚魚放流したる川の綺羅》《復興の仮設店舗に種物屋》、いずれも死の臭いを帯びた領域が、再生の血色をもつ領域と、強制的に関係を持たされる。死者は死者として生かされ、何ものかを観測するよう促される。《生きてゐればこその春寒海の青》、死者は死者としてというよりは、あくまで生きているものとしての性質を付与された上でのそれとして観測され、観測する。それは、こうした十句が二〇一一年に起こった震災や原発事故をもとに読まれることが避けられないのと同様の、閉じられ方だろう。知りえない無限の可能性からいったん閉じられることで、事物は互いに観測をはじめ、死者は生者として私らを観測する論理を組み立てはじめる。ただ、そうした事態への観測もまた、私という《空》内部で作られた距離をもとに行われており、その時点で、どこかで《箱の蓋》をずらすものがあらわれ、《冠》が外れかかることがありうる。つまりは生者的な死者以外の、異様な死者もまた私らの目の前に現れうる。それゆえに距離を、既存の物理法則や身体にのっとったものからいかに変容させれば、たとえ《箱の蓋》をずらされたとしても死者が観測し続けられる論理を、閉鎖的でありながら外部とも交通している内部としてつくり保持できるのかということが、いかに死者を語るかという、倫理的な問題と重なってあらわれる。《鹿尾菜刈る魚付林と灯台と》《黒潮を望む岬の巣箱かな》は、もの同士の観測が、空間的な距離の近さあるいは遠さ、あるいはひとつの句に十句の並びを介してうずめられる生死両立のにおいを操作する手がかり、すなわちこの世界の論理(死と生の断絶、反転不可能性)の乗り越え=再構築に向けた手がかりとなる場の構築可能性を、垣間見せる。人間的な《慰霊碑》から遠ざかった、新たな《慰霊碑》を、この世界の事物間の関係のなかで不意に発見する場……《津波の高さ》とは、《慰霊碑》にとって、いったいなんだったのか?
雨の木 野間幸恵
死者を生者へと変換する距離の倫理性が、複数の《空》同士の間の問題であったとすれば、野間の十句は、《空》そのものの内部の距離を問うことで、無関係性と関係性の危うい境界線を手探りする、極めて倫理的な思考を作り上げている。《睡眠と思うシマウマでは近い》、ここで野間は、距離の知覚を、奇妙に歪んだ、独断的な記述として提示する。いったいなにがなにに《近い》のか? 《睡眠と思う》が主体として、シマウマを《近い》と判断しているのか、《睡眠と思うシマウマ》だと、あまりに近すぎる、と言っているのか。その不確定性が、《近い》を異様に際立たせ、むしろその近さこそが、この句のなかで最も主体としての性質を与えられているようにすら感じられる。あるいは《睡眠》=《空》を埋め込まれた状態の観測者としては、確かにこの句においては《シマウマ》という単語はあまりに違和感がありすぎる、その違和感の強さを、本来なら外部との距離が必要だろう観測者にとっての《シマウマ》の近さとして記述しているとも言える。いずれにせよそれは、なんらかの外的な関係性というよりかは、私にとって、あるいはこの句を構成する何文字かの言葉にとって、《シマウマ》が近すぎる、という内的な感覚を指摘している。
そのような傾向は、《牛乳のどこかに語尾がふくらんで》でも見られるが、漠然でありながらどこか断定的でもある内的感覚の探りと記述は、端的に、比喩というものの持つ構造を象っている。《雨の日はつるうめもどき広いかな》、《つる》《うめ》そしてそれらが名前として体現する植物、の間の関係が、《もどき》として、広さを書きとめられる。このとき《雨》は、広がりを持った《空》の投影する外部環境として認められるだろう。野間はこの内的な広がり、ある言葉と言葉が併置されることの是非について、思考する。《海岸をなぞるパンを焼くように》《木の樽は静かなLとRかな》《かたくなに三半規管だろう雨》、極端な言葉同士の並列は、テクスト外の身体の、安易な人間的身体のスキーマを用いない繊細な自己把握(を書きとめ、翌日の私へと引き継ぐための日記)を感じさせる。そして、そうした記述を積み重ねていくことによって、ものや抽象概念が観測者として動きはじめる印象は少ないが、しかしその代わりに、無数の言語表現主体を統合し比喩として処理してしまえるこの私の方が、随時書きとめられることで相互に観測しあう、その編集台としての「さらに統合された私」の分析へと進む。《木は森に友が答えのように来る》、友こそが答えであるように木が森へとやって来る、その前半と後半のふたつのテーゼをつなぐ蝶番の位置に、句は自らを構成している、木と森の空間的広がりの落差を持ち込む。個々別々の瞬間の《空》=私が、統合された《空》=私としてどう作り上げられるか、そうした統合された《空》=私の前に、個々別々の《空》=私はどのようにあらわれるのか。それは、《空》=私をひとつの群れとして捉えた上で、箇々別々の《空》=私を用いて統合された《空》=私を書き換えうる、とする認識の表明である。《good-byeと鰯の群れを思いけり》。統合機関としての私は、個々別々の私のなんらかの到来ないしは切り離しによって、新たな方角を、依然として私として、歩み始める。《木の話そして新しき方角》。こうして、冒頭の一句が理解される。《雨を書く生まれてくる日に追いついて》。《雨》は、広がりを持った《空》の投影する外部環境として考えられていた。《生まれてくる日》は、《雨を書く》日よりも、はるかに大きな可能性が充溢している容器だろう。ここには、一句一句を世界として提示するというよりは、無数の句を作り並べていく日々を通して、そこに一貫して流れ続ける私を、別の日々へと転換させ救助しようとする仕草がある。過剰な内的距離を孕んだ比喩の試行錯誤も、句を日々作っているこの私の身体の生な晒しを介して、その変化を記録し続けることによって、数かぎりない思考が用いる多重的な場としての私の《空》を分解し再構築するためのものだったのだ。
このように、野間の十句の重心は、観測者が、自身が観測者であるということを極端に自覚したうえで、その広がりのしつこさを、ものや抽象概念に宿した《空》同士の構築する観測のネットワークを介して複数化することで明らかにしようとするよりも、言語(と比喩)によって切り刻み、そもそもそこに埋め込まれていただろう複数性のポテンシャルを暴き、しかし観測者の内部にある《空》を、無数の《空》として記述するというよりは、あくまで広がりとして提示することで、《空》が《空》であることの外を、内的な外(≒身体的違和)として、思考していることにある。それは、極めて素朴な事物の関係性への思考にも、最終的にはつながるだろう。別の場所に私が移る努力は求められていない。それ自体として私は別の私へと日々変貌しているからこそ、「私が私であること」の持続が問われる。そしてその結果、世界は、自らの閉鎖性を晒しながら、世界そのものとしての複数を、つまりはこの世界の外、私という系列の外の私を、かろうじて指摘される。事物そのものの観測が成立する。
※
言葉をいかに並べるべきかという法則の必然性を分析し制作に利用しようとするとき、言語表現は私小説的な性質をいったんは受け入れざるをえない。かつて私らはそのように書いたが(「新たな距離 大江健三郎における制作と思考」『いぬのせなか座1号』)、それは私というものを、テクストにおいて立ち上がる無数の言語表現主体らを統合する原理たる外部観測者として置くことを免れたままに、世界の、あるいは事物の配置関係を操作対象とすることは、結局のところ(逆説的な話だが)、恣意的な外部の観測によって得られた情報のみを扱うことになってしまう、という認識によっていた。つまり、私が私である限り、歴史の記述は、「私による観測」でしかありえず、それを乗り越えるには、私が私であることの内部からそれを乗り越える手続きを見つける他ない。その点で、大江健三郎のような擬似私小説的手法が発見されるわけだが、俳句という、その短さのために語りの色が薄いと思われそうな表現方法においても、擬似私小説的手法が成立しうるという、半ば当たり前かもしれない事実がある。そしてそれは、おそらくは俳句を十組み合わせて編むということ、あるいは一人の作者が複数の句を作りうるということと不可分である。
編まれた十句は、その並びの論理において、無数の私をひとつの私へ統合する論理と重なり、一方が一方の操作を可能とする。つまり、個々の言語に内蔵された《空》が、全体のコンポジションと交通し、特異な踊りを見せる。それは少なくとも二種類のルート(右回りと左回りのような)によってなされうる。
ひとつは、五七五のリズムや季語の歴史性を背景に行われる抽象とも事物とも言い切れない区切りの現出によって、まずは言語表現主体の場がテクストの外へと押し出され、次にテクスト内部にもまた、既存の辞書的な因果律のひねりや打ち消しや、内部と外部の空間的な落差によって、区切りとしての《空》が作られることで、その《空》目掛けて言語表現主体が滑り込み、つられて観測位置もまた、ものや抽象概念の方へと移行し、それらの相互観測が行われるようになることで、言語同士の縫い上げる運動が特異化し、その結果、活字という視覚情報を与えられた限りは言語を処理するようすでに教育されていたテクスト外の身体が、その運動に捕らえられ、自らの神経をぬらりと別のものへ変化させずにはいられなくなる(あるいは別の身体を憑依させてることで目の前の言語を処理しようとする)という流れの、加速。身体の変異は、そのまま私の変異を呼び、句を十並べることに際してのコンポジションに関する思考を操作することに、もはやつながるだろう。
もうひとつは、テクスト外の身体が、実際の環境と接しながら、自らの身体感覚を読み取り、それを分解しうるような呪文的言語を、活字の物質性やコンポジション的な操作・探索可能性、意味のひねりや打ち消しによる区切りの生成などの手を借りながら記録する。さらにそれらを並べることで、無数の特異化された私の身体(それらは一見するとあまりにばらばらで、ひとつの私には統合しきれないようにさえ思える)を並べる営みとし、句が並べられる場そのものの論理の必然性を検分することを、そのまま私の身体の持続性の検分につなげる。それが、さらには身体の時空間的な広がりをあらわす営みとなり、結果として、そうした新たに発見された広がりを持った身体が、一句ごとに触れるなかで新たな運動を言語に付与していく、という流れの、加速。そこでは身体の変異は制作における前提とされ、むしろその変異を許容している言語表現主体の頑健さ(テクスト内から外へと押し出されたり、再びものや抽象概念の側へと呼び寄せられたりする、その可変域)が、激しい論理の飛躍とともに、まるで耐震強度を検査するかのように問われる。それにより、事物が無数の主体として観測しあうこの世界に関しても、「/」の位置が読みに応じて変化してしまう曖昧さを残しているように、あくまで私の魂による読みのなかでわずかずつ、その豊かさが把握されるだろう(高柳重信が、改行を、俳句特有の曖昧さを減算するために用いていたという話を思い出す)。
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