【週俳7月の俳句川柳その他を読む】
「続」論
瀬戸正洋
つまり俗論である。
そよぐを漢字で書くと戦ぐとなる。風に、あまがえるが、そよそよと音をたてているのだ。木の下には田中。田中とは「しらさぎ」のことなのだから、あまがえるが、そよそよと音をたてていることも理解できない訳ではない。これで、完結なのである。あとは蛇足だ。「やあ」と言っても田中は応えない。雷雨なのである。静かに虹が立つと田中は木を離れる。田中の一歩ずつの歩みにあめんぼうが騒ぐ。うるわしいみどりの景色のなか、意味もなく夏の水面を眺める。夕焼けのとき、ふいに田中と呼んだため「しらさぎ」は田中ではなくなる。つまり、田中とは「しらさぎ」のことだったのである。そのことを九句目で知る。それでも、田中の名を叫び続けてしまう。八月のはじめ、ちょうど、この季節なのだ。「しらさぎ」とは、福田若之自身のことであり、あるいは、彼の愛するひとたちであり、また、彼の嫌いなひとたちだったのである。ところで、田中をものにしたがっている小岱シオンとは、いつたい何者なのだろう。
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みづうみに向く籐椅子の遺品めき 遠藤由樹子
籐椅子はみづうみを向いている。籐椅子に座ってみづうみを眺めていたのである。ところが、今は、誰も座ってはいない。どこかに出掛けているのかも知れない。たまたま、籐椅子がみづうみを向いていたので、籐椅子が遺品のように、籐椅子の主人が亡くなっているように感じたのである。
青柿も実梅もわれも雨の中 遠藤由樹子
青梅、あるいは、梅の実ではなく実梅としたことが肝要なのだろう。字数も揃った。柿の木があり、梅の木がある。傘を差している。六月の雨は、たっぷりと降り注ぐ。七月ではなく六月の雨でなくてはならないのだ。そういえば、新潮文庫に「青梅雨」永井龍男がある。借金苦のため一家心中をした老家族のものがたりである。傘を差さねば、びしょ濡れになるくらいの雨が降っている。
合歓の花ぽつんぽつんと夢滲む 遠藤由樹子
確かに夢が滲むと、合歓の花の、すがた、あるいは、色あい、そんな感じになるのだろう。ぽつんぽつんという措辞も上手いと思う。この滲んだ夢は、幸福なひとのものに違いはない。
目凝らせば梅雨の燕のかく高く 遠藤由樹子
どんよりと雲のかかった空と青空とでは、どちらがよく見えるのだろうか。目を凝らすことにより燕の高く飛ぶすがたに気付いたのである。最近、目を凝らして何かを見ることをしなくなった。目を凝らすと目から血が噴き出すような錯覚に陥る。何が善で、何が悪か、注意深く見極めることを諦めたのである。老人は気楽に、見えるものだけを見ていればいいなどと思っている。
眠る子にプールの匂ひかすかなり 遠藤由樹子
子供がプールで遊び疲れて眠っていることを知っているからこそ、かすかなプールの匂いに気付いたのである。知っているからこそ、わかり合うことのできる暮らし。それが、最も、安全で安心のできる生活。幸福な家族であると思う。
毛皮の空洞からもれる細い目 竹井紫乙
毛皮には空洞があると言っている。その空洞から無数の細い目がもれている。その細い目とは、殺された獣の目なのか。殺した猟師の目なのか。はたまた、作者自身の目なのか。
人でなし人面鳥に告げられる 竹井紫乙
人でなしと言われたのである。人面鳥に告げられたとのことであるが、本当のところ、私が私に言っているのである。新聞、テレビ、ラジオ、実際に起こる周辺の出来事。どれを取っても、誰もかもが「人でなし」であると感じる。
幾万の毛皮が雪崩れ込んで来る 竹井紫乙
毛皮の怨念なのである。獣の怨念、つまり、人類の怨念なのである。幾万の毛皮が雪崩れ込んでくるのだから、相当なものである。怨念というものは歴史的(すこし大げさかも知れないが)には動くものだから、何れ、私に向かって雪崩れ込むのだと思うと憂鬱になってしまう。
何食わぬ顔して混ざる晩御飯 竹井紫乙
すばらしい光景だと思う。まさしく、これは事件なのである。何食わぬ顔をして晩御飯の席に座るのである。そこに入ろうとするひとにも、見知らぬひとが入ってきても当たり前のように振る舞うひとたちにも、何とも言えぬ気高さがある。人類から争いを無くすためには、このような精神こそ必要なのである。真の人間の美しさがここにある。
鉄橋をすぎて緑雨になりにけり 村田 篠
御殿場線は、小田原市の国府津駅から沼津市の沼津駅までを繋ぐJR東海の鉄道路線である。単線であり無人駅も多く、スイカもパスモも使えない。乗車するドアは一か所に決められていて発券機から整理券を取り出し、下車する場合は改札口、あるいは、直接、車掌、運転手と車内かホームで精算する。この作品を読み、松田駅から駿河小山駅あたりの車窓の風景にそっくりだと思った。御殿場線は昭和初期までは東海道本線の一区間であったが、丹那トンネルの開通により支線となったのである。
麦秋の少し遅れてゐる時計 村田 篠
時計を購入したとき正確な時刻を合わせる。少し遅れている時計とは、時計そのものが正しく時を刻んでいないのである。遅れているにんげんもいる。進んでしまうにんげんもいる。遅れたり進んだり勝手気ままなにんげんもいる。麦秋とは、夏のはじめ、にんげんならば二十歳前後のころだと思う。
雨の日のスイッチ固き扇風機 村田 篠
スイッチが固いのは、雨の日に限ったことではない。扇風機のスイッチは、いつも固かったのである。だが、雨の日、そのことに気付いた。晴れた暑い日ではなく、それほど、涼風を欲していなかったため気楽にスイッチを押したのである。スイッチが固かろうがなかろうが扇風機は回る。気が逸れたとき、逸れた故に、気付くこともあるのである。
話し終へれば冷房の効いてをり 村田 篠
話すことに夢中で冷房のことなどすっかり忘れていた。話も済み、ふとわれに返ると、冷房の効き過ぎていたことに気付く。すこし気持ちも熱くなっていたので、効き過ぎていてちょうどよかったかなどと思う。
青桐と話してくるといふ子ども 村田 篠
都会に住む子どもだと思う。田舎に住む子どもには、「青桐と話してくる」という言い方はしない。植物やけものたちとの会話には飽き飽きしているのだ。子どもと話す青桐は都会の思いもかけないところで育っているのだと思う。子どもは「ちょつと、青桐と話してくるね」と言う。母親は「いってらっしゃい。気を付けてね」と答える。
木の椅子に節穴のあり灼けてをり 村田 篠
木の椅子が灼けている。節穴も木の椅子と同じように、同じくらいに灼けてなくてはおかしいと思ったのである。太陽のひかりは誰にも平等に降り注ぐというが、日陰とか節穴(空間)のことを考えると、「平等」とは、一癖も、二癖もあるとんでもない言葉のような気がしてくるのである。
サングラスして天国のやうな街 村田 篠
サングラスをしたことにより気分が変わったのである。なんの変哲もない、いつも暮らしている街が、どういう訳か、夢のような世界となったのである。ある人たちを色眼鏡で見ると言った場合、負の意味合いが強いが、いつも暮らしている街、つまり、日常を色眼鏡で見直すことは必要なことだと思う。
血のやうな大きな車夏の雨 上田信治
赤い色の大きな車に夏の雨が降っている。ただそれだけのことなのである。夏という言葉から灼熱の太陽をイメージしそれも赤色に繋がっていく。雨も液体、血も液体、作者はすこし自分には血の気が足りないと思っているのかも知れない。
夏烏団地は時報鳴りにけり 上田信治
老人ばかりが住む古ぼけた団地である。場違いな音をさせて時報が鳴る。そのとき、夏烏も鳴いたのである。夏烏の鳴き声も場違いなのである。場違いな時報、場違いな夏烏の鳴き声。その時、場違いな老人がステッキを持ち散歩に出掛ける。その瞬間、何もかもが自然なすがたとして目の前に現れる。
呼鈴の音落ちてゐる夏団地 上田信治
団地には呼鈴はどのくらいあるのだろう。その呼鈴は幾度鳴らされたのだろう。その呼鈴の音が夏の団地に落ちているのである。数千、数億では効かないだろう。階段にも、舗道にも、花壇にも、夏の団地には呼鈴の音で足の踏み場のないくらい。いや、呼鈴の音で、夏の団地は埋め尽くされているのである。
動物はなかなか元に戻らない 上田信治
にんげん関係に疲れているのだと思う。少しでも拗れるとなかなかもとには戻れないものだ。こちらが悪いとは思わないのだが「私が悪かった。先ほどのことは忘れて下さい」などと言うと「いいえ、一生忘れません」などという言葉が返ってくる。老人を労わる気持ちは必要だと切に願う。
困つてゐる蠅と時間の過ごし方 上田信治
五月蠅いということなのである。一匹の蠅が付きまとっている。その付きまとっている様子を蠅の立場から考えてみたのである。どこかへ行きたいのだろうが行くことができない。行くことができない理由を蠅が困っているからだとしたのだ。これから、蠅と楽しい時間を過ごすのである。
町空のたまに広くて百日紅 上田信治
百日紅を眺めていたら、仰ぎ見ていたら、その先の空の青いことに気付いた。青空を眺めていたら、空の広いことに気付いた。町の空も捨てたものではないと思う。暮らしに追われていると仰ぎ見ることなど、なかなかできないものだ。うつむいて歩くか、精々、真直ぐに先を見つめて歩くことぐらいだ。たまには、思う存分仰ぎ見ることも必要だと思う。百日紅には青空が似合う。
2016-08-07
【週俳7月の俳句川柳その他を読む】「続」論 瀬戸正洋
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