あとがきの冒険 第22回
ぽの不渡り・通貨ぽ・希ぽ望
田島健一『ただならぬぽ』のあとがき
柳本々々
田島健一さんのこんなあとがきから、はじめたい。
俳句が俳句であることは難しい。田島さんの「あとがき」を読んでふいに思ったのが、〈エネルギー対価〉の問題だった。田島さんは、俳句の〈エネルギー対価〉について考えつづけているひとなのではないかと。
俳句というのは実は無償でつくられているわけではない。なにかのエネルギーを支払って、なにかを費やして、なにかを失って、つくっているのだ。そして「俳句」は「俳句」になる。
だからときどきその支払いがとどこおり、遅延し、督促を受け、けっきょく、支払えずに、「俳句が俳句であること」に失敗したりもする。〈俳句の不渡り〉がでる。
俳句を書いてきたけれど、書いたものは、常にかけがえのない出来事だったと言えるだろうか。「書いたもの」に対する〈エネルギー対価〉。それは「かけがえのない出来事」たりえない可能性もある。
これまで書いてきたものは、結局書けなかったものの堆積なのかも知れない。「書いてきたもの」は「書けなかったもの」と等価になる。だとしたら、わたしたちがなにかを〈書く〉ということは、同時に、〈書かない〉ということでもあり、シーシュポス神話のように積んでは・崩されるむなしい〈積み上げ〉作業になるかもしれない。
わたしたちは「書いてきたもの」の対価として「書けなかったもの」を支払う。
書けば書くほど、書かないことがたまり、わたしたちは〈ゼロ〉に近づく。「ぽ」に小さく付着した○のように。
ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ 田島健一
ここにも対価の発想があるかもしれない。「ただならぬ海月」「光追い抜く」に付着する「ぽ」。この「ぽ」は、発話に対して支払われたものかもしれない。意味に支払われた非意味。意味をゼロにするために、「書けなかったもの」にするために支払われる対価としての「ぽ」。「ぽ」はもしかすると、通貨になる。
もし、「ぽ」が対価や通貨になるのであれば、それは〈たんなるぽ〉ではない。「ただならぬぽ」である。そして「ただならぬぽ」は、わたしたちをその「ぽ」の○のように、ゼロにちかづける。ただならぬゼロ。
私は2014年の冬に下北沢のイベントで田島健一さんのことばに耳をすませていた。田島さんがこんなふうに言ったことをよく覚えている。
わたしたちの経験は、未来にある。
「書いてきたもの」は「書けなかったもの」と等価なら、まだ「書けないもの」は、「書かれたもの」として未来にあるはずだ。それが、未来の、未来からの現在への対価になる。
だとしたら、ええと、ぽ、そうだ、
希望は、ある。
息のある方へうごいている流氷 田島健一
(田島健一「あとがき」『ただならぬぽ』ふらんす堂、2017年 所収)
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