【八田木枯の一句】
原爆忌折鶴に足なかりけり
角谷昌子
原爆忌折鶴に足なかりけり 八田木枯
第六句集『鏡騒』(2010年)。
広島の「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木貞子さんは、12歳でこの世を去った。被爆の苦しみを負った彼女は、病床で折鶴を折り続け、千羽鶴を遺した。
平成28年5月27日、アメリカのオバマ大統領は現職大統領として初めて広島の平和記念公園の式典に参加し、歴史的な一日となった。オバマ大統領は平和記念資料館を訪れた際、貞子の折鶴に見入り、さらに自分で折ったという四羽を資料館に贈った。そのうち二羽が資料館に展示されて大いに話題となっている。大統領の折鶴を見ようと、資料館の見学者が増えたほどだ。
掲句〈原爆忌折鶴に足なかりけり〉の〈原爆〉と〈折鶴〉は作品としては近過ぎる取り合わせかもしれない。だが「足なかりけり」と描写して、読者を一瞬ぎょっとさせる。確かに折鶴は翼、胴、頭部はしっかりあるが、「足」は省略されている。足で立つことはできないので、胴を固定しないと広げた翼はどちらかに傾いてしまう。糸に通して飛行の姿で飾られればよいが、元々はとても頼りない形態なのだ。
木枯は〈足〉の喪失感を強調することによって、原爆のみならず、戦争によって失われたいのち、また身体を損なわれても過酷な生涯に耐えねばならなかった、あまたの戦争被害者への思いを表したかったのだろう。〈足〉のない痛みと哀しみを負った〈折鶴〉に心からの祈りを籠めていたのだ。
同時発表作に〈生者より死者暑がりぬ原爆忌〉がある。木枯は徴兵検査で病気のため、兵役をかろうじて免れた。いつも〈死者〉のことが頭から離れないのは、自分は戦地に行かずに済んだが、代わりに友人、知人が命を落としたという痛恨事があるからだ。長崎と広島の〈原爆忌〉のころの熱風の中、〈死者〉が生身の人間よりも暑がるというのは、身近にその存在を生々しく感じているゆえだろう。
〈足〉なき折鶴を供華として、大戦後も木枯は戦争句をひたすら詠み続けた。また今年も終戦記念日が巡ってくる。泉下で木枯は、この世の〈生者〉のために折鶴を作ってくれているかもしれない。
2016-08-14
【八田木枯の一句】原爆忌折鶴に足なかりけり 角谷昌子
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