神無月の好きになる狂歌
robin d. gill(敬愚)
拙著『Rise, Ye Sea Slugs!』の書名は、一茶の「うけ海鼠仏法流布の世なるぞよ」に因むが、その句の解釈は下記の『狂歌大観』に出た1740年の上方(大阪)の本に出た則本太山の狂歌を取り上げてから話します。
出雲路へ集りたまふ留主なれば我が神国に仏あり月
When they leave to caucus in Izumo, we merrily say Adieu!
In our Land of the Gods, this is Buddha-here-month too.
When they leave to caucus in Izumo, we are still blest
this month in Gods' Country, the Buddha is manifest!
歌体は平凡が、「神無月」と云わずに裏を返せば「仏有月」だよ、という発想は素晴らしい。二宗教両立という褒めたい寛容性を肯定、否や祝ふ首で、早くも教科書に入るべきと思いませんか。英訳二通りとも拙著『Mad In Translation』(2009)、また和書『古狂歌 ご笑納ください』(2017)より。
一茶の句「うけ海鼠仏法流布の世なるぞよ」の解釈は、今週の狂歌が詠む文化的現象を前提する。背後は「古事記」に伝わっている。この国(その頃の国名は大切ない)を征服した、海底まで来た新神等が派遣した女神に「忠誠を誓うか」と聞かれても、海鼠は答えすらしなかった。その無口にかんかん怒った女神は、匕首を抜いて海鼠の口その物をぎざ/\に切ってしまったが、一茶は、残虐の女神も出雲だから、安心して浮け!慈悲深い仏教が支配する月ですよ。それは、信濃人の大食いの一茶は、海鼠を見て食いたくなるか、浄土信者一茶に身受けすれば良いか、双方の意味か、よく判らないが、「ひらけゴマ」を思わす「うけ海鼠」の命令形は生かされている。思えば、上の狂歌よりも狂調なる。川柳はそう称された事もあるが、この一茶の句こそ「狂句」と称したい。
そう言えば、句の多くが「発句」と称されても、発句でない事を素直に受けて、俳諧の句を「俳句」と称した子規居士の句も、上記の狂歌と寄せれば面白い:
行く秋の我に神無し仏無し
一茶句では、日本の神と仏教は互いの弱点を上手く補っているかと思うが、また狂句と称したい上記の子規の句は嬉しいか悲しいかともかく勇気のある発言だと思う。英語的で言えば、睾丸持ちだった、子規(≫参照)は、お断りに置くが、神と仏を弄ぶ狂歌は無数あるを、神無月の首の神々と言えば、八割も同じ神を詠む。それは、一茶が「よき連れよ」もうそろそろ立ちたまえという句もある同じ神です。
偽のある世なりけり神無月 貧乏神は身をも離れぬ
It's Godsgone-Month and our world is full of falsehood, see
the God of Poverty remains here, as always, he's with me!
時雨がきちんと十月一日に降れば「偽りのなき世になりけり神無月」と始る定家の名歌の肯定を後句で否定する雄長老(1547-1602)の上記の狂歌は、狂歌をして名歌になるが、俳句に携わる諸君にお馴染みあるかどうか知りたい。教科書に定家の名歌が出る度に、貧乏神を詠むこの狂歌も一緒に載せた方が面白いと思うが、いかがでしょうか。
一茶の句はなんとなく十月になるが、神が去る一日よりも、出雲大神社に迎える一方、お寺で七日のお講が始まる芭蕉忌寸前の十日頃の句かという気がします。この記事を来年、もう少し深く追求したいから、その前に加えたい情報か解釈あったら、みたい。よろしくお願いします。
1 comments:
諸君、コメントなければ投稿も無意味です。ご遠慮なく、異見ください!日本で安い印刷がなくて、拙著は米国とUKとAustraliaのLightning Sourceで印刷されるから注文すると時間かかるが、その内容を拝見したければRobin D Gillと古狂歌で検察すれば、それだけでGoogle Booksにて100%可視だ。それを、拝見した上で、Amazonで書評すれば、一冊を只で手に入るかもしれない。日本の歌句史を書き直しているが、出版は既に二ヶ月もなるくせに書評はZERO.日本は死んでいる?拙著はつまらない?この全空は辛いよ!
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