自由律俳句を読む 153
「橋本夢道」を読む〔1〕
畠 働猫
あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
昨年末は、九州へ旅行し、暴飲暴食をしながら錆助ほか句友らと交流することができた。その際に同席してくださった歌人の方の言葉が印象に残っている。
「私は『忘れられない光景』と『忘れたくない光景』を詠む」
そうFさんはおっしゃっていた。
自分の作句経験は、「できた句」と「つくった句」に二分される。
「できた句」とは、作為なく見たものが天然自然のまま句になったものである。「つくった句」とはその逆で、見たものや経験をなんとか句にしようと作為したものだ。
Fさんの言葉が強く腑に落ちたのは、「できた句」とはまさに「忘れられない光景」が句となって立ち昇ってきたものであり、「つくった句」とは「忘れたくない光景」をどうにか自身の言葉で記憶に繋ぎ止めようと画策したものであると気づいたからだ。
自分の場合、「できた句」の方がよいものに思えるし、愛着も深くなる。
しかしそんな句は、100句のうち1句か2句ぐらいのものである。
前回までの記事で「添削」に対する違和感を述べてきたのも、「添削」を受け入れた瞬間に、希少な「できた句」は凡百の「つくった句」に紛れてしまい、二度と再び輝きを取り戻すことはないからである。
「できた句」とは、今ここにある感動が、自身というフィルターを通して「そうでなくてはならない」という必然性を持って形になったものである。
したがってそうした句を生み出すためには「自身のフィルター」を常に研ぎ澄ます必要がある。
「自身のフィルター」とは「感応力(インプット)」と「表現力(アウトプット)」を総合するものであり、その双方の能力を常に向上させていなくては、「できた句」は訪れない。
「添削」はその能力の向上のために有効なものである。
「感応力」も「表現力」も、他者の視点を取り込むことで育成されるものであるからだ。しかし「添削」によって「できた句」は生まれることはなく、むしろ殺されてしまう。
これが私が「添削」に抱くジレンマである。
そのような自身の背景から、世にある「名句」たちはおそらく「できた句」なのではないかと私は推測しがちである。しかし実際には「できた句」か「つくった句」かを判断できるのは作者のみであり、「できた句」であるかどうかと「名句」との間に因果関係はないのかもしれない。
検証が必要であろう。
さて、今回から橋本夢道(1903-1974)の句を鑑賞する。
今回は以下の句を取り上げてみる。
うごけば、寒い 橋本夢道
夢道のこの句は、自身も後の句に詠みこむほど印象深かったものであり、彼の代表句として挙げられる句と言っていいだろう。
上で述べた二項に当てはめるならば、まず間違いなくこの句は「できた句」であろうと推測できる。そしてその作句の背景を知ってしまえば、この句のこの形でしか在り得なかった必然性も理解できる。
しかし、その背景を知らずとも、この句は名句足り得るのか。それだけの強度が句自体にあるものだろうか。
以前この記事(自由律俳句を読む 109 「尾崎放哉・種田山頭火」を読む〔3〕)で「名句の条件」を次のように3点あげた。
①3つの要素(チャンク)でできていること
②各要素に割かれた音数が心地よく音楽性を持つこと
③3つの要素それぞれで(あるいは全体で)序破急が表現されていること
夢道の「うごけば、寒い」はこの①の条件を逸脱している。
「うごけば、」「寒い」では、要素は2つとなり、③の序破急も満たせない。
(無論「うごけば」「、」「寒い」と見ることも可能かと思う)
それでも私がこの句を名句と判断する理由はなんなのか。
そして何より、その句の背景を知らずとも名句と判断できるものなのか。
その検証が次回以降からのテーマとなるかと思う。
次回は、「橋本夢道」を読む〔2〕。
※句の表記については『鑑賞現代俳句全集 第三巻 自由律俳句の世界(立風書房,1980)』によった。
0 comments:
コメントを投稿