2017-08-06

進みつつ巡りつつ  2017年5月21日(日)関西現代俳句協会イベント『句集を読み合う』レポート 黒岩徳将

進みつつ巡りつつ
2017年5月21日(日)関西現代俳句協会イベント『句集を読み合う』レポート

黒岩徳将


昨年出版された『然るべく 岡村知昭』を久留島元と中村安伸が、『虎の夜食 中村安伸』を仲田陽子と岡村知昭が論じ、会場から質疑応答を行った。

久留島は、『然るべく』をまず「おもしろい、だけど言葉にしづらい」と評する。以下の2点がポイントだと感じた。

1.ためらう

ジャーナリスティックなテーマについて断言をためらう点「逡巡」とまでは言い切れず、「捩っている・外している」と言葉の意味をずらしていることを指摘した。

チューリップ治安維持法よりピンク 岡村
春光の国の殺菌はかどらぬ 同

「国」を出してきても「批判」とまではいかず、「春光」のプラスイメージが相俟って居ることをずらしていると久留島は言っている。意味が尻切れとんぼでどこかに行ってしまい、結局どこに向かって言っているのか定かでない。

短夜のならのほとけのけものめく 同
天竺になりたいくせに青嵐 同

変身願望がうかがえ、違う方へ違う方へずれていく

2.定期的に脱ぐ

あめんぼうまでいなくなりぜんぶ脱ぐ
脱いで脱いで心太よりやわらかで


本当は色んなものを脱ぎ捨てたい≒言いたいことを言いたいのに、ずらしていく(完全にずれているのではなく、角度を変えている)

ヒトラーの忌に頼まれて然るべく 岡村知昭
何も降らなくて卒業式中止 同

ヒトラーの句について、中村は「『ヒトラーの忌』は、虚仮威しとして置かれていて、この句の中心は実は『頼まれて然るべく』。何を意図しているのかが読み取れない。」久留島は、岡村自身でもどう面白がっているのか どう面白くなっていくのかわかっていない、そして『きさらぎの雨なり退路なかりけり』のように「退路が無い」と述べた。これは、後半で中村が「一句において季語とフレーズが『互いに影響をしない』」と評していたのと強い関連性がある。卒業式の句は、一見モラトリアムではなく、雨が降ったら中止になるみたいな別の力によって力が及ばないところで中止になることを望んでいると中村は指摘した。『然るべく』は、わからないことが多すぎて、『わからない』は決してマイナス評価の言葉ではないのである。

レジュメに記載している表記だと、中村は『然るべく』の特徴として「ジャーナリスティックな用語」「否定語法の頻出」「無生物との一体化 傷ついた塔」「モチーフへの執着と変奏」「取り合わせ」の五つを挙げて、「読むたびに印象が変わる句集」とした。

雨音や斜塔を妻といたしたく 同

久留島もこの句を挙げていたが、久留島が「いたしたく」の「ずらし方」を面白がっているのに対し、中村は斜塔を妻とするという一体化への屈折性に、より着目していた。この句は後の質疑応答で島田牙城が「この人はまっすぐなものが嫌いやねんね」と述べたように、ハイライトの一句であった。



実はこの二冊の句集は、東京の現代俳句協会の勉強会でも取り上げられた(その時は小津夜景『フラワーズ・カンフー』と田島健一『ただならぬぽ』も合わせて、4冊の句集を読書リレーとして読み合う会であった)。その時に『然るべく』の発表担当であった橋本直は、読者は句集というものを読むときに一般的に「選=一句として作品が立っているかを判別」をして読んでしまうものである、だが岡村の句集は選をするだけでは捕まえられないものがある、と述べた。関西の勉強会でも、中村は橋本の発言を受けて『然るべく』を評しているのが重要な点である。

卒業やバカはサリンで皆殺し 中村安伸
聖無職うどんのやうに時を啜る 同

仲田は、サリンの句からは地下鉄サリン事件があったときの当時の関西の閉塞感を思い出し、うどんの句からは仲田自身が職を辞した経験をふまえ、劣等感・屈折感・倦怠感を覚えたという。岡村はサリンの句を「①全員が殺したいという願望、②悪意は外から来ている」という2つが書き留められているとし、開眼の一句であることを強調した。

また、集中では「BL俳句」として読もうと思えばいくらでも読めることを仲田は面白く捉えている。たとえば、猫を「同性愛の女性側」の隠語として読めば、突っ込みが入りそうな句が多くある、など。岡村も句集冒頭にフィクションであることをわざわざ説明していることも関係しているだろう。

仲田・岡村の『虎の夜食』20句選のうち、共選が4句あった。

はたらくのこはくて泣いた夏帽子 中村安伸
馬は夏野を十五ページも走つたか 同
水は水に欲情したる涼しさよ 同
実験に妻が必要つばくらめ 同

馬の句以外は、陰影と言葉が強い。一句目は、現代社会の労働の無常観と夏帽子=少年時代のメタファーの対比と捉えることもできるが、それだけではないだろう。多くの句に見られる解釈→鑑賞という正当的な句を読むステップになかなか向かわせてくれない。仲田は実験の句を「自分の中でへらへらと笑える」と、読み返しながら楽しそうに解釈を行ったり来たりさせていた。岡村は、『虎の夜食』の外部から与えられた条件により不遇になる「私」に注目した。「黄落や父を刺さずに二十歳過ぐ」「姉の香りに鋏を入れる夏衣」など、父と姉の句には攻撃性が見られるのに対し、「秋の水妻よりこぼれ草を濡らす」など、妻には憎悪性が見えないことという指摘も、肉親と家族の違いを浮き彫りにする。家族の物語性が強く、それに伴い意味性を帯びすぎてしまう傾向もあるのではと思うが、物語性こそが『虎の夜食』の持ち味の一つであろう。

見逃せなかったのは、『虎の夜食』の短編小説と句を行ったり来たりする句集の構成についての質疑があったときに、「奥の細道」が引き合いに出されたことである。また、筆者は『虎の夜食』における切れの少なさについて評者にどう思うか質問をしたが、仲田は「そもそも物語と句が交互にならぶことで、句と外部の世界との切れは果たされている」と返答したことに大変納得がいった。

質疑応答・感想ラストは堀本吟氏。岡村・中村の言語感覚が対照的であると指摘し、(たとえば、モチーフ「塔」については、岡村は「斜塔を妻」で「塔」の即物性を読んでいる一方、中村の「塔(あららぎ)は快楽(けらく)の声を漏らすなり」と性的対象としての比喩として書いている。)一句の作り方に導入する生理的な感覚の違いを会場に投げかけた。最後に「ジャンルオーバー、形式のオーバークロスがますます一般的になってくる」「形式を読んでいるのか自分の個性的な世界を読んでいるのかがわからなくなってくる」「自分に納得しながら俳句を作ってほしい」「俳句形式がこれらの句集によって開かれるというよりかは過去に戻ってある種の俳句性を獲得するのでは」という趣旨のことを述べた。




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