後記 ● 福田若之
先日、ひさしぶりに市内のわりと離れたところにあるブックセンターいとうまで自転車で遠征してみたら、定価4500円の『細川加賀全句集』(角川書店、1993年)がなんと100円で売りに出されていて、なんといいますか、お買い得のよろこびを通り越して諸行無常を感じたことです。
思えば、貨幣経済ほど諸行無常を体現しているシステムもないかもしれません。時は金なり、金は天下の回りものといいます。貨幣は、思いのほか、火に似ているかもしれません。万物は流転する、そして、万物は火の交換物であり、火は万物の交換物であるとは、古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの言。流転する万物との相互的な交換物であるというのは、まさしく貨幣の夢ではないでしょうか。加えて、神話的なイメージの上で火と貨幣を結びつけるものがあるとすれば、それはヘーパイストスや火之迦具土神といった火と鍛冶の神々でしょう。鋳造技術が火と貨幣を結びつけるというわけです。もちろん他方には、家計が火の車、なんて言い回しもありますが。
鍛冶の神は、もしかすると映画の神でもあるのかもしれません。フェリーニの「金が尽きれば、映画は終わる」という言を引用しながら「金銭は、映画が提示し表側で築くすべてのイメージの裏面にあたるのだから、金銭についての映画は、どれほど暗黙にであっても、すでに映画中映画、ないし映画についての映画である」とし、また、「金銭とは時間なのだ。運動が、交換の総体あるいは等価性、対称性を、不変のものとして仮定しているということがほんとうだとすれば、時間とは、本性上、不当な交換の共謀または等価性の不可能性である。この意味で、時間は金銭なのだ」とする『シネマ2』のドゥルーズは、「要するに、映画が最も内的な前提に、つまり金銭に直面することと、運動イメージが時間イメージに場を譲ることは、同じ事態にほかならなかった」とも書いています。
もちろん、鍛冶の神は火の神でもあります。ジャン=ルイ・ボードリーがその「装置――現実感へのメタ心理学的アプローチ」において映画館と重ね合わせたあのプラトンの洞窟で、さまざまなものの影を洞窟の壁に投影する映写機の役割を果たしていたのは、煌々と燃える火でした。 火が尽きれば、映画は終わるのです。
マッチの火消えたる闇の菊人形 細川加賀
闇になお菊人形があるとわかるのは、あるいはその香りによってでしょうか。
闇。夜あるいは盲目であるということ。諸行無常と盲目といえば、やはり、琵琶法師による『平家物語』が思い浮かびます。「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とはじまるその冒頭部は、「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」とも語っていました。彼らにとって、諸行無常が響きによって認知されるものであって、久しからざるものが春の夜の夢に喩えられるものであるということ、ここには単なる修辞にとどまらない何らかの身体感覚があるように思われてなりません。けれど、いまは、ひとつ修辞に遊びながらこのとりとめのない話をしめくくることにしましょう。 「春宵一刻値千金」とは蘇軾の『春夜』の一節。時は金なり、祇園精舎の鐘も鳴り、一切はただ春の夜の夢のごとしというわけです。
おあとがよろしいようで。
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それではまた、次の日曜日にお会いしましょう。
no.514/2017-2-25 profile
■田島健一 たじま・けんいち
1973年東京生れ。結社「炎環」同人。同人誌「豆の木」「オルガン」参加。句集『ただならぬぽ』。ブログ「たじま屋のぶろぐ」 http://moon.ap.teacup.com/tajima/
■野住朋可 のずみ・ともか
愛媛県西条市出身。大阪府在住。俳句雑誌「奎」副編集長。関西俳句会「ふらここ」会員。
■北大路翼 きたおおじ・つばさ
歌舞伎町俳句一家「屍派」家元、砂の城城主。句集『天使の涎』。四月にふらんす堂から第二句集を出版予定。
■藤田哲史 ふじた・さとし
■三木基史 みき・もとし
■福田若之 ふくだ・わかゆき
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