【週俳3月の俳句を読む】
大草原を遙かまで見渡し
原和人
乙未蒙古行 高山れおな
私はまだ、蒙古を訪れたことがない。昨年、師に同行しカザフスタンを訪れた。訪問前は、草原に遊牧民が羊を追う光景を想像していた。しかし、如何せんソ連邦の時代を経て、遊牧民の生活や草原の民としての風(習)俗は徹底的に消し去られていた。小麦畑などが延々と続くソホーズ・コルホーズの大規模な(国営)集団農場の風景ばかりなのである。生活習俗の破壊は、文化を破壊することだと、改めて深く感じた。逆に作者のこの句群を拝見すると、地政学的(geopolitical)に独立国を緩衝地帯として設けようとするロシアの政治・軍事的伝統が、モンゴルの文化や景を残したのだ。
さて、高山れおな氏の「乙未蒙古行」である。使われている言葉に立ち止まることの多い50句だった。まずは表題の乙未である。旅の時期のことと考えたが、乙未(きのとひつじ)の月は。ウィキペディアによると「西暦年の下1桁が1・6(十干が辛・丙)の年の6月が乙未の月となる。ただしここでいう月は、旧暦の月や節月(小暑から立秋の前日まで)を適用する場合もある」という。ということは2016年晩夏の蒙古行きということになる。句が詠まれた秋とは異なるが、多分緯度の差にて秋を表現したものかと考えた。乙未を年のことと考えると2015年(西暦年を60で割って35が余る年が乙未の年となる。)か・・などとあれこれ考えさせてくれる。1年も2年もたっての吟詠も考えにくいので昨年行かれたのか・・・乙未は方角のことだろうか?・・・浅学菲才の身、いずれきっちり調べてみたい。
句の鑑賞に移りたい。
この50句は、言わずもがなであるが、蒙古(言葉だけからいえば、今のモンゴルを中心に中国の内蒙古自治区など)を旅した際の吟詠である。どの句も「表題のついた句群の塊」から切り離して取り出してはいけないような力作であるが、鑑賞にあたり私の偏見に満ち満ちた独断で句を選ばせていただいた。
50句冒頭の句は
おろしや式ホテルに着きぬ秋の暮
ジャブの一句目、何ということのない報告句かと思いきや、「おろしや式ホテル」の表現であの石造りのロシア式ホテル、それも相当な年代物のホテルに泊まったことがわかる。大黒屋光太夫を主人公とする「おろしや国酔夢譚」の「おろしや」なのである。そして、この句、なぜか芭蕉の「此の秋は何で年寄る雲に鳥」を思い出させてくれる。秋の暮という季語が、旅の始まりにも関わらず作者の無常観のようなものを醸し出すのである。
13世紀村
蒙兵の姿(なり)もしてみてすさまじや
作者は、レンタル衣装で蒙古兵になったのである。多分、戦いに出る姿としてはあまりに質素簡便なものだったのではないか。その姿で戦いに臨んだ蒙古兵の姿を自分に重ねて、秋冷が募ってくる感覚を得たのだ。「すさまじや」と詠嘆の切れ字を最後に配することによって、蒙古兵の戦いぶりの「凄まじさ」まで思いを馳せるのである。
ゲルキャンプ 五句
夜寒さのゲル打つ雨か星か知らず
蒙古相撲の3句は、生き生きと描写していて、それはそれで楽しいが、最後に置かれるこの句は、ゲルを打つ雨を星がゲルを打っているのかもしれないと感じた。首都ウランバートルは標高1300メートルかつ日本の北海道よりやや北である。秋の暮ともなれば、その寒さはゲルの外に出ることも躊躇われるほどものと思われる。ゲルの中で、それを打つ雨の音を聴いている作者の心細さのようなものも感じられるが、星か知れず・・・と表現することにより詩に昇華させた。
テレルジ国立公園 五句
蒙古馬肥えて剽悍の性あらは
馬が肥える秋。それも背丈は小さいが、気性も荒く長距離をかける持続力をもった戦闘馬でもある蒙古馬が肥えるのである。元気になればますます乗り手が操るのが困難になる。剽悍の性とは未熟な乗り手であれば振り落とさんばかりの荒い気性ということだろう。また、餌をやろうとしても指ごと食いつかれそうなのだ。その勢いを持て余し距離を取っているが、また荒々しく草原の地を生き抜いた蒙古馬の剽悍さに納得もしている作者である。
ザナンザバル美術館 四句
多羅菩薩像眼差しの露凝らしたる
多羅は、観音菩薩が衆生を救えないと悲しんで流した二粒の涙から生まれた菩薩。右目の涙からは白ターラーが、左目の涙からは緑ターラーが生まれた。 彼女たちは「衆生の済度を助ける」と発願(ほつがん)し、観音菩薩は悲しみを克服したという。その多羅菩薩の眼差しに露のような涙が固まっているのだと解釈した。季語としての使い方に異論がある方もいるかもしれないが、私は肯う。作者の「ひと・衆生」に対する優しい眼差しが、多羅菩薩の涙を通じて感じられる。
チョイジン・ラマ寺院博物館 四句
昼月や仮面法会(ツァム)の幻追ふばかり
モンゴルはチベット仏教圏である。仮面法会(ツァム)もチベット仏教のラマ僧による秘教儀礼とのこと。独特の仰々しくも力強い仮面をつけた僧たちが踊る様子を目で追っている作者は、その仮面の向こうに、如来や菩薩の姿(らしきもの)を垣間見たのかも知れない。昼月は、薄く透けて見えるような儚さがある。歴史を翻弄し、また翻弄されてきた蒙古の古よりの歴史も作者は幻視したのである。
ハラホリンへ向かふ 5句
秋澄むや羊撒かれし花のごと
草原に、動物が撒かれていると言う表現には既視感(デジャヴ)がある。しかし、モンゴルの大草原の中を俯瞰して、その中に羊が方々に分かれて草を食んでいる景である。羊を素材にしながら、逆に雄大な自然を目の前に想起させてくれる。さらに直喩の「花のごと」と言う表現が大草原に散る白く美しい羊を讃えている。当たり前だが牛馬ではこうはならない・・EX牛馬撒かれし糞(まり)のごとでは、俗臭のにおい芬々である。秋澄むという季語が、またとても気持ちが良い。秋気の中で、大草原を遙かまで見渡し清々しく感じている作者も見えてくる。
ラプラン寺 四句
果てしなき讃仏乗のこゑ涼し
前書きにてエルデニ・ゾーの大仏教遺跡の説明がある。革命の凶変により破壊された寺院群の中で、奇跡的に残った僅か二つの寺のうちの一つがラプラン寺。この句は、そのラプラン寺にて、果てし無く続く仏(の教え)を讃えるお経を聞いている景。作者は、長い間その声に身を委ねている。(因みに、仏乗は、特に大乗仏教にて、仏と成ることのできる唯一の教えのこと。)その教えを唱えている僧たちの声を涼しいと感じているのである。お経の声の熱さ、仏教の教えへの情熱、に対する「涼し」と解した。
弾圧された仏教が、それでも辛うじて生き残り、衆生を救う教えを広めている。宗教の偉大さと強(したた)かさも感じられる。僧たちが通奏低音のように低く唱える声を聴いていると、作者自身も浄化されていくのである。
しら梅 名取里美
風光るほこほこ乾くもぐら塚
吹く風もまばゆく感じられる春の風だが、まだ少しの冷たさと尖りも併せもつ。そんな風の表現が「風光る」である。「春の風ほこほこ乾くもぐら塚」では予定調和と判断されかねないが、「風光る」の季語で緊張感を得られた。もぐら塚の乾き方と光る風と相まって気持ち良い一句となった。
龍天に登る青鮫引きつれて
悼金子兜太の一句である。ここにも、金子兜太ファンがいる。故金子兜太翁には、どれだけの弔句が捧げられたのだろう。それでも喪失感は一向に癒えない。
この句は、あの有名な「梅咲いて庭中に青鮫が来ている」の青鮫である。春まだ浅い2月20日に亡くなられたが、その死を惜しむがごとく、自分の句に呼び寄せた青鮫を連れて天に昇っていったのである。青鮫だけでなく狼も引き連れて行ったに違いない。
脈拍 近江文代
体温のからだ出てゆく雛の宿
一読、三島由紀夫の短編「雛の宿」を思い出した。雛の夜に招かれて訪ねて行った家での怪しくもエロティックで不気味な体験を綴った、三島には珍しい一編。この句は、雛の飾ってある宿に泊まった体験かもしれない。あの、白蝋のような雛の貌と対峙していると確かに身体から体温を奪い去られていくような感覚に見舞われる。この句は、理屈ではなくそのような感覚を味わうべき作品だろう。
たんぽぽになって足音聞いている
たんぽぽの句では、坪内念典氏の「たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ」が有名。坪内氏の句は滑稽さと、たんぽぽのぽぽ、と韻を踏んだリズム感とで成立している気持ちの良い句。 掲句は、自らたんぽぽになったのである。きっと「たんぽぽは、横を通り過ぎる足音を聞いてその足音から人物を想像している・・に違いない」そんな気持ちを、聞いていると断定して一句に仕上げたのだ。うっかりすると見過ごされてしまう一句かもしれない。
2018-04-15
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