【「俳苑叢刊」を読む】
第7回 中村汀女『春雪』
生活詠の賞味期限
実作者の立場から
浅川芳直
第7回 中村汀女『春雪』
生活詠の賞味期限
実作者の立場から
浅川芳直
えー、どうも、ハイクというものは、どうにも不思議なとこがございますな。と言いますのは、俳句をやる人によって、ハイクっちゃ何だ、何であるべきか、花鳥諷詠だ、魂の一行詩だ、造型だ、社会性だ、アニミズムだ、形式の力だ、いやそんなもんは俳句じゃねえ…、ピイチクパアチクやってるん。結社の理念なんかを比べてましても、主客合一が、モダンが、抒情が、産土が……。ただこのぉ、十七音のリズムに何か感動を書きとどめるというのは、どんなお人でもお認めになるようでございます。
またこのぉ、ハイクの感動てえのは、作者が本当に心を動かしたことが種だ、てぇことを言いまして「そりゃおめぇ、句作の方法は写生にかぎるよ」なんて申しますな。それで、日々の暮しの出来事や嘱目を日常感覚の言葉で句にするのを特に生活詠なんて言う。言わずとしれたその名手が中村汀女さんでございます。この人ぁ、大正・昭和の女性がもっともイキイキと働く場所であった台所の、本当に平凡な主婦の暮しを詠んだん。ところが、頭の硬ぇ一部の人にゃあ「そんな狭い取材範囲の句はな、台所俳句ってんだ」なんて、ウケない。するてぇと、えらい人が「花鳥諷詠ってのは、ニッポン人の生活は背伸びなんかしなくてもだよ、四季の移ろいつまりは俳句の世界と結びついてるってことじゃねぇのかい。たとえ台所を出らんない主婦の暮しだっておんなじだってんだ」。かえって説教されちゃう。詰まるところ、家庭や家族という狭い空間のなかで派生するもろもろのこたあ、その本質的なところで社会だ、自然だ、てな問題とも繋がっているん、バカにしちゃいけないよって。
ところが当然のコトワリで、時代と場所が変わりますと、ライフスタイルってのが変わっちゃう。すると、どうも疑問が湧くんですな。生活詠、ひょっとすると花鳥諷詠とか写生一般の名句も含めて、そういう俳句の中には「賞味期限」つきの奴、そのうち食えたもんじゃなくなっちまうのもあるんじゃねえか……。
たとえば、今回取り上げる『春雪』。これは昭和十五年の発行ですから、もう七十五、六年昔……。戦前でございますが、
(1)秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな
「りんすん?シャンプーでもするのかい」。当字が難しいですな。それから最近の生活はオール電化だァ、IHだ。ガスなんか使ってない。使っている家は家で「マッチ?なぜチャッカマンじゃないの」「瓦斯なんて漢字で書いちゃってまた、オシャレな街灯と思ったよぅ」。
この句は瓦斯が何で燐寸が何でということがわかりゃあ、そしてそういう生活をしてりゃ云うことはないん。でも昔と今では表記の習慣が違っちゃってイメージがぼやけちゃう。それからライフスタイルが変わっちゃって、ポンと投げられてもピンと来ねぇ。
はぇー話が、問題はこうなんですな。生活詠で「ああ、わからねえなぁ」と辞書を引かなくちゃならないことがある。それから、「辞書は引いたけど、やっぱ共感できねえなぁ」という句もありそうだ。ひょっとすると、生活詠ってのは、程度の違いはあるが、やがては古くなっていつか共感されなくなる宿命にあるんじゃねえか。もしそうだとすると、時代を超えた名句を詠もうと思ったら、取材範囲はどっしりとした歴史的建築物や、山川草木その他生き物にかぎる、なんてことになりかねません。「生活?うっちゃっちまえ!」こいつぁどうにも具合が悪い。
えー。それからどうも、身辺生活から詠うハイクと申しますものは、天翔けるフィクションと違いまして、日記の切れっ端、詩としちゃにせものであることと紙一重でして。やっぱりほんものの感動てぇのは時代によってコロコロ変わっちゃ困るだろうから、ほんものの感動と生活詠の賞味期限問題、どっか関係ありそうでひょ。じゃあほんものと呼べる句、呼ばれてる句はどんなものを詠んでいるのか。ってんで、句材という観点から生活詠の賞味期限問題へアプローチしてみましょと、今日はそんなお話でございます。
とこういうこってすから、折角なので生活詠の名手汀女さんの句を重要証拠として考えたいん。「古典を現代の感覚で読む」ということがありますが、その伝で汀女を読んじゃう。気取った言い方をすりゃあ、汀女を通して生活詠の可能性を考える試み。
それでさっそく『春雪』からアタクシが、時代を感じるなァという句をいくつかカテゴライズして挙げてみるんですが……、まずは衣食住のなかでも、ファッションがどうとか昔はこうだったとか言いますように、一番傷みが早そうな、「衣」の俳句から。
(2)張板抱へて廻れば眩し鵙の庭(3)くけ䑓のひき絲さげて日永かな(4)打水や抱へ出て襷しめなほし(5)新涼の手拭浮けぬ洗面器
(2)(3)の「張板」「くけ台」。わからない方多そうですな。それぞれ昔の洗濯道具と裁縫道具でございます。(4)(5)は二十一世紀の現在、襷や手拭を日常的にお使いになる御宅は少なくなっていると思うんですが、しかし、今あげました句の空気感、サザエさんの世界と言いますか、よぅくわかるような気がいたします。
ここで詠まれておるような暮らしは、「戦前の生活」と申しまして、アタクシ共も小学校の「生活科」の知識として仕入れていて、それでわかっちゃう。
衣食住というカテゴリ以外でも、
(6)麥の芽に汽車の煙のさはり消ゆ
(7)征く人の御父尊と東風の驛
こういう「今は昔」の情景は、昭和の知識があればちゃあんとその手触りがわかるってえ寸法。歴史的な背景と切り離せねえ句は、「鑑賞に困っちゃうねえ!」となりがちでございますが、やっぱりいい句であれば、ちっと勉強すれば誰でもおいしく味わえるんで。このちょっとした手間を惜しんで作者に寄り添おうとしねえ奴ァ、燐寸と聞きゃあ、なぜチャッカマンじゃないの?なんて言っちゃう。そんな野郎は味噌汁で顔洗って出直してきな、とこうなりますな。
どうもこの調子ですと、時代の趨勢で使わなくなっちまったものが登場する句についちゃあ、知識さえありゃあ昔と変わらぬ美味しさでいただけると、こういうことのような気がしてまいります。
ところが中には、今でも共感できるには違ぇねぇンだが、時代背景が違うんで、どうも鑑賞が作者の腹づもりとズレる、てなことがございます。要は、美味しく味わえるんだが変質しちまう句で……。
(8)ふるさとにたよりおこたり日向ぼこ
(9)風呂沸いて夕顏の闇さだまりぬ
(10)もろこしを燒くひたすらになりてゐし
この三句は「食」と「住」の句ですな。(8)今どきケータイ、メール、「すかいぷ」「らいん」なんてのもあるらしい。現代人と昔の人では、故郷恋しの思いはなかなか同じ尺度じゃ比べらんない。もちろんちょっとアンニュイな気分は変わらないとは言え、日当たりのいい縁側がある家なんて都会にゃなかなかございやせんし、昭和初期、70年代、ゼロ年代、設定を変えれば映像もぶれてくるようでございます。(9)は風呂を沸かすと夜のとばりが。しかし現代の句として読むと、お風呂が沸いてるのを確認したとき、どうして庭の夕顔の様子がわかんのかがわからねえ。薪でふうふう風呂を立てない現代人にゃあ、この句は写生というより心象風景と映る可能性が高いってもんでひょ。平成生まれのアタシの感覚だと、(10)のとうもろこしを焼く「ひたすら」な表情からは生活の必死さなんか消えちまって、キャンプか何か、慣れねぇバーベキューでコーンを焼いてる仲間の顔を茶化した、ユーモアの句になっちゃう。
その点、景がぶれないのはこんな句で。
(11)丸の内三時の陰り秋の風(12)三越を歩き呆けや花氷(13)煖房に毛皮とそれのレヂスター(14)少年のかくれ莨よ春の雨
(11)現代と昔じゃあ丸の内の様子、建物も違ってましょうが、そこの居眠りしてるお客さんが平成の俳句だと思って鑑賞しても、汀女の時代とあまり変わらない鑑賞になりそうでひょ。(12)は三越デパートある限り永久に不滅です、(13)は「レヂスター」なんて今は使わねえ言葉がかえって毛皮のコートっぽいん。(14)今も昔も少年のタバコは公然の秘密。トイレで隠れて吸ったりするもんで、これまた大いに共感ですな。以上四句、今も雰囲気や価値があまり変わっていないもの、こういったものが主題になってますと、現代人も昔とおんなじ感動を共有できるようでございます。逆に基本的な衣食住にまつわる題材を詠んだ句は、なんというか時代と共に醸成されちまって味わいが変わっちまう場合がある。きっと基本的な生活に関するがゆえに、そこに登場する道具や習慣も変わりやすいというわけなんでしょうな。しかしそうなんだけれども、まあ別の美味しさが出て来るてぇ、これが面白い。
今まで取り上げたような句を見ておりますと、生活詠に賞味期限なんてケチ臭ぇものはないんだという気もするんでございますが、ところがどっこい、こいつぁ共感できん、頭でいくらわかっても今一つビビビッと来ないってのもあるんで。
(14)ゆきついてかへす夜番の聞えつつ
(15)雪掻きし市内に來り橇難澁
(16)馬が待つ雪の積荷のまだなかば
いや、もちろんアタクシの性格、育った環境、性別やなんかのせいかもしれませんが。(14)夜番、歳時記には載っている。夜、黄色いジャケットを着ておじいちゃんたちが何か歩いてるときはある。でも、「火のォ用心!パチ・パチ」とはやってないし、「張板」や「くけ䑓」と違って当時の生活必携風物というようなものでもないから、そこまで句の世界に入り込んでいけない。(15)(16)、これまた知識があって情感が浮かんでも、今一つ現代の感覚にリンクしねぇ。ソリやお馬さんでは、どうしても軽トラのイメージと重ならない。あくまでアタクシの独断・偏見なんですが、現代への繋がり方が微妙な感じの風物はツラいものがあるようです。
じゃ、佳句としてよく鑑賞されてる句はどうなのかと言いますと、やっぱりいいと思うでしょ。それがね……それが、いいんですなぁ。
(18)曼珠沙華抱くほどとれど母戀し
(19)靴紐をむすぶ間も來る雪つぶて
(20)咳をする母を見上げてゐる子かな
(21)さみだれや診察券を大切に
(22)あはれ子の夜寒の床の引けば寄る
(23)咳の子のなぞ〱あそびきりもなや
(24)ゆで玉子むけばかゞやく花曇
(25)書いてみす數字が下手や日向ぼこ
(26)まだ犬もつながれしまゝ夕時雨
(27)夫と子をふつつり忘れ懐手
(28)年ごろの似てかへりみて曼珠沙華
いずれの句も、家族への愛情がしみじみと句の背後にあるんで。(19)(20)(22)(23)(25)の、母としての愛情。(26)の犬は、家族というものをいつも大切にしているから気付けるってもんで。(21)もそう。(24)は家族で出かけたお花見だからこそのゆで卵の輝きでございます。(27)の「懐手」は死語に近いが、自己言及的に示される家族へ思いで、現代人にも響いて来るものがあるん。そして(28)、アタクシは『春雪』就中絶唱と見ますナ。年頃の似た人を思わず振り返って二度見した。お嫁さんに来て、いろんなことがあった、夫の転勤、子育ての苦労エトセトラ。胸に去来する複雑な感情をすっと包み込んで次の一歩を踏ませてくれるのは他ならぬ家族の存在。足許の曼珠沙華がなんと儚く美しいことよ。
えー、グダグダしゃべってまいりましたが、そろそろお時間でございます。生活詠の可能性として、どんな句材をとれば普遍的な名句となりうるのか。本日のおしゃべりをまとめますとこんな具合になるようで。
【生活詠の句材の賞味期限表】
1 現代では廃れたり、変化している風物。
1・1 衣食住に関わる風物
読者が知識を補完すれば変わらぬ感動あり。賞味期限なし。
1・2 衣食住の基本に直接的には関係しない風物。
鑑賞可能だが、強い共感はされぬ場合あり。賞味期限あり。
2 現代においても、様態や価値が変わらない風物。
今も昔も変わらぬ感動あり。現在はまだ賞味可能。
3 衣食住の根本に関わる風物。
作者本来の意図と、読者が読み込む感動がずれる場合あり。賞味期限ありの場合、期限が切れても独特の美味しさ。
4 人への愛情。
今も昔も変わらぬ感動あり。賞味期限なし。
てなことで、当初の問いに答えてみることといたしましょう。その、俳句と言うものは、十七音定型感と季語さえ入っていりゃあいいわけでして、琴線に響いてこねえ偽物もあるん。じゃあほんものを生むについちゃあどうすりゃあいいのか。こんな問いに、今日の分析を以て答えるなら、まぁ新しがりで何でも飛びつこうとするからいけねェ、生活の本当に基本的なものを詠むことだ、と言えるんじゃございませんでしょうか。それからもう一つの問題、生活詠はいずれ時代と共に古びちまう、だから、超時代的な名句を詠みたいという野心家は、植物や歴史的建造物に句材を狭めるべきなんじゃねえか。こう訊かれたら、てやんでぇ、俺っちもおめぇも食う寝るところに住むところ、それに人の愛情ってえのは絶対必要だろうってんだ、てめぇさしずめインテリだな、こう言っちゃえ。
アタクシも俳句作者のハシクレでございますから、生涯に一句くらいは歴史に残るような、そんでもって普遍性のある句が詠みてえと思っちゃあいるんでございますが、言わせてもらえば「普遍性」を狙うてぇのは、むつかしいん。大人が高校生の俳句を見て「ちょいと、あんたの句にゃ高校生らしさがないよォ。ウソツキ!」。でもバンカラの男子校だと、「午後はサボってパチンコ屋、放課後は部室で麻雀」なんてぇのがホントだったりするんで。普遍的な高校生らしさなんておつけの実にして食べちゃう。まったく飛んだハナシ。
まァですから、鑑賞する側は作者に寄り添う努力、特に教養の涵養も必要で、わからなかったら辞書を引く、「絶滅寸前季語」みたいなやつへの目配りも大事でございます。するとどうしたって感性だけで楽しむというわけにはいきませんで。純粋芸術的な理想とはちょいと違う俳句の奥深さと言うべきかは知りやせんが、桑原さんちの武夫ちゃんを久々に読み直してぇと思ったり。
理屈はさて置き、どしどし正直に詠むしかありません。出しましょう、生活感、醸しましょう、親近感。作りましょう、明日の暮しの満足感。生活詠の賞味期限という一席でございます。
二月吉日 小三治のCDを聴きながら。
3 comments:
そうですなあ。加えるとすれば「生活」ってのは時代だけに左右されるもんじゃないってこともあげられますな。
外山さんの論考にもあるように、いまや社会階層が違えば生活詠に共感なんかできんのですよ。
https://note.mu/t0yama_k/n/ne8606c72e374
ま、これも実際には現代に限ったことではなく、共感というものの多くは異物を排除して成り立ってきたということですな。
くわばらくわばら。
ろはんさま
コメントをありがとうございます。執筆者の浅川です。
外山さんの記事を教えていただき、ありがとうございました。
記事後半に「普遍性」云々と書きましたが、「「生活」ってのは時代だけに左右されるもん
じゃない」というコメントをいただいて、あぁ自分でも暮らしや価値観、社会的身分や年齢
のことをを考えてはいたのかな、むしろそっちに関心があったのかなとも思っています。
また、社会的身分が違えば生活詠に共感はできない、というご指摘は、本当に重く
受け止めさせていただきました。
ただ外山さんの場合、小川軽舟さんの俳句と「俳句日記」に描かれた軽舟さんの”平凡”な
生活とを不可分に読んだ上での「共感できない」なので、ここから生活詠全般について
何かジャッジを下すことには、少し戸惑いがあります。
もちろん、恵まれた境遇や暮らしをしている作者の「平凡」は、平凡ではないかもしれま
せん。しかし、どんな境遇や暮らしの読者にも、のちの時代の読者にも、何か胸にひびく
ものがある句は、最低限、作者自身が摑んだものがきちっとある句だと思っております。
それじゃあ、「生活といっても人によって、時代によって違う。作者が何か感動を摑むと
いうことに加えて、実作者は取材にあたって何を加味すればよいのか」という
モチベーションで書かせていただきました。
、
お答えにもなりませんが、御礼御挨拶まで。
与太のようなコメントに丁寧にお返事ありがとうございます。
共感も生活詠も全否定するつもりは毛頭ありませんが、そこに潜む危険性について少し広げて考えてみた次第でございます。
今後とも鋭い論考を期待いたしております。
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