2016-11-27

俳句の自然 子規への遡行54 橋本直

俳句の自然 子規への遡行54

橋本 直
初出『若竹』2015年7月号 (一部改変がある)

今回は話題を変え、今井柏浦編『明治一万句』を中心に述べたいと思う。『明治一万句』は、いわゆる近世以来の類題句集の体裁で、子規の死後三年の明治三十八年の出版。日露戦争中で、日本海海戦の後ということになる。類題句集は明治から昭和初期にかけても多数出版されており、広く読まれていた。筆者架蔵の『明治一万句』は明治四十一年発行の第八版であるが、例えば神奈川近代文学館所蔵の同書は大正十三年発行の第二十版であり、同書が非常にロングセラーであったことがわかる。この本が興味深いのは、まず、以下の「凡例」である。
本書は子規先生仙遊後の俳壇を代表すべき唯一無二の句集なり。(中略)本書収むる處の俳句は悉く日本派同人の作に係り、其材料は明治三十四年三月より三十八年四月に至る最近五年間の「日本」「ほとゝぎす」「日本人」「太陽」其他の新聞雑誌中より、編者が嗜好に任せ蒐録せし、約五万句の中より載するところ壱千三百題に及び、特に明治の新題は悉く之を網羅したり(中略)特に子規先生の高吟を加へたるものは、作例を示して後進の為めに資せむと欲すればなり。
すなわち、子規死後の明治三十四年三月より三十八年四月までの日本派の俳人達の句を集めた私選句集ということになる。この期間は、日本派の選集である『春夏秋冬』(明治三十四年~六年)の後に続くものとなっており、子規の句は特別扱いで載せてもいて、この選集が子規派の出した句集の一つとも思われるのであるが、冒頭に内藤鳴雪の一句があり、中村不折の挿画はあるものの、柏浦と日本派との関係はよくわからない。「凡例」中の「編者が嗜好に任せ蒐録」とあることからすれば、元々は柏浦一人による私撰集であった可能性もあるだろう。

また、同書の特徴として、雑の部の立項とそこに子規の句を多く入れていることがあげられる。例えば、以下のような句は、前書きがそのまま目次に題として立項してある。

    松山堀端
  門しめに出て聞て居る蛙かな(春の部)
    須磨保養院
  人もなし木陰の椅子の散松葉(夏の部)
    猫に紙袋の畫に
  何笑う声ぞ夜長の台所(秋の部)

他に、「上野」「浅草」「呉港」「金州」「大連湾」「須磨」等の立項がされている。このように、子規の句のために「雑」を立てたとも言えそうな部立てに対する自由度の幅の広さであり、このあたりは、柏補の子規への偏愛ぶりをみても良いようにも思われる。

ところで、柏浦今井玉三郎は、これらの私撰集の他、『俳諧例句新撰歳事記』など、俳句に関わる多数の編著書がある人物なのであるが、その仕事の量に比して、経歴がよくわからない。『日本近代文学大事典』(講談社)や『現代俳句大事典』(三省堂)に記載がなく、『俳文学大辞典』(角川書店)に、
俳人。生没年未詳。日本派句集『明治一万句』を博文館から刊行。これは明治三四年(一九〇一)から同三八年の句を集大成したもの。編著『新編一万句』『最新二万句』『大正一万句』『新修歳時記』ほか。〔和田克司〕
とあるのを見出せたのみであった。調べたところでは、今井柏補(玉三郎)の名で、約三十年の間に二十冊を越える著作があり、博文館から多数の書籍を刊行している。博文館との関係については、柏浦編『詳解例句纂修歳事記』(大正十五年十二月)の「緒言」に、以下のような記事が見いだせた。
回顧すれば『新撰歳事記』の初めて世に現はれたるは、明治四十一年にして(中略)彼の震災のため、一朝にして全部の原稿三千余枚を烏有に帰し、茲に一頓挫を見るに至れるも大正十二年末、編者の多年在職せし博文館を引退したるを動機とし、再び之れが改修を企て(以下略)
すなわち、明治四十一年刊の『俳諧例句新撰歳事記』の改訂を画していたのが震災で原稿資料を消失し退職後に改めてやり直したものが大正十五年刊『詳解例句纂修歳事記』ということである。そして、柏浦は博文館の社員であったことが分かり、大正十二年に退職している。そこで、坪谷善四郎編『博文館五十年史』(昭和十二年 博文館)の大正十二年の「此年編集部員の異動」の記事にあたってみると、たしかに、「営業部にては十月二十六日に(中略)今井玉三郎(中略)の諸氏が退職した」とあり、柏浦は博文館の営業部の社員であったと確認できた。そうすると、昭和まで継続する柏補の選集を編む情熱は、柏浦一人の子規と日本派への偏愛からきているのかもしれないが、立証する資料が足りない。

さて、この『明治一万句』には、初期の村上鬼城の句も収められており、四句見いだせたので最後に紹介しておく。

  初午や雇ひ神主小風呂敷
  椿咲く親王塚や畑の中
  恋い死して海棠樹下の仏かな
  花妻の亥の日を祭る灯かな

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