【週俳5月・6月の俳句を読む】
新しい関係
鈴木茂雄
「形態から離れた、色と形の感情的意味に基づく純粋な抽象画の先駆者」というカンデンスキーを紹介した文章に触発されて、それでは「言葉の意味から離れた、音と形の感覚的記号に基づく純粋な俳句の先駆者」はだれだろう、ツイッターでそうつぶやいたところ、あなたはだれだと思いますか、という質問を受けた。こちらは軽くつぶやいただけなのだが、その質問がわたしの中では、純粋俳句とは何かという妄想となってさらにふくらむ始末。そんな折にふっと本稿依頼のメールが届いた。
そのタイミングがわたしには面白かったので、妄想はさらにつづくことになり、音と形の感覚的記号に基づく純粋な俳句(かつて俳句用語として取り沙汰された「純粋俳句」を意識してはいるが、ここではそれを用語として使っていない)というのは、もとよりわたしの妄想にすぎないが、この未踏ともいうべき詩の領域へ俳人が未だ踏み込んだことのない場所かというと、それがそうでもないような気がする。あるハイジンの、あるハイクが、あるとき突然変異の新種のようにこの世に出現することがある。
そういうタイミングでわたしの目に飛び込んできたのが、野間幸恵の「雨の木」だった。一読不思議な作品だと思った。不思議というより異色、たとえば格調の高さは現代俳句の到達した一典型と謳われる飯田蛇笏の作品群に代表される、これぞ俳句というような俳句的骨法から良い意味で遠くかけ離れていて、かけ離れているどころか、いや、いったいこの作者は俳句の作り手なのか、詩の作り手なのか、そんな印象を受けた。なぜならこの作者は俳句という詩形になぞらえて表現してはいるが、つまり、限りなく十七音に近づけようとしているが、一方で季語や切れ字を踏まえた俳句を、作るというか、詠むというか、あるいは書くといったらいいのか、そういうことにはまるで無頓着、ただ、言葉のあやとり、言語構築の工夫にのみ重きを置いているように見て取れ、逆に俳句ってなんだろうと考えさせられる。
言葉が持つあらゆる意味、あらゆるニュアンスは、作者がそれらを選択する以前に、歴史的に蓄積されてきた既成の言葉の意味によって支配されているであろう、それゆえ、言葉は俳句という詩形の中にいろいろと並び替え、あらゆる方法を駆使して新しく構築し直して行くほかはない。しかもさらに困難なことに、言葉が持つ意味やニュアンスを含めて、伝統という場所は容易に入ることが出来るところではあるが、そこに深入りすると、たちまち支配され拘束されることは俳句のみならず言葉に関わるだれもが経験済みのことである。その危険から回避する術を身につけていくものだけが、ひとりの俳人の方法論へと移行する。
かたくなに三半規管だろう雨 野間幸恵
「雨の木」というと大江健三郎の連作短編集『「雨の木」を聴く女たち』を持ち出すまでもなく、そのメタファーの喚起力によって一気にその世界に引き摺り込まれるのだが、揚句は一読正直なんのことかさっぱりわからない。が、ここは是が非でもわかってみせようと、こちらもかたくなに耳の奥にあるという三半規管を覗いてみようと試みる。そして雨の音にも注意深く耳を傾ける。が、やっぱりわからない。何がわからないのか。「かたくなに」も「三半規管」も「だろう」も「雨」も、すべてよくわかる。どこがわからないのか。「かたくなに三半規管」がわからない。「三半規管だろう」も「だろう雨」もよくわからない。再読、一句全体を眺め直す。すると、コトバがモザイク(小さな断片を並べて模様を表していく)されていく(されている、つまり、映像の一部の解像度を落とて粗いブロックの集まりに置き換えてボカす、というのではなく)、そんな感じがしてくる。
省略のために抜き出したであろうと思われるピースを足してみよう。
かたくなに◯◯◯◯◯◯◯
三半規管◯◯◯だろう、◯ 。
雨◯◯◯◯◯
「小さな断片」の欠落部分は十七音詩という定型に収めるための省略だ。三半規管は平衡感覚をつかさどる部分、などと辞書的なことを考えだすと、たちまちこの作品から詩は霧散する。同時発表の作品からピースを拾ってみると少しづつに伝わってくる。「雨を書く」「木の樽」「静かなLとR」「睡眠」「シマウマ」「牛乳」「語尾」「森」「来る」「鰯の群れ」「海岸」「パンを焼く」「雨の日」「つるうめもどき」。
この作品のコアは「耳」、とくに雨の止んだ直後のレインツリーに、じっと聴き澄ます耳なのだ。
詩人の西脇順三郎は言う、
すぐれた「新しい関係」を発見することがすぐれたポエジイの目的である。ここでいう「発見」という意味は創作するという意味である。(略)と。
新しい関係を発見することが詩作の目的である。ポエジイということは新しい関係を発見するよろこびの感情である。このよろこびの感情のことを快感とも昔からよんでいる。また美といったり、神秘といったり、驚きといっている。いずれにしても詩作者は自分の頭の中にそうした感情を起こすように詩作する。読者もそうしたポエジイという感情を感じるように読まなければならない。(定本 西脇順三郎全集 VI 「詩学」筑摩書房より)
このほかとくに印象に残った作品は次の通りです。
慰霊碑は津波の高さ春の雲 広渡敬雄
箱の蓋ずらし青葉騒を聞く こしのゆみこ
サイダーや花屋の前の男たち 黒岩徳将
金魚より長生きをして詩を読んで 小林かんな
ででむしや箱にしんなりふたつの性 嵯峨根鈴子
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