2017-02-05

【「俳苑叢刊」を読む】第2回 星野立子『鎌倉』 主観の骨格 生駒大祐

「俳苑叢刊」を読む
第2回 星野立子『鎌倉』
主観の骨格

生駒 大祐



美しき松毬ひろふいとまかな 星野立子『鎌倉』
雛壇に美しかりし夕日かな 同
美しき銀杏落葉も道すがら 同
美しき歸雁の空も束の間に 同
孟宗に春の驟雨の美しき 同
洗ひ髪ひたいの汗の美しく 同
朝露のかくまで太く美しく 同
冬霞人美しくゆききする 同
美しきしばしの霙ありがたし 同
大原女の美しき顔日焼けたる 同
月代に雲美しくとゝのへば 同

うん、やっぱり多いね、という気がする。
星野立子『鎌倉』における「美しい」という形容詞の入った句の数のことである。
やっぱり、というのはこのことはすでに指摘されていることであって、例えば以下。

「美しい」は描写において本来なら禁句というべきことばです。描写、それも詩の描写なのですから、対象が美しいのはある意味当り前です。それがどう美しいのか示すのが、詩の描写でしょう。しかし立子は度を超えて「美しい」を使っています。
(小林恭二『これが名句だ!』平成26年角川学芸出版刊)

また、「美しい」という措辞の扱いに関して「禁句」的扱いをするのはどうやら一般的なことのようだ。

俳句では「美しい」「さびしい」などの主観的な表現を避けるべきだと言われています。しかし、入門書に書いてあることを教条的・形式的に守るだけでは楽しくありません。
(岸本尚毅『岸本尚毅の俳句一問一答』平成17年NHK出版刊) 

俳句の指導においてなぜ「美しい」という言葉がかくも嫌われるのかについてはあまり興味がないが、『鎌倉』における「美しい」の多用について考察するのはある程度意味があることのように思われる。なぜならそれは立子ほどの実作者が表現の方法として選んだことであり、またそれらの句に僕が惹かれるのは確かなことであるからだ。


これを考える前に、まずは俳句における「美しい」の名句について整理しておこう。

美しき緑走れり夏料理 星野立子『笹目』
引く波の跡美しや桜貝 松本たかし『松本たかし句集』
美しやさくらんぼうも夜の雨も 波多野爽波『湯呑』
美しく木の芽の如くつつましく 京極杞陽『くくたち 上巻』
雁やのこるものみな美しき 石田波郷『病鴈』
幾千代も散るは美し明日は三越 攝津幸彦『鳥子』

まだまだあるが、とりあえずこんな感じ。

たかしはずらしの技として、爽波は空間把握として、杞陽はとことん主観的に、波郷は象徴に対するラベル付けとして、攝津は屈折した引用として、「美しい」を用いている。

これらを眺めていて気づくのは「美しい」対象の具体性に対してはかなりグラデーションがあるということである。実はこの引用は上から順に対象の具体性が高い(美しいが描写的に用いられている)と感じた順に並んでいるのだが、立子の句が「夏料理の中の緑色の具材」がまさに美しいと言っているのに対して、たかしは「桜貝が美しい」ことを遠回しに言っているので少し下がり、爽波は「さくらんぼう」と「夜の雨」が存在する空間に対して「美しや」と包含的に述べている、杞陽は「美しく」「つつまし」いと言っている対象が具体的には描かれず、と言った風に抽象度が上がってゆく。

まあこれらの句はたまたま都合よく取り上げただけなので順位には意味はないが、少なくとも「この句において立子が『美しい』という形容を比較的描写的に用いていた」ということくらいは言えるのではないか。


再び立子の『鎌倉』における句をそっくり引用する。

美しき松毬ひろふいとまかな 星野立子『鎌倉』
雛壇に美しかりし夕日かな 同
美しき銀杏落葉も道すがら 同
美しき歸雁の空も束の間に 同
孟宗に春の驟雨の美しき 同
洗ひ髪ひたいの汗の美しく 同
朝露のかくまで太く美しく 同
冬霞人美しくゆききする 同
美しきしばしの霙ありがたし 同
大原女の美しき顔日焼けたる 同
月代に雲美しくとゝのへば 同

先ほどの考察では立子が描写的に「美しい」を用いていた、と述べた。その次に考えなければならないのは「『美しい』という言葉によって本当に描写は成立し得るのか」という疑問である。

「美しい」というのはいわば作者の心の中にしかない概念である。「赤い」という形容は明確にある何かを客観的に描写している。これが「早い」になると若干客観性が落ちるが、常識に照らし合わせれば大体速度の想像はつくことが多い。

要は、形容における「数値化できる」や「再現性がある」の度合いの最も低いものの一つが「美しい」であると言える。

では「美しい」という措辞を成立させる方法は何なのか。そのヒントは先ほど引用した小林恭二の評の中にある。

「美しい」はある意味何も表現していないも同じです。立子はただ自分がよいと思ったものを「美しい」としているのです。それはいってみれば立子の認定状のようなものです。凡百の俳人が同じことをすれば、鼻持ちならぬということになるのでしょうが、立子の「美しい」には骨董の目利きに太鼓判を押されたような安心感があります。
 すなわち、「美しい」という言葉を多用し、その主観の骨格を集合的に立ち上げることによって立子にとっての「美しい」とはどのようなニュアンスを指すのかを指し示す、というのが立子の方法だった。しかもこの方法は「立子は美しいと感じたならば美しいと表現する」という了解のもとでは「美しい」を用いていない句もその骨格の構成に寄与する。「美しくない」ものの集合も「美しい」ものの集合を間接的に指し示すからだ。それには「美しい」の明示的な多用は絶対条件であり、「美しい」という言葉が描写的に使われるならばそれは多用されざるを得ない、ということがわかる。

この方法によって立子は「何も表現していない」言葉である「美しい」に輪郭を与え、同時に読者にとっての立子の美意識を可視化した。


ピンとくる方も多いだろうが、これは俳句にとっての季語のあり方も同様である。俳句にとっての季語は多くの俳人によって多用されることによってその集合的な意味が定められ、それは日々更新され続けている。立子のとった方法はいかにも俳句らしいものだと言える。


本稿では立子の「美しい」の句及びその方法論について述べたが、『鎌倉』を読むと立子の「美しい」以外の主観的な言葉の多用もよくわかる。立子はともすれば嫌われる主観的な言葉を多用することによって逆にその発言主体を立ち上げて読者に示し、読者を自身の感性の世界に取り込む。

立子は本当に恐ろしい作家である。


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