2017落選展を読む
1「安里琉太 式日」
上田信治
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摘草やいづれも濡れて陸の貝
草を摘むために、身をかがめると、いくつもかたつむりがいて、どのかたつむりも、濡れている。伸ばした手やくるぶしのあたりに、かたつむりが触りそうで、とてもきもちがわるい。「陸の貝」とわざわざ言うのは、それがそこにいることの違和感のあらわれだろう。
この皮膚感覚にうったえる巻頭の一句は、じつは例外といってよく、作者は「式日」50句で、歳時記的モチーフによりつつ、その実在性をどこまでもうすくした、淡彩の絵巻を描こうとしている。
春筍のにはかに影を長じたる
まどろみの窓にカンナの濡れてをり
春筍に(日が差して)長い影がうまれるのは尋常のことだけれど、「にはかに」「長じたる」と書いて、認識の混乱を生じさせる。カンナについて書かれていることは、本人まどろんでいるのと窓のむこうのことなので、ほんとうかどうか分からない。
作者は、対象である「それ」を見えづらくすることで、「景物の抽象化」を試みている。これは、ちょっと流行の方法かもしれない。
ぼうたんにありやなしやの日の掛かる
椎茸に仏師の夢のなんやかや
田中裕明や岸本尚毅が、思いっきり韜晦しているときの感じを狙っているのだと思うけれど、手妻の再演として成功しているかどうか。
抽象化を急ぎすぎなのか、内容的にとっちらかったような句も見られ、50句全体を見ると、傷が多いといわざるをえないだろう。
ひとり寝てしばらく海のきりぎりす
海浜にきりぎりすがいることは、よくあるそうですね。海の近くの波音が聞こえるような家で、ああ、きりぎりすが鳴いている、あれは海のきりぎりすだ……と思いながら、眠ってしまう。語のつながりに確定しない「あそび」があって、読み解きに手間がかかるけれど、音と空間に奥行きがあって、成功していると思う。
50句中この一句というなら、あらためて〈摘草やいづれも濡れて陸の貝〉を推したい。それは「海の貝」の対照の位置にある「陸の貝」で、神経過敏な摘草の人の幻想なのではないか。たとえば若冲の「貝甲図」の草むら版のような、と妄想を楽しんだ。「陸貝」ということばは、カタツムリとナメクジを指すのだそうで、その「いづれも」だとしたら、ぜんぜん面白くないのだけれど。
>> 2017角川俳句賞「落選展」
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2017-11-19
2017落選展を読む 1 「安里琉太 式日」 上田信治
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