2017-11-26

【週俳10月の俳句を読む】小さな時限爆弾 仲田陽子

【週俳10月の俳句を読む】
小さな時限爆弾

仲田陽子


『柿木村』  牟礼 鯨

タイトルの『柿木村』を検索すると島根県に実在する村だった。名前からしてのどか。作品から自然豊かな過疎の村だろうということが伝わってくる。

くましでの実や雲を塗る建築家  牟礼 鯨

村に似つかわしくない現代的な窓の大きな建物に雲が映っているのだろう。雲を塗るという「塗る」が楽しい。くましでの実のずんぐりとした形を思い浮かべると、退屈な時間の流れにのってきた雲が窓を塗りつぶしてゆくようだ。

稲掛や婚活パーティーの轍
  牟礼 鯨

会社員をしていた頃、同僚に農業組合主催の婚活パーティーに「一緒に参加してみない?」と誘われたことがあった。
農業体験をして気に入った人と会話してカップル成立したら、相手の連絡先と新鮮な野菜とお米がおみやげというものだった。
句を読んで、連絡先をゲットしたと自慢していた同僚を思い出し、轍の景色へ繋がった。私は稲掛をすることも轍を見ることもなかったけれど。


『拡大鏡』  山岸由佳

心象を物に語らせ、詩的な俳句を表現している。柔らかい言葉の使い方が魅力的。

カンナから土砂降りの橋みえてゐる  山岸由佳

カンナの花は赤や黄の原色で、背が高く目立つ花だけど可憐さとはほど遠い。このカンナはどこに咲いているのだろうか。川から近いところで土砂降りの中を突っ立っているのだろうか、それとも雨に濡れない別の場所か。どこから見えているのかによって句の印象は違う。ふと、土砂降りの橋を渡ってくる男を待っている女の姿が浮かんできた。

指で書く文字木犀の香るなか  山岸由佳

指で文字を書く時って、砂に書くとき、結露した窓に書くとき、空に向かって書き順を教えてあげるとき、何にせよ悪口や呪いの言葉は書かないはずだ。
木犀の甘ったるい香りに包まれながら書くのだからもっとスィートなシュチュエーションでなくてはならない。書いた文字を当てるゲームだったり、「好き」な気持ちを伝えたり、人の背中に書く文字のなんとくすぐったいことか。


『月夜』

月の句が10句。『虚』と『実』十通りのお月様で月光浴をしたような気分。

白き尾を抱えて眠る小望月  上森敦代

白き尾を抱えているのは猫だろうか、いや、この白き尾は作者に生えている尾なのだろう。日常では忘れていられるものを満ちきらないとはいえ十分に明かるい小望月が尾の存在を照らしだす。尾を抱え猫のように丸くなって眠るしかないのだ。この句に共感した人にも尾が生えているだろう。

襖絵の虎が水飲む十三夜  上森敦代

とんちの一休さんでお馴染みの“屏風の虎”のように暴れたりせず、この虎は月の輝く夜に襖絵をこっそり脱け出して水を飲みに行く。虎が水を飲むたびに水面が揺れる。池の水面には眩い十三夜が揺らぐ。こんな妄想を掻き立ててくれる虎の襖絵は御所か二条城か洛中の襖絵であってほしい。


『百分の一』  藤井なお子

季語を微妙にずらして詠むことがあると思う。微妙の意味も分量も人それぞれ違うと思うが、百分の一という言葉の1%に気づく感覚は俳人にとってとても大切だ。

鴨川の澄んで何となく平凡
  藤井なおこ

鴨川の流れを見つめながら、自分の平凡さを見つめている。川の水が澄もうが澄もまいが、鴨川の川岸にはカップルが等間隔に座る。
白河法皇が天下三不如意「賀茂河(鴨川)の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話は、裏を返せばそれ以外のものは思い通りにならない事はないという逆接。
それと同じで、自分の非凡さへの賛辞とも取れなくもない。

鬱憤のいつの間にやら木の実降る  藤井なおこ

日頃の鬱憤は花が咲いて実になって、いよいよ降りだしてしまった。作者はもう何年もずっと心の中に鬱憤という木の実を降らし続けてている。この木の実は小さな時限爆弾かもしれないので、決して拾ったりしてはいけない。そっとしておきましょう。



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