2016-09-04

あとがきの冒険 第6回 ショック・等価交換・へたなピアノ 正岡豊『四月の魚』のあとがき 柳本々々

あとがきの冒険 第6回
ショック・等価交換・へたなピアノ
正岡豊四月の魚』のあとがき

柳本々々



歌集『四月の魚』を読み終えて正岡豊さんの「あとがき」を読んだときに私は「すくなからぬショック」を受けたことを覚えている。そこには短「歌をやめ」、短歌をめぐる「たぐいのもの」には「何も感じ」なくなってしまったひとりの人間の率直な「こころ」が述べられていたからだ。引用しよう。

この歌集の稿を書きおこす直前、安井浩司の「中止観」という句集を手にする機会があった。その句集のなかのことばは、歌をやめてから、もうそのたぐいのものには何も感じないとおもっていた私に、すくなからぬショックを与えた。こういう心の動きはたいてい伝えがたいものだ。だがこの二十年近くも前の句集のかがやきに接することがなければ、私はまた別なこころでこの歌集をつくっていたような気がする。
正岡さんは安井浩司の「句集のかがやき」によってある種の「こころ」を手に入れ、その「こころ」を通じて「この歌集をつくっ」たわけだが、その「こころ」とはいったい何だったのか。

正岡さんに「ショック」与えた「安井浩司の「中止観」」。興味深いことに正岡さんは「かがやき」ならぬ「光の行方-安井浩司論-」を書いている。この論考で興味深いのは正岡さんが安井浩司句集『中止観』を〈交換〉の原理からとらえている箇所だ。引用してみよう。
歳時記とは、俳句にとり、近代化された〈結界〉のような所がある。〈季語〉というコンセプトを発生はともかく、存立の構造を問題とするなら、季語の名のもとに、動植物も気象用語も宗教的行事も、音数により等価交換が可能であるかに分類する思考だといえる。それはある共同の理解の場をもたらす。…安井はある意味では、それを逆用している。人が使用する言語には、必ず〈生〉や〈死〉と等価交換されるような属性がかくされている、というかに言葉を使用してみせる。
(正岡豊「光の行方(二)-安井浩司論-」『未定』56号(典拠は、正岡豊『梅小路鳥の扉日記』)http://umekouji.blogspot.jp/2014/06/1_15.html?m=1
誤読を恐れつつ私の可能な範囲で上の言説を言い換えてみる。季語というのは音数によって交換可能な分類物だと言える。たとえば夏の季語の「花火(はなび)」と「昼寝(ひるね)」は同じ3音であり、音数上では〈交換可能〉なものとなる。ところが安井の俳句は音数上の〈交換〉というよりは、〈生〉や〈死〉への〈交換〉だという。ということは数による形式的な交換ではなく、意味上の交換だということだ。それはある意味で〈交換〉になっていない。《変・換》なのだ。終わるための。

俳句という〈交換可能〉な季語を礎(いしずえ)とするモードにおいて、〈交換不能〉なものを現出させること。それが正岡さんがみた安井浩司『中止観』の「光」だったのではないか。

歌集『四月の魚』にはこんな歌がある。

  夢のすべてが南へかえりおえたころまばたきをする冬の翼よ  正岡豊

  ぼくの求めたたったひとつを持ってきた冬のウェイトレスに拍手を  〃

「夢のすべてが南へかえ」るのと〈交換(ひきかえ)〉に「まばたきをする冬の翼」。「ぼくの求め」に〈交換(おう)〉じて「たったひとつを持ってきた冬のウェイトレス」。ここにも〈交換〉の原理は胚胎している。

が、しかし、「すべて」や「たったひとつ」が表すようにそれは〈全的〉で〈たったひとつ〉の〈交換〉である。つまり、一回交換したら、〈終わる〉交換なのだ。生/死を孕んだ交換。すなわち、《変・換》。

だとしたら、そこからこの歌も読み直すことができるかもしれない。「へた」という〈唯一性〉によって交換も変換もすることもできなかった、「あきらめ」られた〈交換不能〉の風景として。つまり、

  へたなピアノがきこえてきたらもうぼくが夕焼けをあきらめたとおもえ  正岡豊

(正岡豊「あとがき」『四月の魚』まろうど社、1990年 所収)

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