2017-12-10

【週俳11月の俳句を読む】全句雑感 瀬戸正洋

【週俳11月の俳句を読む】
全句雑感

瀬戸正洋


無学な老いぼれが若者たちと話をする場合、知識を振りかざしたり、理屈をこね回しても困った顔をされるのがおちなのである。単純であること、自分を曝け出すこと、そうすれば、すこしぐらいは相手にしてくれる。若者たちは時間をそれなりに持っているので、老人とは、話の方向や角度が違っているのである。老人は自分たちの時間が少ないことを知っている。老人は、日だまりで傷を舐めあい熱いお茶でも啜っているのが分相応なのである。老人はやさしいのである。そして、そのやさしさは日々色褪せていく。

栗の秋八王子から出て来いよ  西村麒麟

栗が好きなのである。秋になると栗は爆ぜる。イガを破って自分の意思で出て来るのである。その栗に向かって「八王子から出て来いよ」と言っているのだ。もう一歩足を延ばして「私の住む街まで出て来いよ」と言っているのである。

林檎の実すれすれを行くバスに乗り  西村麒麟

果樹園の横を路線バスは走っている。対向車が来ると運転手は左側に寄せる。林檎の実はバスに接触するか否かぎりぎりのところに生っている。バスと接触すると傷ものになり商品として不適格となる。バスの運転手は加害者である。もちろん、乗客も加害者である。たとえ、林檎が道路に出ていても、林檎は被害者なのである。このようなことは、この世の中、いくらでもあることなのである。

我のゐる二階に気付く秋の人  西村麒麟

秋の人に気付いて欲しいと思っている。冬の人にも、春の人にも、夏の人にも気付いて欲しくないのである。「我のゐる二階」に気付くのは、たとえ、雪が降っているにしても、春風が吹いているにしても秋の人でなければならないのである。

一ページ又一ページ良夜かな  西村麒麟

良夜とは本を読むのにふさわしい夜なのである。途中で止めようと思っても、止めることのできないほど面白い本はある。だが、老人になると読書が続かなくなる。五、六ページ、十分程度がやっとなのである。つまり、通勤電車のなかの三駅間くらいがちょうどいい読書時間なのである。それも、何度も読み古した本がいい。新しい本は全く意欲が湧かないのである。

虫籠に住みて全く鳴かぬもの  西村麒麟

虫籠の中には鳴く虫もいれば鳴かない虫もいる。作者は鳴かない虫に興味があるのである。鳴かない虫が好きなのである。確かに、はじめの頃は鳴き声に聞き惚れたりもするが、時が経つととその鳴き声をうざいと感じるようになる。人も同じなのである。特に、老人。たとえ、言いたいことがやまほどあろうが、うつむいて黙っていた方がいいと思うし、そうしたいと願う。

秋の夜の重石再び樽の上  西村麒麟

漬け具合を確かめたあと樽に蓋をして、再度、重石を乗せたということなのか。山村暮しをしているが、野菜を漬けたことがないのでよくわからない。秋に収穫したものを漬けるのだから秋の夜にその作業をする。正しい生活には毒はない。

初冬や西でだらだら遊びたし  西村麒麟

日々の暮らしが嫌になったのである。東に住んでいる人だから西で遊びたいのだろう。本格的な冬になる前に、多忙な年末を迎える前に、すこしのんびりしたいと考えたのである。若者だからこう考えるのである。老人にしてみれば、日々の暮しそのものが既に「だらだら」なのである。

蟷螂は古き書物の如く枯れ  西村麒麟

あたりが枯れゆくに従って保護色の枯葉色になり死に至る。古い書物も同じようなものだといえばそんな気にもなってくる。色のはなしだと思うが、よくよく考えてみれば、書棚のすべての書物が死んでいるのである。だから、あんな色をしているのである。書棚の色をみれば一目瞭然なのである。読まない書物は死んでいるのである。箱入り袴付き初版本の創作集をいくらビニール袋で密閉して保存しておいても色あせてくるのである。

焚火して浮かび来るもの沈むもの  西村麒麟

キャンプファイヤーの残り火は美しさの極みであると思っている。規模は違うにしても夕方の焚火、日が暮れてからの残り火もことのほか美しい。原稿用紙、あるいは、紙の束を燃していると、炎はかぜを起こし火の付いた紙は浮かんだり沈んだり飛んでいったりする。

水洟やテレビの中を滝流れ  西村麒麟

観光地を巡る旅番組ではなく、これはサスペンスドラマなのである。滝の近くで人が殺される、暗闇の中での滝音。殺人に水洟はつきものなのである。生活が乱れていないときは気楽に観ることができても、乱れていると「悪」の部分が胸に堪える。サスペンスドラマは生活のバロメーターなのである。滝壺に落ちた死体は下流に向かって流れていく。

富有柿対角線の走りけり  小野あらた

「対角線の走りけり」が解らなかった。対角線上をひとが走るのか、対角線がひとのごとく走るのか。対角線のことばかり考えていると富有柿のことはどうでもよくなってくる。考えるのに邪魔な富有柿は食べてしまえばいいのだと思ったりしている。

柿切るや種の周りの透けてをり  小野あらた

多角形の隣り合わない二つの角の頂点を結ぶ線分を対角線だとしても柿を切ったとすればよかったのかも知れない。柿を四分の一に切ったのである。とすれば包丁の刃が走ったのだ。ところで、柿の種は確かに周りが透けている。誰もが知っていることを、あらためて言葉にされるとうまいなと思う。「細かいことが気になる」とは、サスペンスドラマの主人公Sの科白である。Sは、細かいことに気付くことによって事件を解決していく。作者も人生の諸問題をこのような「気付き」により解決していくのだと思う。作者の実生活も見てみたい。

くつついて力のゆるぶ玉の露  小野あらた

葉のうえの玉の露は、何かに触れるたびに、壊れたり、おおきくなったり、くっついたりする。そのくっついた玉の露を力のゆるぶとしたのである。壊れることを心配していた作者の緊張も、当然のごとく弛んでいる。

朴落葉まだらに雨の染み込めり  小野あらた

朴の落葉もよくよく見れば色の変化もあり濃淡もある。雨の日ならばなおさらである。傘を差して雑木林を散策する。雨の日の雑木林はこころを穏やかにしてくれる。都会に戻れば、雑踏のなかを掻き分け、人間関係に疲れ、金儲けに身も心もすり減らすのである。

赤のまま車の通るたび揺れて  小野あらた

道端に赤のまんまが咲いている。狭い道なのだろう。車が通るたびにその花は揺れている。当然、作者の脳髄の全ては赤のまんまであるから車が通るたびに作者自身も揺れているのだ。赤のまんまといっしょに。

バイパスの途切れてゐたる豊の秋  小野あらた

バイパスは途切れているとは工事中ということなのだろう。パワーショベルは田畑を均し、ダンプカーは砂埃をあげて走っている。秋の田をに置かれた一本の長方形の茶色い無粋なオブジェ。稲のよく実っていることが虚しく感じられる風景でもある。

空つぽのスコアボードや秋の蝶  小野あらた

河川敷、あるいは公園に隣接する野球場なのだろう。試合ははじまったばかりである。鉄枠のスコアボードには、回を追うごとに数字をはめ込んでいく。気が付くと、どこからか秋の蝶がグランドにまぎれ込みスコアボードの七回あたりにとまる。熱戦にはほど遠いのどかな休日の草野球である。

秋麗団子のたれの固まれり  小野あらた

非日常であるから、このようなことに気付くのだと書きたいが、この作者の場合は日常でも気付いてしまうのだろう。観光地のみやげもの売り場や参道ではない。もちろん、コンビニでもなく老舗の和菓子店のみたらし団子なのだろうと思う。うららかに晴れ渡る秋の日差しのもと、この団子を作者は誰とほおばるのだろう。

水瓶の縁に反りたる紅葉かな  小野あらた

寺社なのかも知れない。広葉樹の下におおきな水瓶があり、それを囲むような紅葉。その端のところまで枝が下りてきていて、その枝の紅葉が反っているのだ。反っているのだから、この紅葉はもうすぐ落ちてしまうのだと思う。

木の実降る神社の脇の停留所  小野あらた

テレビドラマや映画でよく見かける風景である。神社の脇に停留所がありバスを待っている。境内にも停留所のまわりにも木の実が無数に落ちている。踏みたくなくても踏んでしまうのだ。踏めば音がする。子どもの頃から思っているのだが誰も団栗を食べない。不味いのだろうと思いながら木の実を踏みカシャカシャという音を楽しんでいる。

冬銀河肢体ねぢれて球送る  安岡麻佑

ラグビー、あるいはサッカー、フットサルか。冬銀河の下、ナイター設備のあるグランドである。肢体ねぢれてとは不自然な姿勢ということだ。そんな姿勢で味方にボールを送ったのである。寒々としてはっきりとしない冬の天の川と不自然な姿勢で球を出すこととが、何となく繋がっているような気がする。

黙禱の眠りにも似て銀狐  安岡麻佑

祈禱とは神仏に禱(祈)ること。黙禱とは黙ってそれをすること。禱るとは自分自身を知ることである。この作品の場合は「眠りにも似て」が難しい。ひとは黙禱することで自分自身を知る。だが、銀狐は何もしなくても自分自身を知ることができるのだ。つまり、銀狐に比べてひとは、何と薄っぺらで浅はかなのであろうか。

死なぬ日の影を放ちて大枯野  安岡麻佑

時は止まっていない。死なぬ日とは生きているということなのである。自分に絡まりついているすべての影、もちろん、そのすべての光も放つのである。大枯野としたことで滅ぶという意味合いも含まれるのかも知れない。もしかしたら、死んでしまってもいいのかななどと思っているのかも知れない。これは、平凡な暮らしのなかであっても、どこかに隠れていて、いつでも顔を持ち上げてくる感情なのかも知れない。

木の葉雨犀の背の縮まつて皺  安岡麻佑

私は木の葉雨の音が好きだ。風が吹くといっせいに散るのである。山の畑で農作業をしているときなど思わず振り返ってしまう。この作品の場合は動物園あたりか。そして、聴覚よりも視覚。風吹いて木の葉が犀に向かって落ちてきたのである。そのとき、犀は動き、犀の背中は縮まり皺ができたように見えたのであった。

たまゆらの灯にもらふ火や初時雨  安岡麻佑

近世のたびびとのイメージである。たまゆらの灯とはみじかいあいだ灯っている火。だとすると、たびびとが寺社の燈明から火をいただき、その火を何かに利用するということなのか。冬のはじめ、ぱらぱらと降る雨のことを時雨という。たまゆらの灯もわびしさの範ちゅうなのかも知れない。

魚影ごとこほりて湖のうるはしく  安岡麻佑

これは作者のイメージなのだと思う。泳ぐ魚の群れが湖ごと氷ってしまう。それが湖としての正しい美しさであると。たとえば、水槽のなかに氷がはっていてそのなかの魚も氷っている。作者は、その氷のかたまりを誰にも渡したくない。たとえ、その欠片であっても渡したくない。そんな気持ちになっているのかも知れない。

寝台車冬の雲より遠ざかる  安岡麻佑

東の空にぽっかりと満月が出ている。冬の雲のかたまりがところどころにあり流れている。寝台車は西へと下るのである。冬の雲から遠ざかっていくのは寝台車とそれに乗っている作者。そして、気持ちの悪いほどの暖房のあたたかさと音とかぜ。

神の留守林間に夫見失ふ  安岡麻佑

見失うことが正しいのである。見続けていると疲れてしまう。見続けられている方も疲れてしまう。ほどほどがいいのである。都会の雑踏の中で見失ったのではない。林の中で見失ったのである。神様も出雲へお出かけになられたのであるから、これでいいのである。

繋ぐ手を入れ替へてカトレアを抱く  安岡麻佑

幸福であるということなのである。あなたの手も私の手も、あなたも私もカトレアも何もかもを抱きしめているということなのである。もちろん、作者の人生そのものも抱きしめているのである。そして、当然、抱きしめられていることにもなる。

陶土あたためる向かひに山眠る  安岡麻佑

七輪陶芸のことを知った。手間はかかるようだが素焼きと本焼きとがあるのだそうだ。この場合はあたためるとあるので素焼きなのかも知れない。向かいに山とあるので山村の一軒家なのかも知れない。山眠るとは冬の山を擬人化したものである。

三日月を京都タワーに乗せにけり  柴田健

自分のしたことではないが、自分がしたのだと思ったり、自分がしたのだと言ってしまうことは多々ある。たまたま、自分のいるところ、その季節によって、京都タワーのうえに三日月が乗っているように見えたのである。軽い虚勢のようなものは誰もが持っているし、それを張ることも、たまには必要なことなのである。それにしても、何故、京都には三日月が似合うのだろう。

紅葉散るほど進みゆく時間かな  柴田健

紅葉が散っているのを眺めながら、自分自身も確実に死に向かって時を刻んでいることを実感したのである。美しいものに出会うとひとは必ず、自身の死について思いを巡らす。たとえば、さくらの季節、あと何回自分はさくらを見ることができるのだろうかと思うように。

枯れ草や日差しは白くなる琵琶湖  柴田健

晴れていた琵琶湖がうすい雲にだんだんおおわれていく。そんな推移を表現しているのかと思う。「枯れ草や」が、日差しは白くにほどよく重なっているように思える。

鴨川の冷たき土の音を聞く  柴田健

鴨川の河原の土を叩いたら冷たい音がしたのである。どんな音がしたのかわからないが確かに冷たい音がしたと感じたのである。当然、思っていた音とは異なっていたのだ。ひとも土も何も変わらない。返ってくる動作、返ってくる言葉、返ってくる音、想定外のことばかりなのである。疲れることばかりなのである。だから、ひとと会うことは嫌なのである。

雪雲は子連れの竜となりにけり  柴田健

雪雲とは乱層雲のことである。乱層雲は動きが激しく不気味さを感じることがある。その変化の不気味さから子連れの竜を視てしまったのだと思う。子連れの竜と確信したのだと思う。もちろん、視た(確信した)のは一瞬であり、そのあとは当然のように大雪となったのである。

コーヒーを片手にマフラー忘れたる  柴田健

このコーヒーは、おそらく、コンビニのコーヒーなのであろう。マフラーをテーブルに置きボタンを押しコーヒーを落とす。ミルクを入れて蓋をして店から出ようとしたときにマフラーを忘れたことに気付いたのである。

炬燵からレディ・マドンナ聞きにけり  柴田健

ザ・ビートルズといえば様々な思い出が甦ってくる。この懐かしさを味わうことは精神的健康にとてもいいのだそうだ。炬燵から聞いたのであるからラジオとか意思に関係なく流れて来たのだと思う。「レディ・マドンナ」を耳がつかまえたとき、作者の耳には経験した中のいちばんよい演奏が思い出される。当然、その頃のともだちとの楽しい思い出も蘇ってくる。

残されし選挙ポスターごと寒く  柴田健

自信に満ち溢れた笑顔の人間の顔のポスターである。それが、選挙の終ったあとの事務所の机の上に置かれている。私のようなぼんくらの老人には何もわからないが、ホンモノの写真家の眼には「嘘」が視えているはずなのである。どう考えても温かいはずはなく寒いに決まっている。

月冴ゆやローマの信徒への手紙  柴田健

美術全集、あるいは歴史書のなかに「ローマ信徒への手紙」があり、ながめたり、あるいは読んだりしているうちに作者はその手紙を書いた人物になりきってしまっている。窓の外には鏡のように澄んだ月が見える。作者はローマの月にも思いを馳せている。

なぞなぞの答へサンタクロースかな  柴田健

子どもは真剣なのである。いろいろな手段で何が欲しいのかを訴えている。そんなことは父も母もお見通しなのである。そこには、やさしい眼差しがあるだけだ。クリスマスの夜、子どものまくらもとには、子どもの欲しかったものがサンタクロースからのプレゼントとして置かれる。


西村麒麟 八王子 10句 ≫読む 
小野あらた 対角線 10句 ≫読む
第552号 2017年11月19日
安岡麻佑 もらふ火 10句 ≫読む
第553号 2017年11月26日
柴田健 土の音 10句 ≫読む 

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