【2017年週俳のオススメ記事 4-6月】
ただならぬことあれこれ
村田 篠
「週刊俳句」は今年創刊10周年を迎え、4月16日に記念パーティを開催しました。その開宴前の会場で、興行のひとつとして行われた「歌仙 水の春」が、若い俳人の方々のご参加を得て、みごとに4時間で完成しました。詳細は第522号の「歌仙「水の春」始末記」をご覧いただきたいのですが、切れの良い展開具合は、36句を4時間で巻き終わるという即吟のスピードと無関係ではないと思います。捌きの佐山哲郎さん、8人の連衆のみなさん、お疲れさまでした。
1月から始まった「「俳苑叢刊」を読む」は、初めてその俳人の句に触れる、ということも多く、楽しみに読んでいます(シリーズは今も続行中)。このシリーズの面白さは、〈担当する俳人のどこに(何に)書き手が注目するか〉がそれぞれ違うというところで、もちろんどれが正解というのはありません。4月から6月にかけて掲載されたなかでは、作家の年譜を追いながら丹念に読んだ小誌・上田信治の「第10回 長谷川素逝『三十三才』 若者の人生の物語」 (第519号)、ほかにも村上鞆彦さんの「第13回 石塚友二『百萬』 粗雑と純粋」 (第522号)、山田露結さんの「第15回 栗林一石路『行路』 春の花屋になって」 (第524号)が印象に残りました。
びっくりしたのが、第526号の「まるごと『ku+ クプラス3号』(終刊号)」。雑誌をまるごと1冊、しかも「(終刊号)」です。終刊に驚きつつも読み応えはたっぷり、なかでも楽しかったのは「ku+メンバーピッ句で遊ぶ」という記事。「ピッ句」とは「新しい俳画の試み」だそうですが、この記事では、俳句に同人のみなさん自身が描いた絵を組み合わせて紹介、解説されています。絵が俳句の解題になってしまうこともありますが、それも含めて楽しむのが正解ですね。絵から想像される人柄にも思いが及びます。また、阪西敦子さんの「季語に似たもの 五郎丸と真田丸」は、現代の世相の中にある言葉から季語を連想し、日本語の「クセ」のようなものに話が展開していて、面白く読みました。
俳句以外の記事が多いのは「週刊俳句」の特徴ですが、第527号から「中嶋憲武×西原天気の音楽千夜一夜」が始まりました。草創期から後記にYou Tubeの動画を貼り付けて音楽を紹介していた「週刊俳句」ならではの企画です。それにしても、第1回で取り上げているザ・ビーチボーイズの「想い出のスマハマ」は彼らが思う〈日本〉的な楽曲で、私はてっきり「砂浜」を「スマハマ」と間違えてタイトルにしたのだと思いましたら、兵庫県の地名を入れ込んだ「須磨浜」なのだそうで。
不定期掲載の「成分表」は私の好きなシリーズのひとつですが、第530号には贅沢に3つ掲載。「人にはたくさんの自分に見えない何かがあって、変な服とか、心が勝手に泣いてしまう話とかを「当てて」みると、それがあらわれる、そういうことであるらしい。」(「似合う」より)
今年もたくさんの句集が話題になりました。そのなかの1冊、田島健一さんの『ただならぬぽ』をテキストに、田島健一論を展開したのが柳本々々さんの連載「『ただならぬぽ』攻略 」です。句集の周辺をぐるぐるして句集への読みの態度から書き始められた第527号の「攻略1 ふとんからでる」、第528号の「攻略2 おいおい多摩図書館に行くのにそんな装備でだいじょうぶなのか?」のただならぬ面白さに牽引されて、第534号の最終回「攻略7 奴らはどこへ行ったのか。探しているのさ、復讐の為に!」(掲載は7月)まで読了しましたが、この最終回の、息をもつかせぬ文体がなんだかすごい(内容もすごいのですが)。壺の中から言葉が湧いてあふれているようなこの文章を柳本さんに書かせたのが、柳本さんをこの場所へ連れてきたのが『ただならぬぽ』だとすると、それはやっぱり、ちょっとものすごいことなんじゃないか、と思います。
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2017-12-31
【2017年週俳のオススメ記事 4-6月】ただならぬことあれこれ 村田 篠
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