2017-02-19

評論で探る新しい俳句のかたち(12) 作品の強度としての「プレーンテキスト」と鶏頭論争 藤田哲史

評論で探る新しい俳句のかたち(12)
作品の強度としての「プレーンテキスト」と鶏頭論争

藤田哲史


俳句雑誌「オルガン」2017年冬号での対談記事「プレーンテキストってなんだろう」がおもしろい。

記事としては、作品としての俳句が全くノイズなく享受される状態として「プレーンテキスト」を想定し、どのような場合にノイズが生じるのか、ということについて生駒大祐と福田若之の2人が議論を進めていくもの。

意識的な連作の場合には一句としてのプレーンテキスト性が削がれる、とか、本の装丁の装飾性がノイズになる場合があるんじゃないか、とか、トピック一つ一つにかなり読みでがある。

ここで思ったのは、俳句におけるノイズがすべて負に働くわけではないな、ということ。連作や装丁などの「ノイズ」を鑑賞の手がかりと読み替えれば、作品以外の要素について肯定的でいられるはずだ。

このような鑑賞の手がかりなしにでも成立する作品の強度を「プレーンテキスト」という概念で表しているのか、とも思ったものの、記事での議論は私の意図とは別の方向に展開していった。

仮に、鑑賞の手がかりになしにでも成立する作品を「プレーンテキスト」とすると、「切れ字」「取り合わせ」などの俳句に関する基礎知識も「ノイズ」の一つと言えるんじゃなかろうか(これは、ちょっと怖ろしい思い付きだ。俳句に関わるすべての知識が「ノイズ」になりうる可能性がある)。



少なくともはっきりしているのは、「プレーンテキスト」という概念が論理的な議論に使いよい、ということ。

たとえば、

 鶏頭の十四五本もありぬべし   正岡子規

の可否について、病床にあった正岡子規の境涯とか、「写生」を唱えた正岡子規の文学者としての主張とか、この作品が句会に出されたとき、誰も点を入れなかったとか、句会場所に鶏頭が咲いていたから嘱目の句だ、とかいった読み方は「プレーンテキスト」性に乏しい読み方といえる。

「プレーンテキスト」性の高い読み方を考えるなら、現在においては今一つピンと来ない「ありぬべし」の解釈についても、

  朝露は消えのこりてもありぬべし誰かこの世を頼みはつべき
  あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな

などの和歌における用例を、正岡子規やこの俳句に関する資料よりも重視して捉えることになるだろう。

その捉え方は「プレーンテキスト」性が低いですね、とか。何だか流行りそうな予感。



けれども、実際のところファンにとって「プレーンテキスト」ほどつまらないものもない。

作品だけが全てで、顔も公開しないし文章も書かないなんて味気ない。ファンならアイテムとしての価値を本に見出すし、そこに直筆の一句が書かれていればもっと嬉しいものだろう。

と、これはプレーヤーもないのにヴァイナルを買ってしまった私の言い訳なのだけれども。

3 comments:

浅見 さんのコメント...

プレーンテキストというのはつまり作者の境涯を考慮しないということでいいのですか?短歌で言う私性みたいな話ですか?

福田若之 さんのコメント...

藤田さん

『オルガン』8号での対談記事をとりあげていただき、ありがとうございます。浅見さんからのご質問について、もとになった対談記事の話し手のひとりとして、僭越ながら、この場ですこしコメントさせていただきます。



浅見さん

『オルガン』8号の対談記事で「プレーンテキスト」について生駒大祐さんと議論をした福田若之と申します。ご質問について、お答えさせていただきます。

結論から申し上げると、「プレーンテキスト」は、単純に作者の境涯を考慮するかしないかというような話ではありません。

たとえば、生駒さんによれば、前書きによって説明される作者の境涯は、「プレーンテキスト」を志向しながら俳句を読む立場にあっても、句の読みと関連付けられることがあるそうです。それは、境涯が前書きとしてテキストに現に書き込まれているからです。

「プレーンテキスト」という概念は、たしかに「私性」の問題とも関連しうるものではありますが、本質的には、その問題系に属するものではありません。それは、文字通り、テキストについての思考から提示されたものです。「プレーンテキスト」という概念についての僕たちの議論をご理解いただくためには、まず、その点を踏まえていただく必要があるように思います。

「プレーンテキスト」について、これまでになされたなかでおそらくもっとも明快な説明は、「活字で書かれていようが、書として書かれていようが、どちらでも伝わってくる同じ部分」(田島健一)が「プレーンテキスト」である、というものです。したがって、この「部分」に境涯が表れていればそれは読まれるし、表れていなければ読まれないということになると考えられます(「考えられます」というのは、僕自身は「プレーンテキスト」という言葉に含意されたこうした分別のありように対して批判的であるからです。このコメントが、あらかじめそうしたバイアスのかかった人間のものであることは、どうかご留意ください)。

これ以上は、「プレーンテキスト」というものを仮定してそれを重視することに対して批判的な立場からは、申し上げにくいところがあります。より詳しい議論につきましては、『オルガン』8号に掲載の対談¥と『オルガン』6号に掲載の座談会の各記事をお読みいただけましたら幸いです。

浅見 さんのコメント...

福田様

丁寧な解説どうもありがとうございます。
といいながらうーんわかったようなわからないような…難しいですね。
前書きならOKということなら、たとえば前書きに「本能寺にて」とあった時、「本能寺の変」を思い浮かべては駄目で、単に本能寺という場所だけを考えるべき、という感じでしょうか。とすると季語の本意とかもNGになってしまいそうな気がしますが…。
やはり本文を読まないと難しそうですね。