西遠牛乳
せいえん ぎゅうにゅう
2. 花早き女坂
牟礼 鯨
Sは川の近くに住むのが好きだった。
Sが北沢五丁目に借りていた築四十年の部屋は二十歩ほど歩けば森厳寺川の暗渠が現れる、小さなハケの上に建っていた。
他の町を歩いていたとき
「あ、ここは川があったね」とSは言った。暗渠もない普通の住宅地だったのに。
「なぜ気づいた?」と私が訊くと
「川風が吹いたから」とSは応えた。
Sは国立印刷局と癒着している大学の契約社員だった。
二〇一七年の初春には、九月にSの契約期間が切れたら多摩川の沿岸地方で同棲でもしようかという話になった。
その時の私は薄給の正社員で契約社員のSより手取りは低かった。
そのことを知ったSに
「はやく転職して」と詰められた。
当時の私は自分の不遇の原因を自分の無能さではなく社会の構造におしつける怠惰の典型に陥っており「Sが転職先を紹介してくれればいいのに」くらいに思ってのらりくらりとしていた。
勤務先の上司に「辞めたいんならいつでも辞めていいんだぞ」と詰められても「ここで働きたいんです、働かせてください」と嘘をついていた。本当は今すぐやめたかった。
その年の四月三十日、神宮前の地下にあるクロコダイルで俊読があった。
俊読をざっと説明すると谷川俊太郎の詩を谷川俊太郎本人の前で登壇者が代わる代わる朗読するイベント、だろうか。
そこで私はSと待ち合わせをしたが、Sは新幹線を一本乗り遅れたため開始時間に来なかった。
イベントがはじまって一時間くらいたったとき、もりさんと吉田和史さんの朗読が終わったあたり、入口で出番待ちをしていた石原ユキオさんの後ろからSがクロコダイルの青い光に照らされて現れた。
「内定をもらいました」とSは言った。
Sは就職活動で面接試験を受けに静岡県浜松市へ行っていた。
「おめでとう。いつから浜松で働き始めるの?」
「七月から。鯨はどうする? 鯨のことを話したら社長が『面接しますよ』だって」
Sはあと二ヶ月で浜松へ移住する。舞台では登壇者が言葉以前の言葉を吐いていた。川風が頬を撫でた。Sについていけば、今までのとるにたらない人生が少し変わるかもしれない、と私は思った。
「浜松へついていくよ」
行春の尾にびつしりと鱗かな 鯨
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