「俳句とは何か?」という問いを、もし理数学的に考察してみたらどうなるか?
「例句の一句も出てこない俳句論(生駒大祐)」のための長い帯文として
藤田哲史
俳句についての文章で、「俳句とは何か?」とか、これに似たような問いが登場することは少なくない。
こういうときの答えとして用意されるのは、おおよそ自然に対する畏敬とか、アニミズムとか、人生とかといったその作家の文学的価値観らしきものだ。
ここでいう「俳句とは何か?」という問いとは、厳密に表現すれば「その作家が俳句で表現されるべきと思うものは何か」などという問いであって、結局はそれぞれの作家の俳句観などを引き出すためのきっかけにすぎない。世の人々はそれを承知のうえで「俳句とは何か」という表現を便宜的に使っているわけだけれども、この、あまりに当たり前のように答えの顔をしている答えは、実のところ、正確とはいえない。
こと理数学的に言えば、「俳句とは何か?」という問いに対する「俳句とは○○である」という答えは、どのような例外も許さない普遍的な言い表し方がされなければならない。「俳句とは何か?」という問いへのブンガクテキな返答と、理数学的な解答はまったくの別モノなのである。
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では、「俳句とは何か?」という問いに理数学的に真正直に(むしろひねくれているのだろーか?)答えるとどうなってしまうのか?
この一見ナンセンスのようで、しかし興味深いテーマについての俳句評論が、詩歌誌SNSサイトpoecriに登場した。
生駒大祐の「例句が一句も出てこない俳句論」である。
≫http://poecri.net/ItemDetails.php?item_id=8
※ただしトップページ(http://poecri.net/)から登録ログインが必要
この俳句論では、あらかじめ3つの条件でもって俳句を定義したうえで、これらの定義から俳句表現についての議論が展開される構成となっている。
実のところ、現在この文章は「Ver.0.0.1」であり、今後時間をかけてバージョンアップが図られていくらしい(つまり未完成ということ)ので、私自身もこの評論の全貌を完全に理解しているとはいえない。
ともあれ、この評論におけるアプローチはちょっと類を見ないと私は思う。
一つには、俳句に定義という概念を導入していること。
むろん、単なる飾り文句、レトリックとしての「定義」ならばこれまでも何人もの評論家が書いてきただろうけれど、理数学における語義通りの定義からスタートして、主観を挟まずに議論を行うアプローチは、これまでになかったものでないか。
たとえば、ユークリッド幾何学において「線とは何か」という問いには「線とは幅のない長さである」という定義が用意されている。定義とは、アプリオリに与えられているもので、これを共通の理解として物事に対する議論が出発する。(だから定義というものは、たいてい議論をはさむ余地のないような直観的に明らかなものになる)
この定義をもとに、いくつかの物事(「命題」という)の正誤(「真」「偽」という)が証明でき、完全に正しいと証明されたものが晴れて「定理」となるわけだ(たとえば中学数学に登場する三平方の定理などがそれ)。
つまり、誰にも明らかな共通の認識から議論を展開していくというのが、理数学における証明の“作法”なのだ。
普遍的な真理をめざす理数学的な議論は、その展開のなかで個人的な主観・主義や時代性が入る余地がなく、それはそれで一つの美しい言語体系を持っている。
以上のような議論を「俳句でもできんじゃね?」という発想で書かれているのがこの「例句が一句も出てこない俳句論」なのだ。
少しネタばらしをすると、この評論における俳句の定義には、ほとんどの俳句入門書に登場する「季語」や「切れ」は一切含まれていない。
よく知られているように季語も切れも俳句の特徴の一つではあるけれど、それらの特徴はあくまで特徴であって、俳句を定義できる条件ではない、というのだ(!)。
なぜなら、「俳句には必ず季語と切れがある」という主張には、いくつかの例外を挙げることができるから。理数学的には例外のある(「反例」という)主張はマチガイなので、俳句の定義というものには「季語」も「切れ」も含めることができないというわけ。
こんな思考でもって俳句表現を語っていこうとしているのだけれど、果たしてうまくいく(バージョンアップされていくのか)のかどうか。
いち理数系俳句作家である私などは、こっそりしっかり注目しているところなのであるけれど。
2017-07-30
「俳句とは何か?」という問いを、もし理数学的に考察してみたらどうなるか? 「例句の一句も出てこない俳句論(生駒大祐)」のための長い帯文として 藤田哲史
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