2016-11-20

【週俳500号に寄せて】まさに空気のようなものとして 荻原裕幸

【週俳500号に寄せて】
まさに空気のようなものとして

荻原裕幸



「週刊俳句」が第500号を迎えるという。この数字の重さはものすごいものだと思う。俳句という一つのジャンルに特化した無償のウェブマガジンを、週刊で500号なんて、想像しただけでも気が遠くなる。愛読者としては、感謝してもしてもしたりない感じがある。でも、そう言いながら、私が真に望んでいるのは、そして「週刊俳句」がそれを実現しているのは、重さなんてものを一切感じさせないで、毎週毎週少しずつ、新しい俳句の空気を、まさに空気のようなものとして読者に送り続けてくれることなのである。気づけば500号。そんな感じで第500号は発行されるはずだ。私の考える「週刊俳句」の真骨頂はそこにある。



現代の俳句は、混沌としている。むろん、活気があって混沌としていないジャンルなんてものはない。ただ、それにしても、俳句は混沌をきわめていると感じられる。これはたぶん、私が、いずれかの結社の内部にいないからだろうと思う。各結社は、と言うか、主宰の多くは、内部に向けて、俳句の世界を、ひとつの理念に貫かれた風景として見せている。その個々の是非はともかく、俳句の世界にかなり明確な輪郭を与えている。ただし、その輪郭は、仮の輪郭であり、個々に違うわけで、結社の外に立ってしまえば、輪郭の差異の分だけ混沌がきわまるのである。「週刊俳句」を私が好むのは、この混沌を、混沌のまま抱えて、決して明確な輪郭を与えようとはしないところだ。混沌のなかから何かが見えて来るとしたら、それは、混沌を混沌として認識するところからしかはじまらないだろう。



そう言えば、以前、私に、「週刊短歌」のようなものを発行する予定はないんですか? と訊いて来る人が何人かいた。やれば面白いのにと言われた。私の企画好きの性格を見て、煽る人がいても不思議はないと感じたけど、まったく食指が動かなかった。俳句でこれほど面白い場が実現できているのだから、短歌で二番煎じをさせてもらってもそれなりの面白さを実現することはできそうなものなのに、なぜか、私のなかにいる誰かが、絶対にやめた方がいい、と言うのである。労力や継続力の問題とは別の理由があるのだと思う。短歌に向かないのか、それとも、私に向かないのか。いまのところうまく説明ができないでいる。


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