有馬朗人氏に反対する
俳句の無形文化遺産登録へ向けた動きをめぐって
俳句の無形文化遺産登録へ向けた動きをめぐって
福田若之
毎日新聞の4月24日付東京朝刊に掲載されたという国際俳句交流協会会長・有馬朗人氏へのインタビューをまとめた記事(聞き手は森忠彦)を同社のウェブサイトで読んだ。
有馬氏は以前から「仕掛け人」となってユネスコの指定する無形文化遺産に俳句が登録されるように働きかけている。このインタビューの話題は、おもにその運動に関することだ。
有馬氏は以前から「仕掛け人」となってユネスコの指定する無形文化遺産に俳句が登録されるように働きかけている。このインタビューの話題は、おもにその運動に関することだ。
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僕は、有馬氏の発言のところどころに見られるあやうさのいちいちをここであげつらおうとは思わない。有馬氏の「欧州とイスラムのけんかを俳句の心でやめさせたいんです」という個人的な思いを述べたにすぎない発言が、何らかの根本的な事実誤認を疑われても仕方のないものであるからといって、それはさしあたり、「俳句を無形文化遺産に」という動きの正当性についての議論とは無関係だからだ。
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記事の前半では、アレン・ギンズバーグやトーマス・トランストロンメル、ダグ・ハマーショルドといった人々の名が挙げられたうえで、「もちろん、日本語の「五・七・五」ではなく、それぞれの国の言葉で読まれた短詩」である「HAIKU」の国際的なひろまりについて語られている。ならば、つぎの発言はどう理解したものだろうか。
俳句界の調整にも時間がかかりました。日本の俳句界には伝統的なものから現代的なもの、型にはまらないものまでありますからね。どこまでを対象とするのか。調整の結果、基本は「五・七・五の有季定型」。しかし、多少の例外として非定型、季語なしや、すでに海外で人気がある種田山頭火や尾崎放哉のような自由律も認めようと。
これを好意的に解釈するならば、作品が書かれたそれぞれの言語での数え方で五・七・五のシラブルないし字数を持ち、季節感のある語句を含むものを基本として、破調や無季、自由律の一切を対象とするということになるのだろうか。
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それにしても、「多少の例外」とはいったいどういうことなのだろう。僕の知るかぎり、世界の俳句において、「五・七・五の有季定型」は、そのほかを「多少の例外」とみなしてよいほどには、けっして圧倒的な大多数ではない。
となると、ここで「俳句」と呼ばれているもの、すなわち、無形文化遺産として登録されようとしているものは、結局、日本語の俳句にすぎないということになるのだろうか。
もし、それを正当化するために世界の「HAIKU」を引き合いに出しているのだとしたら、そのこと自体が大きな欺瞞をはらんでいると言わざるをえない。
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そのうえ、もし「五・七・五の有季定型」の一切を対象とするというのであれば、たとえば、少なくない数の川柳がそこには含まれてしまうことになる。下手をすれば、作者が川柳として書いたものがそのあずかり知らぬところで「俳句」として無形文化遺産に該当するというようなことにさえなりかねない。
このような「俳句」の定義づけは、無形文化遺産としての登録を考えるにあたって、まったく不用意なものであるように思われる。
まさか、あくまでも「俳句」と呼ばれているもののうちで、とでもいうつもりだろうか。だとすれば、「俳句」と呼ばれているもののうちで、どんな形式が対象外だといいたいのだろう。「俳句」と呼ばれているもののうちで、何が俳句ではないといいたいのだろう。
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それにしても、「多少の例外」とはいったいどういうことなのだろう。僕の知るかぎり、世界の俳句において、「五・七・五の有季定型」は、そのほかを「多少の例外」とみなしてよいほどには、けっして圧倒的な大多数ではない。
となると、ここで「俳句」と呼ばれているもの、すなわち、無形文化遺産として登録されようとしているものは、結局、日本語の俳句にすぎないということになるのだろうか。
もし、それを正当化するために世界の「HAIKU」を引き合いに出しているのだとしたら、そのこと自体が大きな欺瞞をはらんでいると言わざるをえない。
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そのうえ、もし「五・七・五の有季定型」の一切を対象とするというのであれば、たとえば、少なくない数の川柳がそこには含まれてしまうことになる。下手をすれば、作者が川柳として書いたものがそのあずかり知らぬところで「俳句」として無形文化遺産に該当するというようなことにさえなりかねない。
このような「俳句」の定義づけは、無形文化遺産としての登録を考えるにあたって、まったく不用意なものであるように思われる。
まさか、あくまでも「俳句」と呼ばれているもののうちで、とでもいうつもりだろうか。だとすれば、「俳句」と呼ばれているもののうちで、どんな形式が対象外だといいたいのだろう。「俳句」と呼ばれているもののうちで、何が俳句ではないといいたいのだろう。
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しかし、形式については、「例外」が認められているだけまだましかもしれないのだ。「なぜ、俳句だけを無形文化遺産にしようとしているのですか」という記者からの問いかけに対する有馬氏の次の回答は、僕をじつに不安にさせるものだった。
日本では短歌と俳句は常にワンセットですからね。最初は悩みました。短歌や川柳も入れるべきかと。しかし、今回は「HAIKU」の最大の特徴である「自然詩であること」を重視しました。
記事を何度も読み返したが、「俳句」ないし「HAIKU」について、有馬氏は、それが「自然詩」であるということについては、一切の例外を認めていない。それどころか、「豊かな自然あってこその俳句です」という別の発言からは、この規定を断固として押し通そうとする有馬氏の姿勢が読みとれさえする。
有馬氏が同様の主張を繰り返している理由は明白だ。それは、こうした前提だけが、短歌や川柳を差し置いて俳句を無形文化遺産にする動きを正当化するものだからにほかならない(そして、とりわけ「自然詩」という語がここで持ち出される背景には、すでに「和食:日本人の伝統的な食文化」が「自然を尊重する日本人の心を表現したもの」として登録されていることがおそらく関わっている)。
有馬氏が同様の主張を繰り返している理由は明白だ。それは、こうした前提だけが、短歌や川柳を差し置いて俳句を無形文化遺産にする動きを正当化するものだからにほかならない(そして、とりわけ「自然詩」という語がここで持ち出される背景には、すでに「和食:日本人の伝統的な食文化」が「自然を尊重する日本人の心を表現したもの」として登録されていることがおそらく関わっている)。
僕も、有馬氏がひとりの俳人として自らの創作の信念としての「自然詩」を語っているというだけであれば、それについて特に異論をさしはさむつもりはない。
だが、ことは「俳句を無形文化遺産に」ということに関わっているのだ。それはすなわち、「俳句」ないし「HAIKU」に何らかの公的な定義づけをしてしまうことに関わっているということだ。
それが意図的なことかどうかにかかわらず、結果として「俳句」を「自然詩」として規定してしまうことになるだろうこうした動きに対して、僕は、僕自身の意志にしたがって、反対の意を示さざるをえない。
だが、ことは「俳句を無形文化遺産に」ということに関わっているのだ。それはすなわち、「俳句」ないし「HAIKU」に何らかの公的な定義づけをしてしまうことに関わっているということだ。
それが意図的なことかどうかにかかわらず、結果として「俳句」を「自然詩」として規定してしまうことになるだろうこうした動きに対して、僕は、僕自身の意志にしたがって、反対の意を示さざるをえない。
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そもそも、なぜひとびとは俳句になんらかの固定された定義を与えようとしてしまうのだろう。俳句とは何か、という問いに、そうまで簡単に答えようとしてしまうのだろう。しかも、なぜ何らかの公共性にもたれかかりながらそうしようとしてしまうのだろう。
俳句はもちろん決して有季定型に限定されるものではないし、「自然詩」にだって限定されないはずだ。ひとは、なぜ、多様性のあるものをマジョリティーとマイノリティーに分け、その上下関係あるいは中心と周縁の関係を捏造しようとしてしまうのだろう。
俳句の形式にかかわる有馬氏の発言は、たとえば「基本はヘテロ。しかし、多少の例外としてすでに社会的に認知されているLGBTも認めようと」とかいうのと同じくらい、見せかけの寛容さを取り繕った差別的な発言に思える。
俳句はもちろん決して有季定型に限定されるものではないし、「自然詩」にだって限定されないはずだ。ひとは、なぜ、多様性のあるものをマジョリティーとマイノリティーに分け、その上下関係あるいは中心と周縁の関係を捏造しようとしてしまうのだろう。
俳句の形式にかかわる有馬氏の発言は、たとえば「基本はヘテロ。しかし、多少の例外としてすでに社会的に認知されているLGBTも認めようと」とかいうのと同じくらい、見せかけの寛容さを取り繕った差別的な発言に思える。
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僕は、決して、俳句とは「俳句」と呼ばれてきたものの総体だ、と言いたいのではない。むしろ、俳句は、高柳重信がその多行形式での第一句集を『蕗子』(1950年)と名付けたのと同じような心持ちで、すなわち、「俳句」とは何かはっきりしないまま、何かを是非「俳句」と呼んでみたくて仕方がないという妙な執心によって、そのつどかろうじて「俳句」と呼ばれるのではなかったか。
近代に読み返された俳諧の発句から、ジョン・ケージの五七五拍子のピアノの小品にいたるまで、僕たちはそのつど、僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた。
俳句は、究極的には、過去の集積によってではなく、ただこの名を呼びたいという僕たちの意志によってのみそのつど俳句でありつづけ、俳句でありそこないつづけ、そしてまた、俳句でありつづけそこなうだろう。
「俳句」という名は、ただそのつど何かを曖昧に指し示そうとするばかりで、一般化された何らかの意味に到達することはついにないだろう。
近代に読み返された俳諧の発句から、ジョン・ケージの五七五拍子のピアノの小品にいたるまで、僕たちはそのつど、僕たち自身が「俳句」と呼びたいものを「俳句」と呼びつづけてきた。
俳句は、究極的には、過去の集積によってではなく、ただこの名を呼びたいという僕たちの意志によってのみそのつど俳句でありつづけ、俳句でありそこないつづけ、そしてまた、俳句でありつづけそこなうだろう。
「俳句」という名は、ただそのつど何かを曖昧に指し示そうとするばかりで、一般化された何らかの意味に到達することはついにないだろう。
「俳句」という名は、意味しない。それゆえにこそ、俳句はあやういが、同時に、限りない可能性をもちつづける。
僕にとっては、それこそが俳句の魅力なのだ。だから、僕は、その魅力を俳句からまるごと剝脱しようとする動きに対しては、そのつど、僕自身の意志によって、強く反対の意を示さざるをえない。
それでは無形文化遺産として到底認めることができないというのなら、無形文化遺産なんて、こちらから願い下げだ。
僕にとっては、それこそが俳句の魅力なのだ。だから、僕は、その魅力を俳句からまるごと剝脱しようとする動きに対しては、そのつど、僕自身の意志によって、強く反対の意を示さざるをえない。
それでは無形文化遺産として到底認めることができないというのなら、無形文化遺産なんて、こちらから願い下げだ。
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それにしても、こうした動きに対して、四ッ谷龍氏、堀田季何氏、橋本直氏、西原天気氏や島田牙城氏をはじめ、あきらかに何か不穏なものを感じとっているように見えるひとびとが、それにもかかわらずこの問題に関して言葉少なにつぶやくだけで済ませてしまっているような印象があるのはどうしたわけだろう〔*〕。あるいはそうした印象は単に僕の勝手な思い違いなのかもしれないが、僕にはそのことが有馬氏の発言にもまして不穏なことに感じられる。
[2017/5/16追記――この段落について、小津夜景氏のブログに書かれた感想で、四ッ谷龍氏がこの件で国際俳句交流協会(HIA)を退会していることについてご指摘をいただきました。この文脈で四ッ谷龍氏の名を挙げたことについては、撤回し、お詫びします。申し訳ありませんでした。]
この動きがすでに俳人たちからなる四つの協会だけでなく、三十の自治体の関係者にまで広がっていることを考えれば、もはや、すくなくともSNSでのちょっとしたつぶやきだけで変えていくことのできる流れではないことは明らかだ。
ましてや、押し流されていくつぶやきに対して少しばかり「いいね」と背中を押してみたところで、いったい何が変わるというのだろう。代弁者に期待と賛意を表明するだけで何かが変わるとあなたは信じることができるだろうか。
もしそうでないなら、ひとりひとりがもっと多くの言葉を費やしていくしかないはずだ。
●
〔*〕当該ツイートへのリンク(一部)は以下の通り。
四ツ谷龍
https://twitter.com/leplusvert/status/857935654532993025
https://twitter.com/leplusvert/status/857935804034818052
https://twitter.com/leplusvert/status/857935955415539712
https://twitter.com/leplusvert/status/857946480237203457
堀田季何
https://twitter.com/vienna_cat55/status/857940089170665472
https://twitter.com/vienna_cat55/status/857940858246541312
橋本直
https://twitter.com/musashinohaoto/status/857764304434712577
西原天気
https://twitter.com/10_key/status/857931469775282176
https://twitter.com/10_key/status/857943322538659841
https://twitter.com/10_key/status/857947306192064512
島田牙城
https://twitter.com/younohon/status/860726901614067712
[2017/5/16追記――この段落について、小津夜景氏のブログに書かれた感想で、四ッ谷龍氏がこの件で国際俳句交流協会(HIA)を退会していることについてご指摘をいただきました。この文脈で四ッ谷龍氏の名を挙げたことについては、撤回し、お詫びします。申し訳ありませんでした。]
この動きがすでに俳人たちからなる四つの協会だけでなく、三十の自治体の関係者にまで広がっていることを考えれば、もはや、すくなくともSNSでのちょっとしたつぶやきだけで変えていくことのできる流れではないことは明らかだ。
ましてや、押し流されていくつぶやきに対して少しばかり「いいね」と背中を押してみたところで、いったい何が変わるというのだろう。代弁者に期待と賛意を表明するだけで何かが変わるとあなたは信じることができるだろうか。
もしそうでないなら、ひとりひとりがもっと多くの言葉を費やしていくしかないはずだ。
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〔*〕当該ツイートへのリンク(一部)は以下の通り。
四ツ谷龍
https://twitter.com/leplusvert/status/857935654532993025
https://twitter.com/leplusvert/status/857935804034818052
https://twitter.com/leplusvert/status/857935955415539712
https://twitter.com/leplusvert/status/857946480237203457
堀田季何
https://twitter.com/vienna_cat55/status/857940089170665472
https://twitter.com/vienna_cat55/status/857940858246541312
橋本直
https://twitter.com/musashinohaoto/status/857764304434712577
西原天気
https://twitter.com/10_key/status/857931469775282176
https://twitter.com/10_key/status/857943322538659841
https://twitter.com/10_key/status/857947306192064512
島田牙城
https://twitter.com/younohon/status/860726901614067712
9 comments:
小津夜景さんの檄が来てますね。でも疑問なのは、もともとの問題に対する小津さんの意見がないこと。
これでは若者を叩く年長者のよくある構図そのままで、あまりにもカッコ悪いですね。
http://yakeiozu.blogspot.jp/2017/05/blog-post_14.html?m=1
一連の「日本すごい」「日本がいちばん」の風潮の一端でしょうかね。ことさらにそれを喧伝するのは、内心自信がないことの証拠のようでもあり、密かな差別意識の吐露のようでもあります。私はこうした動きには反対です。
小津夜景氏のブログも読みましたが、かなり気持ちのわるい文章です。自分はどう考える、自分はどうするという表明もなく、他人をちゃかしているだけじゃあかんよね。(別の話ながら、氏の俳句も一部例外はあるものの、私はあまり評価していない)
無名の通りすがりのものですが、福田さんの文章は悪くないと思います。きちんと意見を表明しています。
俳句をほそぼそと続け、「趣味は何ですか」と聞かれたら「俳句」と堂々と言っても怪訝な顔をされたあとに「素敵ですね」なんて、とってつけたように言われます。
文化遺産になったら、恥ずかしくて俳句が趣味とはいえなくなります。日本大好きのあっちの人と思われかねないと危惧したり。
「多少の例外として、・・・認めよう」という上から目線に、庶民は「ああまた威張る人が多くなるんだな」とがっかり。有馬さんの経歴を見たら納得しましたが。現代俳句協会が賛同したことにもがっかりです。
みんながどう思っているか、つぶやいたり意見を表明すればいいと思います。
なんだかわたしに向けて書いているわけでもなさそうなので無視でいいかなと思っていたのですが、メールで知らせてくれる方が結構いるので、レスしておくことにしました。
>らんぽうさま
>これでは若者を叩く年長者のよくある構図そのまま
なるほど…!
人を性別や年齢で認識する習慣がないので、わたしは福田さんが若者だということに全く気がつきませんでした。
とはいえ世間の目で見ても、彼は若くありません。彼の日常的立場から考えるに、マニフェスト(争議的文書を含めて)のフォーマットを知らないのは、むしろゆゆしきことです。
>で、あまりにもカッコ悪いですね。
と、匿名でカッコ良く言うわけですね。悪口を。
>大江進さま。
はじめまして小津夜景です。
>(別の話ながら、氏の俳句も一部例外はあるものの、私はあまり評価していない)
拙著をお読みくださいましてありがとうございます。たいへん嬉しく存じました。
別の話とわかっていながら最後に追い書きしたということは、どうしても書かずにはいられなかったのですよね?
でしたら、あまり、などと濁さずに、熱のこもった大鉈の文章を発表していただけますと小津はとても喜びます。お時間のあるときでかまいません。どうぞよろしくお願い申し上げます。
内容の話につづきます。
つづきです。お二人さまに
>でも疑問なのは、もともとの問題に対する小津さんの意見がないこと。(らんぽう氏)
>一連の「日本すごい」「日本がいちばん」の風潮の一端でしょうかね。ことさらにそれを喧伝するのは、内心自信がないことの証拠のようでもあり、密かな差別意識の吐露のようでもあります。私はこうした動きには反対です。小津夜景氏のブログも読みましたが、かなり気持ちのわるい文章です。自分はどう考える、自分はどうするという表明もなく、他人をちゃかしているだけじゃあかんよね。(大江進氏)
福田さんの文章、ぜんぜん読んでいないでしょう?
彼は、そういった、ネットにちょっとしたつぶやきを書いて何かを表明した気分になっているような人間ばかり目につく状況を「不穏」だと感じているのですよ。
殊に、大江さんの表明。福田さんが批判している一連のツイートと全く同型じゃないですか!
そもそもこんな馬鹿げた話に反対でない人間がいるなどわたしは想像もしなかったので、お二人の言葉に深く驚いています。さらに、わたしが福田さんによる今回の問題の定義づけに対して賛成反対の意見を述べない理由は拙文にちゃんと書きました。が、それもお読みでないようなので、新しいのを3つ書きますね(実は大量にあるのです、理由が)。
(1) 福田さんの文章を読んでも、ことの経緯がさっぱりわからないため。
あの文章には今回の事態の経緯・手続きへの言及がありません。つまり有馬氏が「難航した」と述べる俳句界の調整が、俳句そのものの定義をめぐるものか、それともユネスコ登録に際しての妥協の度合いか(※どんなものでも「登録」用の定義を再構築する際は、物事の大幅な単純化・標語化・保守化が不可避です)、はたまた別の力学に関係するものなのか全く不明なのです。たとえば、わたしはユネスコ登録自体を「絶対イヤ」と思うクチですが、話を最初から聞けばとうぜん歩み寄る可能性はあります。
(2) 福田さん自身の主張が不明瞭なため。
《「俳句」という名は、意味しない。それゆえにこそ、俳句はあやういが、同時に、限りない可能性をもちつづける。/僕にとっては、それこそが俳句の魅力なのだ。だから、僕は、その魅力を俳句からまるごと剝脱しようとする動きに対しては、そのつど、僕自身の意志によって、強く反対の意を示さざるをえない。 /それでは無形文化遺産として到底認めることができないというのなら、無形文化遺産なんて、こちらから願い下げだ。》
上の主張を現状の手続き論に翻訳すると「俳句の魅力がきちんと定義される(例えば「自己同一化をすり抜ける詩的容器」とか?)ならば無形文化遺産に登録してもよい」ということになりますが、これを福田さんの本意だと考えるには文体が先行し過ぎており、早急に決めつけるのは彼の為にためらわれます。福田さんも経緯を知らなそうな雰囲気である以上、定義うんぬん以前に登録自体を茶番だと考え出す(つまり今回の彼の考察がまるまる反故にされる)可能性もありますし。
(3) もしかしたら、あの文章にはまだつづきがあるかもしれないため。福田さんは、この種の文章の場合、しばしば追い書きするタイプの方です。
こんな感じで。
小津夜景さんから、私が福田さんの文章も小津さんの文章も「ぜんぜん読んでない」と決めつけられてしまいました。そういうところが私はとてもいやだなと思うのです。さようなら。
小津様
落ち着いて、文章をきちんと読んでくださいね。
>わたしは福田さんが若者だということに全く気がつきませんでした
私は「構図」を言っているのであって、実年齢がどうとか申しておりませんよ。
>匿名でカッコ良く言うわけですね。悪口を。
これまたカッコ悪い! 典型的な論点ずらしですね。小津さんは本名ですか? そんなことは内容に関係ないですよね。
小津夜景=筆名
らんぽう=匿名
小津さん
これはひどい! カッコ悪いに加えて、あまりにも無責任です。
>(1) 福田さんの文章を読んでも、ことの経緯がさっぱりわからないため。
>(2) 福田さん自身の主張が不明瞭なため。
経緯も主張もわからないのに、「さっさと四協会に公開質問状出しちゃいなよ」「敗北主義的ロマンチシズム」「去勢の匂い」だのと煽っていたわけですか。
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