【2017年週俳のオススメ記事 7-9月】
選と弔い
福田若之
与えられた枠は、これからここに書かれるものにふさわしいものではないだろうということを、まずははっきりさせておかなくてはならない。この記事は、実のところ、いわゆる「オススメ記事」の紹介にはなりそうもない。
今年は、読者たちのための、あるいは、著者たちのための、卒のない、万遍ない回顧なんてしてやらない、と決めた。ここにこれから僕の書くものを読んでも、7月から9月のあいだに起こった出来事については、ほとんど何もわからないだろう。
だって、金原まさ子は6月27日には亡くなってしまっていたというのだから。
●
7月から9月の『週刊俳句』の目次を眺めていて、ああ、そうだった、と思った。7月30日更新の第536号から、月をまたいで翌週の第537号にかけて、金原まさ子の追悼特集が組まれている。
第536号の小久保佳世子による追悼文は、「金原まさ子に死は似合わない」と題されていた。死の似合わないひとだったからだろうか。僕は、『週刊俳句』のバックナンバーを眺めるまで、金原まさ子が亡くなってしまったことを、忘れていた。
僕は、「金原まさ子百歳からのブログ」の熱心な読者ではなかった。だから、ほぼ毎日1句を更新していたというそのブログの更新が途絶えたとしても、それが僕の生活のリズムやそのほかに影響をおよぼすというようなことは、なかったのだ。
それでも、長いあいだ、うちには金原まさ子の第4句集である『カルナヴァル』(草思社、2013年)が2冊あった。西原天気邸でおこなわれたこの句集の発送作業を手伝ったときに、1冊をいただき、その後、しばらくしてから、なぜかもう1冊が郵便で届いたのだった。
そのうちの1冊を、ようやく、読みたいというひとに譲ることができたのも、たしか今年のことだったように思う。けれど、それはほんとうに今年だったのだろうか。僕にはそれさえ、もう、ぼんやりとしはじめている。
●
いずれにせよ、そうした具合だから、ついなんとなく金原まさ子はまだ生きているというような気がしてしまっていたことも、無理のないことと言ってしまえば、そうなのかもしれない。
そして、そんな僕には、きっと、金原まさ子を追悼するということについて、何かを語る資格はないのだろう。けれど、だからといって、年末の回顧記事でこの7月から9月までを任された僕には、もはや、それを語らずにすませてしまうなどという資格は、なおさらないだろう。そして、そんな僕だからなのだろうか。『週刊俳句』の特集に寄せられた追悼文の数々に、僕は、ほんとうの意味で共感することが、まだできないでいる。
ひとつ、ただちに書き添えておく必要がある。それらはもちろん、それぞれに気持ちのこもった追悼文には違いないのだ。すなわち、「分かりました。ヒミツは守りますから」と書く小久保佳世子の身ぶりだけでなく、「「一度でいいからインターネットで自分の名前を見たい」」と題された第537号に掲載の追悼文に「金原さんが美しいと思われる男性についてうかがっていて、あのとき、金原さんは、山中伸弥教授のルックスを絶賛されていたのだけれど、その部分は原稿から削除されてしまった」という秘密を書いてしまわずにはいられない上田信治の身ぶりもまた、そうした気持ちの表れには違いないのである。
しかし、金原まさ子という書き手が、ほどほどにあたたかく、ほどほどに淡々としたこれらの文章によって見送られてしまうということに、なぜだろう、僕は、なにかやりきれないものを感じずにはいられない。
この感情はたぶん僕の身勝手なのだろう。それでも、どうしても。
●
第536号に「金原まさ子・週俳アーカイブ」がまとめられている。アーカイブ化とは、記憶の保存であり、だが、それゆえに、忘却の過程でもある。僕たちは、さまざまのことを、覚えるようにして忘れてゆく。喪というのは、簡単にいえばそういうことだ。僕たちは忘れない、ゆえに、僕たちは忘れる。
僕たち、などと書くことの身勝手を、やはり許してほしい。喪について、僕が、僕自身を含めることなしに書くことができることなんて、何ひとつとしてないだろう。
僕は、いま、この場所から、第537号に掲載された金原まさ子「『カルナヴァル』以降250句」を読み返そうと思う。すべての句を取り上げるわけには、やはりいかないけれど。その選は、同号に追悼文を寄せてもいる上田信治によるものだ。
●
金原まさ子を追悼するために、上田信治が読み返し、書き写している。追悼文でも句集から7句を拾い、「これらの句を自分は記憶し、語り継ぎたいと思っています」と書いている上田信治が、ですがそれだけではまだ足りないのです、と言わんばかりに。
僕の知るかぎり、上田信治という選者は、「好き嫌い」を越えた「いい悪い」があるとする立場から、それを自らの選の基準に据えようとしているひとだ。たとえば、『クプラス』創刊号(2014年3月)の座談会、「「いい俳句」を馬鹿まじめに考える」では、関悦史が「つまり俳人は「いい」についてはおおかた共通の認識があって、意見が分かれるのは「嫌い」で受け入れられない部分によるのではないか」と問いかけたのに対し、「さっき関さんが、一致しないのは「好き嫌い」の「嫌い」の部分じゃないか、という話をされました。でもそんな「好き嫌い」、はじめに抑圧しておいてくださいよ、とも思うんですよ」と返している(43-45頁)。個人的な事情は極力抜きにして、ドライに、クールに。それが、上田信治の普段の選の手さばきであるはずだ。
けれど、彼がたとえば次に示す句を選んだとき、その選は、ほんとうに上田信治個人の救いに関わっていなかっただろうか。
共に死のうと赤貝と菜の花と
いましぬとむこうもふゆかサムゲタン
あさってからわたしは二階の折鶴よ
小鳥死んだら春夕焼と入れかわれ
霊界行バス白い椿で満席よ
死にたてよ八重桜きて包みこむ
もちろん、選者としての上田信治が、たとえば、金原さんはいまごろ白い椿で満席の霊界行バスに乗っている頃だろう、などといった想像に身をまかせ、それによって救われるためにこれらの句を採ったなどとは僕も思わない。そういうことではなく、むしろ、金原まさ子が、その生前に、こうしたユーモアによって死を笑い飛ばしていたということに、上田信治の救いがあったのではないか。
「赤貝と菜の花と」の句が示唆するように、そして、「折鶴」の句や「小鳥」の句に明示されているように、金原まさ子にとって、死とは、何かその本性からして今とは別のものになることだった。それは消失ではなく、変身だった。だからおそらく、金原まさ子は、グレゴール・ザムザの虫への変身を彼の死と受け止めることで整理しようとする彼の家族に同意しただろう。ただし、その場合、虫はもちろん虫としての死によってもまた別の何かになるのでなければならない。それは「小鳥」が「春夕焼」と入れかわるようにして、なされるのでなければならない。
つまり、死とはまた転生でもあるのだ。第537号に掲載された柴田千晶による追悼文、「四度目の」に倣って、金原まさ子の「辞世の句」を記しておこう。上田信治の選には入っていないが、それは《転生三度目の脂百合ですよ》という句で、添えられた文章には「わたしは「やにゆり」」という一節も見える(「「金原まさ子さん 辞世の句。」」、『金原まさ子百歳からのブログ』、2017年7月5日更新)。
また、金原まさ子にとって、死は瞬間の出来事ではない。「八重桜」の句を見てみよう。死を通じての変身は、あたかも、羽化したばかりの昆虫が、すぐには飛びたつことなしに、そのやわらかい皮膚をそれ自身にとってふさわしいものにしていくのと同じように、その死後においてゆるやかに進む。《空蝉をゆさぶっている笑いかな》と詠嘆されるこの激しい「笑い」は、だからきっと、死を笑い飛ばすのと同様のユーモアに起因している。「死にたて」の状態はまだ途中経過に過ぎないのであって、たとえば「八重桜」に包まれることによって、ついに別の何かになるのだ。だから、「死にたて」とは、要するに、《永き日のまだ魚でなく鳥でなく》といった状態のことだろう。
さらに言えば、《雪の夜の痴れ虫となり徘徊す》、《絨毯にくるんで私が捨ててある》、《風のいちじく見にゆく途中すこし変》、《ハミングの男がふたり鹿になる途中》あるいは《血圧ゼロうすいむらさきクロッカス》といった句を読んでいると、書き手としての金原まさ子にとって、こうした意味での〈死〉――とまでは言わないとしても、〈臨死〉――は、日常茶飯事だったという気さえしてくる。
かつて、僕と生駒大祐は、古脇語というひとつの名のもとに身を隠して、あるアンケートの回答に次のとおり書いた。
金原まさ子が描き出しているのは、われわれ(それは金原まさ子本人も含む)にも知覚可能な、しかし、われわれの存在不可能な世界である。その中にあってわれわれに向かって情報を発信しているのは、言ってみれば、その世界における金原まさ子のアバターなのだ。彼女のアバターはその世界で、現実の物体の姿をした別のアバターたち(だが、それを操っているのは現実の人間ではない)との交流を繰り返す。故に、彼女の俳句はまぎれもなく前衛的でありながら、ほとんど思想的意味を持たない。いかにも古脇語が書きそうなことだ。思い返せば、古脇語という「アバター」を僕たちふたりで一度殺してみることにしたのも今年のことだったのだけれど、そのことはここでは脇に置いておくことにしよう。いま考えたいのは次のことだ。すなわち、引用した一節において、「アバター」を通じての「知覚可能な、しかし、われわれの存在不可能な世界」への主体の「発信」や「交流」として描きだされている出来事は、要するに、日常茶飯事としての〈死〉ないし〈臨死〉だったのではないだろうか、ということだ。
(「新調の原動者は誰か」、『クプラス』第2号、60頁)
ただし、ここでは、金原まさ子のこのたびの死が、実際にそのようなものだったかどうかが問題なのではない。実際、単純にして絶対的な「消失」と本性的な次元での「変身」とを、外的に区別する手立てはない(もし虫がほんとうに《ほんとは人ではりがね虫ではないのです》などと語りだすとしたら話は別だが)。そして、まさしくこの手立てのなさこそが、カフカの『変身』においては、グレゴールの家族の決断を可能にしていたのである。
だから、重要なことは、むしろ、上田信治が、金原まさ子の句を選ぶことを通じて、彼女が死をそうしたものとして捉えていたということを再確認し、思い出したに違いないというそのことなのだ。このことは、上田信治のように金原まさ子の句に親しんできた選者にとっては、あくまでも「再確認」にすぎず、決して目新しい「発見」ではありえないだろう。けれど、そこに上田信治の救いがやはりあったのだと、そう僕は考えてみたいのだ。
それにしても、この僕の欲求はどこから来るのだろう。いや、それは僕にとっては問うまでもなくはっきりしている。要するに、上田信治が金原まさ子の句を読むことによって救われたとみなすことによって、つまり、そのように上田信治を読むことによって、僕もまた、きっと、かろうじて、いくらかは救われたいと思ってしまったのだ。
しかしながら、この思いの由来はやはり僕にやりきれなさを感じさせるのと同じ僕自身の身勝手に違いないのであって、だからこの文章は、金原まさ子の死に対して年忘れの機会を与えられるによってしか向き合えない僕の、どこまでも身勝手な、僕自身のやりきれなさに対する弔いでしかないのだろう。
だから、僕にできるせめてものことは、今後も、金原まさ子に対して身勝手な読み手として振る舞いつづけることでしかないだろう。普段は彼女のことをのうのうと忘れておきながら、ほんのたまに、ふいに、それまで忘れていたことさえ忘れたかのようにして、都合よく思い出してみせたりする、そんな読み手として、僕は振る舞い続けるしかないだろう。
金原まさ子の名を見ると、僕は、あの発送作業を手伝った午後に、西原天気が何か僕の知らないミニマル・ミュージックを流したことを思い出す。僕は、そもそも、ミニマル・ミュージックなんてよく知らないのだけれど、そして、そのとき流れた旋律のひとつとして僕はもう思い出すことはできないけれど、とにかくそれは、たしかに何らかのミニマル・ミュージックで、それが発送作業をする僕たちの動きに、ひとつのリズムを与えていたということだけは、はっきりと思い出せるのだった。僕はそんなふうにして金原まさ子の名を読む、まったく身勝手な読者にほかならない。
そして、そんな身勝手な読者である僕は、たとえば、上田信治が250句を選ぼうとして、どうやら厳密に数えることができなかったらしい、ということに救いを求めたりさえしてしまうのだ。
実は、掲載されている句は延べ数で257句ある。そして、僕の数えまちがいでなければ、そのうち、紙媒体で公表された作品とブログに掲載された句との完全な重複は5組(《ウェットティッシュ百箱うかぶ春の海》、《絨毯にくるんで私が捨ててある》、《人のかたちに砂掘っている月夜の子》、《あさってからわたしは二階の折鶴よ》そして《見えるので葱のむこうを視てしまう》)、表記のみ違う句が1組(《星踏んだらし土踏まずの青痣》と《星踏んだらし土ふまずの青痣》のぶれ)で、これらをすべて重複とみなして差し引いたとしても、251句あることになる。もしかすると、上田信治は《藤がじぶんを白い足だと思いこむ》と《藤はじぶんを白い足だと思いこむ》を同じ句とみなしたのかもしれないが、この助詞の違いを違いとみなさずに、たとえば、《山羊の脳入りカリースープをイエズスと》と《山羊の脳入りカリーゴートをイエズスと》の名詞の違いを違いとみなしているのだとすれば、それは、仮に一見正当な基準によることに思えたとしても、おそらく、厳密には正当なことではないはずだ。
上田信治の選のドライさやクールさが、金原まさ子の死を前にして、この数えまちがいにおいてほんのすこしだけほころびをみせているような気がするとき、僕は、やはり、かろうじて、彼の選に救われる気がしてしまうのだった。こんなことを書かれるのは、選者としての上田信治にとって、もしかしたら、くやしいことなのかもしれないのだけれど。
実は、掲載されている句は延べ数で257句ある。そして、僕の数えまちがいでなければ、そのうち、紙媒体で公表された作品とブログに掲載された句との完全な重複は5組(《ウェットティッシュ百箱うかぶ春の海》、《絨毯にくるんで私が捨ててある》、《人のかたちに砂掘っている月夜の子》、《あさってからわたしは二階の折鶴よ》そして《見えるので葱のむこうを視てしまう》)、表記のみ違う句が1組(《星踏んだらし土踏まずの青痣》と《星踏んだらし土ふまずの青痣》のぶれ)で、これらをすべて重複とみなして差し引いたとしても、251句あることになる。もしかすると、上田信治は《藤がじぶんを白い足だと思いこむ》と《藤はじぶんを白い足だと思いこむ》を同じ句とみなしたのかもしれないが、この助詞の違いを違いとみなさずに、たとえば、《山羊の脳入りカリースープをイエズスと》と《山羊の脳入りカリーゴートをイエズスと》の名詞の違いを違いとみなしているのだとすれば、それは、仮に一見正当な基準によることに思えたとしても、おそらく、厳密には正当なことではないはずだ。
上田信治の選のドライさやクールさが、金原まさ子の死を前にして、この数えまちがいにおいてほんのすこしだけほころびをみせているような気がするとき、僕は、やはり、かろうじて、彼の選に救われる気がしてしまうのだった。こんなことを書かれるのは、選者としての上田信治にとって、もしかしたら、くやしいことなのかもしれないのだけれど。
●
0 comments:
コメントを投稿