【週俳1月の俳句を読む】
目出度さも不吉さも
岡田一実
正月というのは特別の気分がある。それが日常の延長であろうと目出度さがあるのは、少なくとも自分は生きて越年できたという感慨からだろうか。
よって「新年詠」は概ね目出度い。「目出度いご挨拶をしよう」という思い(と常識)が入るからだ。「目出度い気分」は「不吉な気分」よりヴァリエーションが少ない。トルストイも「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」と書いている。
まあ、それでも。それぞれのほのかな目出度さを味わうのも新年詠の良さかな、とも思う。
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波の裏大きく見ゆる女正月 山口昭男
波が巻かれるその内側をひとは「裏」と感じる。波の高さが高ければ高いほど「裏」は大きく広く見えるだろう。ざざんと大きな音を立てて波が打ち寄せる。その華やぎが「女正月」と響く。
神さまもとぼけて坐る仏の座 佐山哲郎
春の七草の「仏の座」とはコオニタビラコ(小鬼田平子)のことで、キク科に属する越年草の一つ。地面にぴったりとへばりついて円盤状に並んだような葉(ロゼット葉)のイメージからその名がついたようである。
掲句、一神教の考え方では戦争になりそうな景色だが、神仏習合の考え方ではその適当さがかえって目出度い。仏様が円座に座っている中に「なにか問題でも?」と澄ました顔で神様がいるところを想像して笑ってしまった。
初夢が赤々と口開けにけり 関 悦史
初夢の穴よりいまだ戻らざる 柘植史子
悦史句、「赤々」という色といい「口」という比喩といい、怪物みたいな「初夢」だ。喰われたらもう二度と戻ってこられない。そんな恐ろしさがある。
史子句、今度は「口」ではなく「穴」。やはり戻ってこられないのだ。「口」も怖いが「穴」も底がない感じがしてとても怖い。
どちらの「初夢」も不吉でいいな、と思う。
名乗る前の声の細さよ初電話 関根誠子
現代の日本人の多くは「もしもし」と言わなくなったと聞く。それでも、私などはなんと言って良いかわからず「もしもし」ととりあえず言う。相手にとって初めてかける電話だろうか(現代では登録してあると名前が出る。便利すぎて疲れる社会だ)。名前ははっきり言わないと伝わらない。でも「もしもし」は言ったということがわかればいい。声が「小さい」ではなく「細い」と表現されると可憐な感じも微かにして「初電話」の導入として相応しい気もする。
初富士や襞うつくしく遠ざかる 日原 傳
列車などから見た「初富士」だろうか。白銀の「初富士」の「襞」が近づいて遠ざかってゆく。そのスピード感が美しさを際立たせる。
当番表回して賀状取りにゆく 仮屋賢一
「当番表」を回すのは日常。そこにおまけのように組み込まれる「賀状」の存在。ささやかだな、と思う。でもそのささやかさが正月らしいハレの気分なのだろう。
去年掛けし薬缶の湯の沸きて今年 雪井苑生
「去年」の水が「今年」の湯になっている不思議。去年と今年は棒の如くつながっているのだから当然と言えば当然なのだが、若干の奇妙さが漂う。年またぎの湯はなんとなく縁起が良くて美味しそうな気がする。
■2018年 新年詠
2018-02-18
【週俳1月の俳句を読む】目出度さも不吉さも 岡田一実
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