2018-02-04

肉化するダコツ⑤ 街路樹に旧正月の鸚鵡籠 彌榮浩樹

肉化するダコツ⑤
街路樹に旧正月の鸚鵡籠

彌榮浩樹



蛇笏から極私的に学びとる俳句の秘密。
それをめぐる考察、その5回目である。

掲句は、第一句集『山廬集』の冒頭、昭和六年の<新年>七句中の一句である。
蛇笏を本格的に読み始めると、まず初めに目にする句のはずなのだが、何気なく通り過ぎてしまうのだろう、あまり知られていない句だ。

船のりの起臥に年立つ故山かな
へんぽんと年立つ酒旗や売女町
街路樹に旧正月の鸚鵡籠    ・・・掲句
一管の笛にもむすぶ飾かな
雲ふかく蓬莱かざる山廬かな
初鍬や下司がもちたる大力
わらんべの溺るるばかり初湯かな

いま読むと、語彙も文体も、古い、と感じてしまう句群だろう。
この中では、四句目、五句目、七句目が、比較的有名な「佳句」だろうか。
僕自身は、何度目かの通読の際に、掲句との”出逢い”を体験し、「ああ、これが俳句(の秘密)なのか!」と(勝手に)ある種の衝撃を受けた。そんな忘れられない一句である。

この句に見る俳句の鍵とは、<3D構造>だ。
場所、時間(時候)、存在物。
わずか十七音の言語空間の中に、この3つが揃うことで、<リアル>が湧出する。
そして、それは、広義の<触感>の発生である。
俳句空間の中に<不思議>な<無意味>を<物質的に存在>させる、つまり<触感>を発生させる、そのダイナミクスが、掲句に露呈している<3D構造>なのだ。

掲句には、いわゆる<描写>はない。「街路樹」の様態も、「鸚鵡籠」の仔細も、まったく表現されていない。「提がる」「懸かる」のような動詞もない。
3つの名詞と「に」「の」2つの助詞、実に単純な姿形の一句である。
しかし、僕はこの句に分厚い<リアル>を感じる。その<リアル>とは、本当らしさ・現実らしさというよりも、むしろ<不思議>な重量感・嵩の手応え、すなわち<触感>というべき手応えなのである。

<触感>について、補足する。
俳句作品とは、眼を使って読む、あるいは、耳を使って聞くものである。だから、<触覚>で感知するものではない。そう考えるひともいるだろう。
しかし、ここで言う<触感>とは、<触覚>だけで感知するものではないのだ。例えば、つるつるとした肌を見、しゃがれた声を聞くように、僕たちは視覚でも聴覚でも<触感>を感じながら日々生きている。これはごくごく平凡な日常の事実である。
だから、ここでいう<触感>とは、むしろ<原感覚>とでも呼ぶべきなのかもしれない。
もの(もちろん人も含む)との触れ合いは(飲食や性の営みをはじめ)僕たちが生きるうえで不可欠だ。生きるとは触れ合うことだ、と言ってもよいはずだ。
その、<触れ合う感覚>は、視覚・聴覚・・・の根底にある感覚だろう。すなわち<原感覚>。
そうした<原感覚>が機能的に分化・専門化したものが、視覚・聴覚・・・等の五感なのだ、とむしろ考えるべきなのかもしれない。

掲句は、そうした<触感><原感覚>と言うべき、嵩・重さ・物質感を強烈に感じさせる。
散文的にパラフレーズすれば、何てことはない(・・・か?むしろ、僕はこの句には、例えばデイヴィッド・リンチの映像作品のワン・ショットにも似た<狂気美>を感じるのだが、それはともかく・・・)、「で?」と問い返されたら言葉の返しようもない、意味も物語もない作品だが、ここには確かに俳句特有の味わい・手応えが強烈にある。

しかし、では、<3D構造>になるように言葉をちりばめればそれで俳句になるのか?といえば、もちろん、そんなことはない。
掲句の魅力の発生源は、まず何よりも「旧正月」と「鸚鵡籠」という、ありえない(想像を超えた)組み合わせ・出会いにあるはずだし、さらに、措辞の機微、語順の問題が(いつものように)ここにもある。

a 街路樹に旧正月の鸚鵡籠  ・・・掲句
b 旧正月の街路樹に鸚鵡籠
c 旧正の街路樹に提げ鸚鵡籠
d 鸚鵡籠旧正月の街路樹に

いわゆる<意味内容>は変わらないが、こうして操作して見比べてみると、俳句作品としての味わい、迫力、不思議さにずいぶん差があることがわかる。

bcのように「旧正月」をはじめに置くのが、いちばん順当な語順なのだろうが、語順を替えただけのbも、「提げ」という動詞を入れたcも、aに比べて説明的で不思議さが消える。
逆に、dと比べると、aの「街路樹」で始まり「鸚鵡籠」で終わる語順が、この句の<触感>のボリュームに納得性を与えているのがよくわかる。
音に注目すると、aの「街路樹」の冒頭の「G」音と「鸚鵡籠」の末尾の「G」音との平仄、さらに中七にある「旧正月」の「G」音が、一句全体の<触感>の重量を支えていることがわかる。漢字表記の重量感のバランスも含め、やはり原句aは<不思議>な<リアル>を感じさせる<完璧な>措辞なのだ。

それにしても、この街路樹とはどこにあったのか?なぜ鸚鵡籠が提げてあったのか?そして、鸚鵡籠には鸚鵡は入っているのかいないのか?意味内容には謎が多い。その謎を孕んだまま「旧正月の」のかぶさるこの「鸚鵡籠」には、温みが感じられるのだが、その不思議な感触はキリコやエルンストのようなシュルレアル絵画のようだ。おそらく、シュルレアルと俳句とは、<触感>においておおいに交差するはずなのだ。ここで実証はできないが、昭和6年ならば、蛇笏がシュルレアルをどこかで認知し意識していても不思議ではない。



























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