2017-11-19

【週俳10月の俳句を読む】嘘八百についての考察 瀬戸正洋

【週俳10月の俳句を読む】
嘘八百についての考察

瀬戸正洋


嘘ばかりついていると何が本当のことで何が嘘だったのかわからなくなってくる。孤独と恐怖に襲われたりするのは、まだまだ未熟なのである。嘘の中にこそ真実があり、嘘を極めることの中にこそ、生きていくための真実が隠されている。

くましでの実や雲を塗る建築家  牟礼 鯨

建築家というと職人よりも設計や工事管理者というイメージがある。くましでの実について考えていたら、建築家は何故か雲を塗りたくなったのである。建築家は、庭にくましでを植えたくなったのである。くましでの実の向こうには青空と太陽のひかり。建築家は黙々と絵の具駆使して雲を描いていく。

青空の青が剝がれる烏瓜  牟礼 鯨

烏瓜に真っ赤な実が生るのは青空のせいなのである。真っ青な青空が剥がれたから烏瓜の実が真っ赤になったのである。これは青空のやさしさなのである。その青空のやさしさを感じた烏瓜のやさしさでもある。夕日は茜色を剥がすのである。激しさや厳しさよりもやさしさが一番なのだと思う。

虫の音は矯正器具を舐めもどす  牟礼 鯨

舐めもどすとあるので、この矯正器具はマウスピースなのだと思う。矯正器具を使うことは不快なのである。人生も不快なのである。虫の音は快いものと不快なものとの両方がある。ということは、矯正器具も人生も不快なものばかりではないのかも知れない。

三日月は塞ぎとどむる響きかな  牟礼 鯨

「塞ぎとどむる」とは、憂鬱な状態を止めにするという意味である。三日月という言葉を発すると、余韻、残響、または、耳に受ける音や声の感じから憂鬱などが消し飛んでしまうのである。そして、三日月のことばが聞こえてくるのである。つまり、三日月が好きで好きでしょうがないのだと思う。

天の川乳酸菌を手懐けて  牟礼 鯨

乳酸菌とは手懐けなくてはならないものなのである。乳酸菌は意のままに操らなければならないものなのである。摂取量は多過ぎてもいけない、少な過ぎてもいけない。たとえて言うならば愛するひととの接し方と同じなのである。そうすることが相手を不快にすることを承知の上で、誰もが愛するひとを手懐けようとして後悔をするのである。地上では、乳酸菌も愛するひともこんがらがり。天空ではしずかに天の川が流れている。

落鮎の瞳をほどけゆく星座  牟礼 鯨

星座がほどけていくということは星座が星座でなくなるということなのである。つまり、ひとつの星になるということなのである。産卵のために海へと下る鮎の瞳が星座をほどいていくのである。考えてみると、世の中のすべてのものがほどけてしまった方がいいのかも知れない。もちろん、私自身もほどけていきたいと思う。

星香る石見国の稲穂かな  牟礼 鯨

島根県西部のあたりを石見国という。岩見といえば銀山が有名だが、当然、稲作も盛んなのだろう。田圃一面が黄金色ともなれば稲穂の香も立ちあがる。その稲穂の香を星の香であると思い、静かに岩見国に佇んでいるのである。

谷深し夜の名残りの曼珠沙華  牟礼 鯨

曼珠沙華に夜の余韻が残っている。曼珠沙華を眺めていて夜の名残を感ずることは難しい。何故それができたのかと言えば「谷深し」だからなのである。「谷深し」だから夜の名残を感じたのである。曼珠沙華に夜の名残がある。この言い方は悪くないと思う。そして、私たちは夜の名残の曼珠沙華を懸命に思い浮かべるのである。 

稲掛や婚活パーティーの轍  牟礼 鯨

刈り取った稲の穂を下に向けて束にして干すための柵を稲掛という。轍とは先例、それも悪い先例のことである。稲掛と婚活パーテイーの轍とはどうかかわっていくのか。嘘八百を並べてみても太刀打ちのできない作品である。

例えば、婚活パーティーでも、日々のくらしのなかでも嘘をつかなくてはならないのである。嘘をつくことは決して罪悪ではない。嘘をつかなくては生きていけないから嘘をつくのである。

秋声這ふ落人谷の石積を  牟礼 鯨

秋声とは、物音がさやかに聞こえることである。風やせせらぎなど自然の音、人のたてる物音も秋の声だという。また、心の中に響いて来る秋の気配も秋の声である。それが這うのである。それも落人がひっそりと住む谷の石積みのうえを這うのである。こころもからだも全てを研ぎ澄まさなければ、このような光景は現れてこないと思う。

野分あと歩行者天国にこども  山岸由佳

郊外、あるいは地方都市での歩行者天国であろう。中高年とこども、手作りの催し物、笑い声が聞こえる。カラーの三角コーンが置かれ、誘導棒を持っているのは駐在さんと町内会の役員。野分が去った後の解放感も感じられる。

カンナから土砂降りの橋みえてゐる  山岸由佳

窓から土砂降りの雨を眺めている。自宅にいるときの雨は楽しいものだ。土砂降りの雨の方がこころが踊る。ふと、庭のカンナに目を向ける。晴れた日のカンナよりも雨の日のカンナの方が美しく感じるのは何故なのだろう。その先に目をやると橋が見える。土砂降りの橋が見える。その土砂降りの橋も美しいと思う。

カンナも橋も美しく思えるということは、見ている私が美しいからだということに気付く。こんなに汚れている私のこころを土砂降りの雨が流してくれることに感謝する。

小鳥来るまひるを眠らないやうに  山岸由佳

まひるは誰もが起きているが、眠らないやうにと断っている。まひるとは正午近くのことである。何故、ひとは、まひるに眠らないのかはよくわからないが、作者は、小鳥が来るからだと言っている。これは、本当のことなのか、それとも冗談なのか、すこし、考えなくてはいけないと思う。

蟋蟀のこゑ十字路を嗚呼と風  山岸由佳

古い街並みを歩いている。風を感じたらそこは交差点だった。つまり「嗚呼」とは、作者の感情でもあるし、風の囁きでもあるのだ。ふと立ち止まったら、そこかしこに蟋蟀が鳴いている。

花野から戻り拡大鏡に瞳  山岸由佳

何かを拡大しようとする意志はあると思う。花野から戻ってきたからといって、摘んで来た草花を拡大したいと思っているのではない。もしかしたら、何も摘んでこなかったのかも知れない。それらのことは、全て切っ掛けなのである。作者は自分自身を知りたいと思い拡大鏡を覗く。

指で書く文字木犀の香るなか  山岸由佳

指で文字を書くときは文字を教えようとする場合が多い。それも、難しい文字ではなく、うっかり忘れてしまった簡単な文字のような気がする。身近なひとに尋ねられてのひらに書いたのだ。気が付くと木犀の香り、ふたりで庭を歩いている途中だったのかも知れない。

残る蚊と雪の図鑑へ日のあたる  山岸由佳

雪の図鑑を開く、蚊の声が聞こえる。秋の蚊もひとも日あたりを求めている。休日の晴れた日の午前中あたりの、図書館、あるいは、珈琲店なのかも知れない。私が二十歳代の頃は珈琲店のことを喫茶店といった。喫茶店の良し悪しは、座り心地のよい椅子、清潔なトイレ、そして、本を読むための明るい照明で決まる。

その頃、どこへも行く当てのない私は、朝、起きると街へ出掛け、喫茶店に入る。二時間粘って、四軒はしごをすると夕方になる。そんな生活をしていた。くだらない青春であった。ただ、朝起きて、どこへも行く当てのない暮らしは辛かった。それが、就職後、一度も会社を辞めなかった理由なのかも知れない。

百坪のゑのころ草の売られをり  山岸由佳

百坪の土地が売られたことをこのように表現した。空地ではゑのころ草をよく見かける。作者は洒落た言い方をしたものだと思う。つまり、作者の生き方が洒落ているのだと思う。

電柱の影踏み或る日の秋暑し  山岸由佳

電柱が整然と影踏みあそびをしているような気になるが、踏んだのは作者であり、それも、思わず踏んでしまったということなのだろう。私自身、電柱の影を踏んだ記憶などないのである。作者も電柱の影を踏んだ時、はっとしたに違いない。そして、そのときに暑さを感じたのである。空には秋の太陽と電信柱。

あたらしい記憶きつと鶫だらう  山岸由佳

右へ行くか左へ行くかを瞬時に判断する時は、記憶が教えてくれるのだ。不要な記憶など記憶が判断し消去する。当然、意識、無意識は関係なく、ふるい、あたらしいにも関係ない。そう思って、この作品をながめてみると、こころもからだも緩んでくる。鶫の地鳴きが聞こえる。

月の出のフォーク逆さに使いおり  上森敦代

子どもの頃、フォークの背にライスを乗せて食べるおとなを見て驚いた。最近は、あまり見かけなくなったが器用なものだと思った。普通に使っていたフォークを月が出ると逆さに使い出す。数十人の団体が一糸乱れることなくいっせいにフォークを逆さに使ったら面白いと思った。

宵待の壺の中から波の音  上森敦代

日が暮れるのを待っていたら壺のなかから波の音が聞こえてきた。何故、日の暮れるのを待っていたのか。何故、壺のなかから波の音が聞こえてきたのか。おそらく、波打ち際で海を眺めていたのだろう。それほど深刻ではないが何か考え事をしていたのだろうと思う。

白き尾を抱えて眠る小望月  上森敦代

小望月とは十三夜のあと十五夜の前の月のことをいう。白い尾を抱えて眠るのはひとなのである。小望月だからひとに白い尾が生えてきたのである。ひとは白い尾をひたすら抱えて眠ればいいのである。

コンソメの匂いの残る良夜かな  上森敦代

良夜とは、月の明るく美しい夜。特に、中秋の名月の夜のことをいう。子どもの頃、縁側には硝子戸などなく机のうえに、芒、芋、団子などを飾った。その団子を先に釘を付けた竹竿で盗みに行くのである。盗むといってもみんな顔見知りなので子どもの数は増えていく。現在は、そんなこともなく、月にお供えをする家庭も少ない。コンソメの匂いの残るとは何とも都会的な風景なのだと思う。

月の船父が手招きしておりぬ  上森敦代

大空を航海していくのは月の船なのである。父は月の船から手招きしているような気もするが、そうすると父は亡くなっていることになってしまう。月の船という大景があり、地上の、自宅の前で、父が手招きしているとした方が、常識的で幸福な光景なのである。いちばん大切なものは幸福であることなのである。幸福になるためには嘘をつくことも許されるのである。

十六夜を巡れば骨の軋みけり  上森敦代

新月から数えて十六日目の夜に何かがあったのである。その何かとはあまりよくないことなのかも知れない。ひとのちからでは如何ともしがたく、何かしたくても気休め程度のことしかできない。骨が軋むことぐらいのことは日常茶飯事だと思った方がいい。

錠剤のひとつ失せたる居待月  上森敦代

錠剤を食べているような生活をしていれば、ひとつぐらい食べなくても大差はないのである。そんなことよりも、スコッチウイスキーのオンザロックでも舐めながら月の出を待つ方がどれだけ洒落ているだろう。とあるBARのカウンターでバーボンウイスキーのオンザロックでも舐めながら彼氏を待っている方がどれだけ洒落ていることだろう。

ちぎれそうな月が男の上にあり  上森敦代

月をちぎろうとしているのは作者なのである。ちぎれそうな月の下には男がいる。その男は既に作者にちぎられてしまっている。その程度で済んだのだから男は感謝しなければならない。当然、ちぎれそうな月にも感謝しなくてはならない。
 
城山に残る山彦昼の月  上森敦代

城山に残っているのは山彦と昼の月なのである。山彦とは、山の神・精霊・妖怪のことなのである。つまり、反響しているのだと思っているのは間違いで、山の神・精霊・妖怪自身の声なのである。当然、昼の月も神なのであるから、神たちが城山に残って何をしたとしても何の問題もないのである。

襖絵の虎が水飲む十三夜  上森敦代

虎はがまんしなくてはならない。あと二日がまんしなくてはならない。いくら、のどがかわいていても、あと二日がまんしなくてはならない。襖は閉めておけばいいのである。やさしいひとたちは襖を開けてしまったのである。その好意に応えるために虎はがまんしなくてはならない。何故ならば、虎は襖絵の虎なのだから。

鴨川の澄んで何となく平凡  藤井なお子

人生とは「何となく平凡」であることが最良なのかも知れない。「何となく平凡」と感じて旅に出る。「何となく平凡」を噛みしめて酒に酔う。鴨川が澄もうと濁ろうと「何となく平凡」なのである。もちろん、鴨川は澄んだ方がいいに決まっているが。

ありたけの静寂(しじま)よ京のねこじやらし  藤井なお子

周囲に音のするものがなく寂しいという感じがする。ねこじゃらしはどこでも同じだろうが、京のねこじゃらしだけは特別なのだろう。特別だからこそ「ありたけの静寂」ということになったんだろうと思う。

蓑虫は近江か京か夜の会議  藤井なお子

惚けたことを書く。支店会議があり、全国から支店長が集まる。京都、滋賀支店長が何故か蓑虫のような感じがした、そんな風貌であった。作者は、その会議に飽きているのである。その会議がつまらなかったのである。だから、あたりを見回し、そんなことを考えながら暇を潰しているのである。

十分にあなたらしくて唐辛子  藤井なお子

ご婦人から「十分にあなたらしくて」と言われたら悪い気はしない。あまり話さず照れ笑いを浮べているくらいがちょうどいいのかも知れない。調子に乗ってぺらぺら話せばボロが出る。唐辛子のからさが脳髄に沁み込むことになる。

百分の一ほどきのふ菊膾  藤井なお子

食用菊の花びらをゆでて、三杯酢で和えたものを菊膾という。「百分の一」はタイトルであるので、この作品には思い入れがあるのだろう。だが、「百分の一ほど昨日」とは、いったいどういう意味なのだろう。昨日を百で割ってその一、菊膾とは、その程度のものなのだと。とすれば、すべての昨日の出来事も
「百分の一」程度、取るに足りないものであるということなのかも知れない。

裏側にファスナーのある秋思かな  藤井なお子

ファスナーには、「点」「線」「面」と三種類があるが、裏側にとあるので面ファスナーなのかも知れない。裏側だから秋思であると言うのだとすれば、線ファスナーでいいのかも知れない。秋に感じるものさびしい思いを秋思という。ひとは、どんな些細なことからも、ものさびしさを感じるものなのである。

和服の着かた豊年の歩き方  藤井なお子

和服の着かたはあるのだろう。豊年の歩き方は千差万別だと思う。つまり、感情の表し方のことなのである。うつむいて歩くひともいるだろう。胸を張って歩くひともいるだろう。和服の着かたはひとつしかなく、豊年の歩きかたはひとによってそれぞれ異なる。そこの対比を表現したことが面白いと思う。

堰に寄るあぶく十月匂ひけり  藤井なお子

堰とは、水をせき止めるための構造物である。あくたやあぶくが寄ってくるのは当たり前のことなのである。そのあぶくから十月の匂いがしたのである。十月の匂いがしたと感じたのである。よく晴れた日の午後、散歩の道筋に堰があったのである。

鬱憤のいつの間にやら木の実降る  藤井なお子

怒りや恨み哀しみをおさえていたら、いつのまにやら木の実の降る季節になってしまった。それでいいのである。こころは隠さなければならない。誰もが忙しいのである。やらなければならないことは、いくらでもある。すこしも待ってはくれない。手が空いたなどと思った瞬間、怒りや恨み哀しみがよみがえってくるのである。季節は巡り、いつの間にやら木の実は降っている。

素十の忌こんな時にはワンピース  藤井なお子

男の私はワンピースを着たことがない。だから、どんな時にワンピースを着たくなるのかわからない。作者は、こんな時とはどんな時なのかわかってたまるかと思っているのかも知れない。女性に対しても、そう思っているのかも知れない。素十は、四十一年前の十月四日に亡くなっている。

体の調子はいかがですかと聞かれて、ふと、気が付いた。必ず、どこかが悪いのである。つまり、体調のよい日は皆無になってしまっているのである。体調が不完全であるのだから、当然、精神も不完全であるに違いない。体は、痛いとか、動かなくなるとか、すぐに解るが、精神の不調は自覚がない。書いてみれば解るのかも知れない。何も書くことができなければ健全なのか、嘘八百がいくらでも浮かんでくれば健全なのかよく解らないのである。老人になると、よいことなどひとつもないことだけは解っている。




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山岸由佳 拡大鏡 10句 ≫読む
上森敦代 月夜 10句 ≫読む
藤井なお子 百分の一 10句 ≫読む

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