2018-06-17

【週俳5月の俳句を読む】どこかぶっきらぼうな 小野裕三

【週俳5月の俳句を読む】
どこかぶっきらぼうな

小野裕三


浮氣女のやうに葉櫻の下をゆく  小山森生

浮気女とはどこかぶっきらぼうな言葉で、そこには軽い慈愛と侮蔑の視線が併存しているのかも知れない。浮気女であれば立場的には不安定なわけで、どこか根無し草めいている。けれども、それはそれで束の間の幸せもあるのだろうし、どこか明るくもある。そんな光と影の両面を孕む浮気女のような存在として、葉桜のある明るい光景を進む人がいる。桜の木はしっかりと大地に根ざして、今まさに蘇えるように青々としている。その木の下を行く人は、一瞬の木陰に入り、そこでは一瞬の何かの思いも過ぎるのだろうか。このような句全体の構成が生み出す光と影(あるいは緩と急)のコントラストが絶妙だ。

鹿の子も続いて沢を渡りけり  広渡敬雄

愛すべき小品、という印象の句。今回の連作は、山の中をその舞台としている。その行程において、この句はちょっとした小休止のような存在感がある。沢という小さな水の流れに出合い、人はそれを渡り終える。少し息をついたまさにその瞬間、その同じ沢を今度は小鹿が渡るのを見る。そこには、小さいけれども確かな気持ちの潤いのようなものが通う。それとともに、彼や鹿を含むすべてのものが山の育む大きな世界に属していることも感じさせる。それは、彼の連作の中で心地よい休止符のように作用しているし、そのようにやわらかな存在のあり方は、俳句にとってのひとつの理想形のようにも思える。

お早うもお休みも風に言う五月  藤田亜未

五月という時間の持つ魅力がぎゅっと詰まった句だ。すべての俳人が知るように、それはある種の聖性が宿る時間でもあるのだが、この句はそれを過剰にすら表現している。だが、その過剰さすらもまた、五月という時間の特性なのだ。この句は、そんな五月のある一日の時間の流れや、それを過ごす人々の暮らしも感じさせる。だがそこでの挨拶すらも、五月の風に溶け込んでいく。すべてのものに、五月という時間の持つ至高性は勝るのだろう。それが証拠に、挨拶が届こうと届くまいと、五月の一日は穏やかに終わる。明るさと心地よさに包まれた五月の聖性を、率直にこの句は提示している。

そら豆のその青ほどの祝ひごと  川嶋一美

美しい色が支配するこの句には、ふたつのフェーズが隠されている。第一は、集中のフェーズだ。冒頭に提示された蚕豆への視点は、色という純粋なものにいったん収束される。その収束の直後に、今度は第二のフェーズとしてさっと句の景色が広がる。おそらくは宴席なのか、祝い事を喜ぶいくつもの顔がひとつの色を取り囲む。この転調はきわめて効果的だが、この句はそれだけはない仕掛けを孕む。第一フェーズではリアルな色と思われたものが、第二フェーズでは比喩へと転換する。この手品めいた鮮やかな転換を、「その」という一拍の指示語が効果的に支える。ビジュアル的にもリズム的にも、巧みな仕掛けに充ちた句だ。

琉金の鈴鳴るやうに寄りきたる  川嶋一美

一見すると、ステレオタイプなことを詠んだ句のようにも見える。というのは、鈴の音を動物に対しての何かの合図にするのは、いかにもありがちなことにも思えるからだ。しかし実は、この句においてはこのことが微妙に違うものに置き換えられている。そもそも考えてみれば、金魚が鈴に集まるなんてことはなさそうだし、しかもここでは鈴は比喩でしかない。それらのことは結果として畳みかけるように作用し、この句におけるある種の透明性を生む。静かに流動する水と想像で鳴る鈴の音。どちらも人間には伝わらず、景色はあくまで穏やかで、ただイメージの細かな振動のようなものだけが句の中に広がる。微かな白昼夢のようなものを、作者はきわめて意識的にこの句で捉えている。


小山森生 浮氣女のやうに 10句 ≫読む
第577号 2018年5月13日
広渡敬雄 雪渓 10句 ≫読む


藤田亜未 風に乗る 10句 ≫読む
第579号 2018年5月27日

川嶋一美 蒼く 10句 ≫読む

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