【週俳9月の俳句を読む】
澤街さんと街澤さん
鴇田智哉
バリカン当てられ羊前肢に宙を蹴る 池田瑠那
前半と後半での緩急の切り替わりがいい。
前半は、当てられ、と受け身の表現にはなっているものの、
バリカンを当てる側の、人間の手の冷静さが見える。
そうしたなだらかな上八に続き、
後半は、手花火の火花のようにきゅんきゅんとした動きが見える。
秋風や羊楕円のひとみ持ち 冬魚
秋風はまわる。楕円のふちに沿って、大きくまわる。
円、でなく、楕円、としたことで、動きが出た。
羊のひとみとは、森のなかの湖を俯瞰するようで、あきらかな潤いをたたえている。
秋風は、しゅうふう、と読んでみたい。
水引草しごけば樹海出入口 金丸和代
出入口、とは、出口であり入口であるところ、つまり境界である。
樹海が一つのひろがりだとすれば、樹海とそれ以外の空間との境界は、樹海の外周に無限に存在することになるのだが……
出入口、それは一つに限定された特別な口だ。
繁茂する水引草は、無限の暗闇を意識させる草だ。
それを、しごく、のはちょっとした苛立ちからかもしれないが、
ともかく、そうしたことにより手が汚れ、くっきりとした出入口が生じたのである。
花野ゆくひつじをとこの被りもの 茸地 寒
パステル画の色彩感。
瞬きのなかの景。
ひつじの被りもの、でなく、ひつじをとこの被りもの、としたことで、夢ならではの現実味、のような質感がある。
触角をきゆうんとしごく秋の夜 井上さち
自分の触角だろう。
きゆうん、という擬音語につられて、
チューニング、という言葉が私の頭に浮かんだ。
冴えてくるのである。
(話は脱線するが、しごく、という言葉二句目だ。
「街」で流行っているのか。)
仔豚だけで寝る日はじまる泡立草 玉田憲子
泡立草、のこまやかにざわめく感じ、かわいらしさが、仔豚だけで寝る日はじまる、という内容に、無邪気な期待感と、その裏側のあわれさを醸し出している。
肩パッド入り秋服や石畳 岡本春水
ちゃんとしたお参りのような景。
肩パッド入り、という入り方といい、や切れ、とそのあとの、石畳、といい(全部だ)、どこをとってもそこはかとなく可笑しい。
「何が好き?」「ボクはやつぱり鮭の皮」 川又憲次郎
ボク、というカタカナ書きが醸し出す、揶揄。
味わいがある。
自転車漕ぐわれの頭上を海霧擦過 嶋田恵一
海霧擦過、が艦に乗っている者の連絡用語のようでおもしろい。
自転車に乗りながら、艦であるかのような錯覚を楽しむ。
漕ぐ、という言葉がミソである。
風景の再構築として可笑しい。
スナックに秋鯖提げて来るをとこ 望月とし江
旅人から見た景として、この句を読んでみたい。
すると、をとこ、が生きてくるのである。
たまたま知らない空間に入りこんだ私に、
その空間に馴染んでいるらしいをとこが、
ありありと存在感をもち始める。
夏掛けに目覚めて未だ水のまま 秦 鈴絵
平べったく寝ていたのだろう。
覚めてそこからうごき出すまでの、未だ平らにいる時間。
やわらかな夏掛けと、水、との親和性。
グラスの中本箱の外鳥渡る 竹内宗一郎
目は、同時に幾つかのものを見ているときがある。
グラスの中、本箱の外、そのもっと外の鳥渡る場所を。
琥珀色とか、木目とか、活字とか、
そうした連想の重なりの中、鳥が渡る。
すいつちよと坊主頭の写真家と 今井 聖
永遠に下る九月の明るい坂
すいつちよ、は細長い虫で、その鳴き声もまた、細長い、きりっとした声だ。
だからなんとなく、この写真家も細長いのではないかと思えてくる。
主人公は、街を見渡せるてっぺんから、下りていくのではないだろうか。
九月は、折り返しの感覚のある月だ。永遠に下る、には、ゆっくりゆっくり下ることへの、安らぎがあるだろう。
明るい坂、がさわやかである。
寿司出前専門店やスクータ据ゑ 小澤 實
犬嗅ぎ過ぎて桔梗の蕾なり
スクータ据ゑ、が、へい一丁、みたいな感じで調子がいい。
街の一角のミニチュアを見るような、風景の再構築。
犬には犬の、事情というか興味があって。
飼い主である人から見れば、おいおい桔梗の蕾かよ、と。
桔梗の蕾がかたくなで、清い。
二結社の対決(?!)企画、楽しく読んだ。
それぞれの結社における句の、語法や目のつけどころの癖のようなものが、傾向としては存在しており、それを意識して読むのも面白いものだ。
だがそれでも、大事なのはその一つ一つの句であるから、
一つ一つの句に注目して、読んだ。
前半と後半での緩急の切り替わりがいい。
前半は、当てられ、と受け身の表現にはなっているものの、
バリカンを当てる側の、人間の手の冷静さが見える。
そうしたなだらかな上八に続き、
後半は、手花火の火花のようにきゅんきゅんとした動きが見える。
秋風や羊楕円のひとみ持ち 冬魚
秋風はまわる。楕円のふちに沿って、大きくまわる。
円、でなく、楕円、としたことで、動きが出た。
羊のひとみとは、森のなかの湖を俯瞰するようで、あきらかな潤いをたたえている。
秋風は、しゅうふう、と読んでみたい。
水引草しごけば樹海出入口 金丸和代
出入口、とは、出口であり入口であるところ、つまり境界である。
樹海が一つのひろがりだとすれば、樹海とそれ以外の空間との境界は、樹海の外周に無限に存在することになるのだが……
出入口、それは一つに限定された特別な口だ。
繁茂する水引草は、無限の暗闇を意識させる草だ。
それを、しごく、のはちょっとした苛立ちからかもしれないが、
ともかく、そうしたことにより手が汚れ、くっきりとした出入口が生じたのである。
花野ゆくひつじをとこの被りもの 茸地 寒
パステル画の色彩感。
瞬きのなかの景。
ひつじの被りもの、でなく、ひつじをとこの被りもの、としたことで、夢ならではの現実味、のような質感がある。
触角をきゆうんとしごく秋の夜 井上さち
自分の触角だろう。
きゆうん、という擬音語につられて、
チューニング、という言葉が私の頭に浮かんだ。
冴えてくるのである。
(話は脱線するが、しごく、という言葉二句目だ。
「街」で流行っているのか。)
仔豚だけで寝る日はじまる泡立草 玉田憲子
泡立草、のこまやかにざわめく感じ、かわいらしさが、仔豚だけで寝る日はじまる、という内容に、無邪気な期待感と、その裏側のあわれさを醸し出している。
肩パッド入り秋服や石畳 岡本春水
ちゃんとしたお参りのような景。
肩パッド入り、という入り方といい、や切れ、とそのあとの、石畳、といい(全部だ)、どこをとってもそこはかとなく可笑しい。
「何が好き?」「ボクはやつぱり鮭の皮」 川又憲次郎
ボク、というカタカナ書きが醸し出す、揶揄。
味わいがある。
自転車漕ぐわれの頭上を海霧擦過 嶋田恵一
海霧擦過、が艦に乗っている者の連絡用語のようでおもしろい。
自転車に乗りながら、艦であるかのような錯覚を楽しむ。
漕ぐ、という言葉がミソである。
風景の再構築として可笑しい。
スナックに秋鯖提げて来るをとこ 望月とし江
旅人から見た景として、この句を読んでみたい。
すると、をとこ、が生きてくるのである。
たまたま知らない空間に入りこんだ私に、
その空間に馴染んでいるらしいをとこが、
ありありと存在感をもち始める。
夏掛けに目覚めて未だ水のまま 秦 鈴絵
平べったく寝ていたのだろう。
覚めてそこからうごき出すまでの、未だ平らにいる時間。
やわらかな夏掛けと、水、との親和性。
グラスの中本箱の外鳥渡る 竹内宗一郎
目は、同時に幾つかのものを見ているときがある。
グラスの中、本箱の外、そのもっと外の鳥渡る場所を。
琥珀色とか、木目とか、活字とか、
そうした連想の重なりの中、鳥が渡る。
すいつちよと坊主頭の写真家と 今井 聖
永遠に下る九月の明るい坂
すいつちよ、は細長い虫で、その鳴き声もまた、細長い、きりっとした声だ。
だからなんとなく、この写真家も細長いのではないかと思えてくる。
主人公は、街を見渡せるてっぺんから、下りていくのではないだろうか。
九月は、折り返しの感覚のある月だ。永遠に下る、には、ゆっくりゆっくり下ることへの、安らぎがあるだろう。
明るい坂、がさわやかである。
寿司出前専門店やスクータ据ゑ 小澤 實
犬嗅ぎ過ぎて桔梗の蕾なり
スクータ据ゑ、が、へい一丁、みたいな感じで調子がいい。
街の一角のミニチュアを見るような、風景の再構築。
犬には犬の、事情というか興味があって。
飼い主である人から見れば、おいおい桔梗の蕾かよ、と。
桔梗の蕾がかたくなで、清い。
二結社の対決(?!)企画、楽しく読んだ。
それぞれの結社における句の、語法や目のつけどころの癖のようなものが、傾向としては存在しており、それを意識して読むのも面白いものだ。
だがそれでも、大事なのはその一つ一つの句であるから、
一つ一つの句に注目して、読んだ。
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